セガワブログ

小説家、瀬川深のブログ。

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ようこそおいで下さいました。当ブログは小説家・瀬川深のブログです。


■ 重要なお知らせはこちら。随時更新していきます。

  筑摩書房より小説「SOY! 大いなる豆の物語」が刊行されました。(2015.3.14)
  小学館より小説「ゲノムの国の恋人」が刊行されました。(2013.8.7)
  すばる2013年2月号に小説「目の中の水」を書きました。(2013.1.4)
  すばる2012年6月号に董啓章「地図集」の書評を書きました。(2012.5.13)
  すばる2012年3月号に小説「東京の長い白夜」を書きました。(2012.2.19)
  すばる2011年9月号に小説「五月、隣人と、隣人たちと」を書きました。(2011.8.11)
  週刊文春にサーシャ・スタニシチ「兵士はどうやってグラモフォンを修理するか」の書評を書きました。(2011.3.11)
  朝日新聞出版より長編小説「我らが祖母は歌う」が刊行されました。(2010.11.5)
  短篇小説「イラン、イスファハーン、弟と」が掲載されました。(2009.12.6)
  群像2009年9月号にエッセイを書きました。(2009.8.8)
  朝日新聞にインタビュウの記事が載りました。(2009.6.10)
  The Sneaker誌6月号に紹介記事が載りました。(2009.5.25)
  Newtype誌6月号に紹介記事が載りました。(2009.5.20)
  ハヤカワミステリマガジン6月号に紹介記事が載りました。(2009.4.28)
  STRANGE FICTIONにインタビューが載りました。(2009.4.3)
  早川書房より長編小説「ミサキラヂオ」が発売になりました。(2009.3.19)


■ セガワの小説についてはこちらをどうぞ。
  2009年3月早川書房より刊行された長編小説「ミサキラヂオ」についての記事です。
  セガワの処女作、筑摩書房刊「チューバはうたう mit Tuba」についての記事です。
  そのほかの小説や文章、インタビューなどについての記事です。
  小説や文章書きにまつわる雑文はこちらで。
  詩も書いています。ちょっとずつご紹介しております。


■ 評論と言うにはおこがましい、日々見聞きしたものの感想をまとめてみました。
  読んだ本の感想です。小説が多いです。
  漫画の感想はこちら。いろいろ偏っていますが気にしてはいけません。
  音楽についての記事です。ライブの感想が多いです。
  映画の感想などはこちら。あんまり数多く見ていませんが。


 国内から海外までの旅行記や、旅行にまつわる話はこちらです。


 あんまり更新していませんが、本家のHPです。メールもこちらからどうぞ。


その他の記事も覗いてやってくださいませ。
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2013年8月18日(日)、東京ビッグサイトにて開催のコミティア105に参加しますよー。
スペースは「瀬川商會」な15bです。ぜひお立ち寄り下さい。


前回作製した「百篇小説」のほか、7/24に発売となりました「ゲノムの国の恋人」も少々持ってゆく予定です。サインなどもします。たまにご要望頂くんですが、その場で買った本じゃなくてもサインしますんで遠慮なくお申し付け下さい。
後はペーパー作りたいけど……作れるかな……。
なお「百篇小説」は今回のティアズマガジンにて御紹介頂きました。そちらもご覧下さい。プッシュ&レヴューのコーナーです。


それにしても、なんか毎度告知が遅いよな……。スミマセン。


追記:ペーパー作りました!当日会場にてお待ちしております。 (2013.8.18)
ツイッター始めましたーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ
http://twitter.com/#!/segawashin



















てめえこのやろうこんなえらそうなこと書いてたくせに!
http://segawashin.blog20.fc2.com/blog-entry-133.html
この日和見!トロツキスト!修正主義者!


……などという批判がばっしんばっしん飛んできそうで今から怯えているのですが、
ええその大変申し訳ございません。
ささやかなきっかけが変節の原因になったのだと自己批判しております。
やはりネットで大口叩くのはよくないですね。


実は先日、旧友たちと飲むことがあったのですが、
その中に堀江ガンツという格闘技世界で有名な編集者がおりまして。
石井慧にインタビュウしたり、クロアチアまでミルコ・クロコップに会いに行ったり、
前田日明にアバラ折られたりするのが仕事の人です。
実は小学校時代からのつきあいなのですが、その彼にツイッターを強力に勧められまして。
二時間かけてとっくり洗脳されているうちに、だんだんその気になってきたというのが本当のところです。


まあそういうわけで、自らの思想的過ちを認め厳しい自己批判と思想改造の結果
現在では前衛的革命的にツイッターに奉仕しておりますので、よろしければフォローしてみて下さいませ。
つぶやいてる内容はとってもくだらないですが。
 たいへんご無沙汰しておりました。ブログを書くのはなんと四ヶ月ぶりですが、セガワは元気にやっております。長編を書いたり論文を書いたり海外に行ったり、まぁいろいろ多忙だったとか言い訳はできるんですが、実際がところ書く気になればブログ書くぐらいの時間は捻出できるんですよね。ただ、どうもネットに文章を書くという行為について思うところがありまして。
 そのことについて語る前に、ちょっと寄り道をします。



