ちょっと古い話になるのだけど、ゆえあって、生まれて初めて大衆演劇を見てきたよ。2012年5月4日、栃木県芳賀郡芳賀町の上延生ヘルスセンター。
この上延生ヘルスセンター、その極端な行きづらさもあって大衆演劇ファンには知る人ぞ知る存在である(らしい)。正直なところ、栃木の地元的