 セガワがツイッターというものを知ったのはきっかり一年前のことです。昨年夏の衆院選で政権交代があって、そのときとある新聞社が自社のツイッターで「下野なう」といういささか軽率なツイートを飛ばし、「なう」っちゃなんじゃいと首を傾げたことを憶えているからです。そのときはちょいと調べて意味が分かって、ははァこれがオバマもすなるツイッターというものかと得心したていどにとどまっていたんですが、あれからほんの一年、ツイッターはえらく世間に広まってしまった感がありますね。じっさいセガワの周辺の人たちもずいぶんやっておりますし、芸能人や著名人がアカウント持っていることも珍しくはないですし。

 まあそれはそれとして。
 多分セガワはツイッターはやらないだろうなと思っています。

 理由は一つ、どうもツイッターは便利すぎるような気がしてならないのですよ。なににとって便利かというと、自分の文章を書くという欲求に対して。ツイッターの一回の文章量は140文字なんだそうですが、そうとなれば自分の文章は細かくぶつ切りにしてその都度発信してゆくしかないわけで、これが、どうも、セガワにはおっかない。端的に言えば、自分が文章に対して振り向けるエネルギーを細切れにして吸い取られちまうんじゃないかと思うんですよ。ツイッターごときでやる気をなくすようでは底が知れると言われればそれまでですが。
 もちろん、ツイッターの即応性やコミュニケーションツールとしての優秀さなどまでを貶めるつもりはないんです。ただ、そういう利点があってなお、ツイッターに文章を吐き出してゆくのは、セガワには、おっかない。まして、そこに何らかのレスポンスがあれば、これは紛れもなく「心地よい」感覚につながってしまうと思うんですよ。この心地よさは怖いですよ、自分の行為を認めてもらうということは赤ん坊に取ってすら快いことなんですから。それは、コミュニケーションやおしゃべりの場においてはとても有効に働くことなんでしょうけれど、因果なことに、モノ書かねばならぬセガワにとってはそれは少々阻害的な作用を及ぼすんじゃないかと危惧しています。
 少なくとも、モノ書くことを志している立場のかたであるならば、ツイッターはお止しになった方がいいんじゃないかと思いますね。思惟や情動はうかうかとさらけ出さず、ぐっと腹の奥に押し込めておいた方がいい。まして、ツイッターに文章を発信していってそれをまとめて小説にしようなど、そんなことは間違っても考えない方がいいと思います(*)。落書きをいくら描き散らしても、それをつなげて漫画にならないのと同じことで。

(*: 商売の方便としては大いにありだと思いますけれどね。140文字で綴られた恋の物語、とか、そろそろ出てくるんじゃないでしょうか)。


 結局のところ文章を書くという行為とは、頭の中でグニャグニャゴニョゴニョ蠢いている個人的な思惟のなかから他人様にお出しするに値する上澄みを注意深くすくい取って、もっぺん煮詰めて、余分な灰汁を取って言葉に変換するという作業なんじゃないかなぁと思っています。少なくとも、セガワにとっては。
 で、その原材料になるものは、精神の内奥にしずしずと濃縮されてゆく日々の生活と日々の思考の丸ごとなのであって、それが腐敗であるのか発酵であるのかはともかく、とまれせっかくの不健康な精神的衝動を細切れな手軽な自己表明によってガス抜きしたくはない。このあたりのことが、このところブログがすっかりご無沙汰になってしまった理由にもつながってゆくのですが。



 それにしても、ネットに個々人が振り向けるリソースって年々縮小してるような気がします。個人でホームページを作るのがはやったのがたぶん2000年前後、ブログはその3年後ぐらい、mixiのようなSNSはさらにその3年後ぐらいでしょうか。そして更に3年、ツイッターが普及。それぞれに要する労力は明らかに低下していますね。
 もちろん、新たなツールが出てきたことでそれ以前のツールが廃絶されてしまうわけではなくて、今なお面白いブログやHPを作ってらっしゃる方もたくさんいるんですけれど、多くの場合はそこまで熱心に自己を発信する理由がないのかもしれません。自己表現はもう少し手軽でいい。そういうミニマルな自己表現、おそらくは携帯メールのやりとりと言ったあたりですでに実現していたんでしょうが(自己表現の一環と考えれば即レスしないことにキレるという現象も理解できます)、その感覚を無制限に拡張するとツイッターに行き着くのかもしれません。
 なにしろメールと違って、つぶやくには相手すら必要ないんですから。



 まあそういうわけで、ほとんど読者もいないブログではありますが、更新はこれまでにもましてのんびりな感じになると思います。新作の告知などは必ずここでいたしますので、気長にお待ちくださいませ。秋までには一冊お目にかけることができるかと思います。
 あ、でも、こないだサンティアゴ・デ・コンポステラを巡礼してきたのでそのことはここで書こうと思います。FEVE (Ferrocarriles Españoles de Vía Estrecha; スペイン狭軌鉄道)がお好きな方は必見です。
 世田谷美術館で、川上澄生展を見てきました。
 実はこの川上澄生という版画家、セガワの母校である宇都宮高校の講師をしていたというささやかなご縁があります。あんまり在学中はリスペクトされていた記憶がないのですが、確かに校門のかたわらに記念碑がありました。なんとも不思議な作風に心惹かれて、高校の美術の時間にまねをして詩文入りの版画を作ったことを覚えています。川上澄生の実作には栃木県鹿沼市の川上澄生美術館でふれたこともあるのですが、今回の世田谷美術館の展覧会もずいぶん大規模なものでした。
 しかし、あらためて見てみると、なんとまあ不思議な作風の人ですね。昔の人のふるまいというのを現代の視点から理解するのは多少の難しさを伴うものだと思いますが、それにしても、川上澄生の懐古趣味というのは一種独特のものだったのではないかと思います。明治中期に生まれ、昭和初期から中葉までを主な活動の時期としていた川上にとって、明治初期の異国情緒というのはすでに過去の、生前のものだったでしょう。簡素な年譜だと騙されそうになるのですが、横浜で生まれたにせよ三歳のときには東京に転居しているということですから、しばしばモチーフにしていた横浜の異人街からして後付の経験なわけです。南蛮船来航のモチーフなどは、言わずもがなですね。今回の展覧会に出ていた作品の中に栃木県姿川村の子供たちが相撲を取っているという作品があって、へえ、珍しいなあと思ってしまったぐらいですから、いかに川上にとって「今ここにあるもの」が興味の対象から外れていたか分かると思います。これはもちろん、いい悪いの問題ではありません。川上自身もそのことには自覚的であったようで、虚構の風景や玩物に心惹かれる心情を率直に吐露しています。そのことを述べた文章も展覧会のあちこちに記してあって、これは貴重な収穫でした。
 こういう奇妙な、懐古趣味と言うにしたっていささか極端な川上の作品をたっぷり眺めていて、ふと連想したのは、俳人の西東三鬼です。片や木版画、片や俳句と表現の手段は違いますが、その性情には似通った物があるのではないかと思いました。年齢も五歳の違いですから、同時代を生きた二人だと言っていいでしょう。いささか我田引水に比較してみれば、生家が裕福であり恵まれた少年時代を過ごした点(偶然ですが母校は二人とも青山学院です)、青年期にさしかかったあたりで実母を亡くしている点、若いうちに外国生活を経験している点、そしてそれが必ずしも内発的な動機ではなかったらしい点、創作以外の生業を持っていて晩年まで二足の草鞋をはいていた点、そして、創作に取り組みはじめたのは若さも過ぎ去りつつある三十代に入ってからのことだったという点、いずれもよく似ています。
 ただ、そういった年譜上の符合という点に増して似ていると感じるのは、「いまここにあるもの」からの奇妙な距離感です。おそらくは昭和初期、今よりも濃厚に社会に存在していたであろう日本的な風物から、二人の創作物はとても遠いところにあるとセガワは思います。西東三鬼の俳句は花鳥風月とは無縁でしたし、川上澄生は徹底して同時代を描かなかった。

  水枕ガバリと深い海がある
  寒夜明け赤い造花がまたもある
  おそるべき君等の乳房夏来る

 西東三鬼の俳句は不思議です。日本語を扱っているのに、なんとも日本語の正則(そんなものがあるのならば、ですが)を逆なでするかのような言葉を選び、ごつごつした質感のままに継ぎ合わせて峻烈な風景を描く。そして、自己愛的な心情を吐露することがない。これは、例えば種田山頭火の俳句が、俳句の定型から逸脱しようとしながらも結局のところ湿っぽい日本的情緒を漂わせる点と好対照なのではないかと思います(この点、山頭火が今なお愛されている理由でしょうね。それに、日本人は自分に関わらない範囲での生活破綻者には比較的愛情が深いようです)。
 川上澄生と西東三鬼、この二人は、片や高校教師、片や歯科医師という実直な生活者の道を選びながら、その作り出す風景は日常から遠く離れていました。これはもちろん二人の資質によるのだろうなとセガワは考えますが、日常の中に鈍磨しそうになる爪を文章に突き立てなければならない身の上で、このような先人の姿は大いに励まされるところです。


 なお、この世田谷美術館、砧公園の一隅に建てられていて、この季節に訪れるにはなんとも気分のいい場所であります。ことに、かたわらにすっくと屹立しているケヤキがなんとも見事ですよ。


 西東三鬼についてはこの本がお薦めです。特に「神戸」「続神戸」というエッセイの奇天烈ぶりは抜群で、大戦末期に外国人だらけの神戸のアパートに住んでいた折りの見聞を綴ったもの。こういう日本人も居るんだ、という奇妙な感慨に耽ることができますよ。

神戸・続神戸・俳愚伝 (講談社文芸文庫)神戸・続神戸・俳愚伝 (講談社文芸文庫)
(2000/05/10)
西東 三鬼

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segawashin

Author:segawashin
2007年、「mit Tuba」で
第23回太宰治賞受賞。
ホームページはこちら。
www.segawashin.com
ツイッターはこちら。
http://twitter.com/#!/segawashin

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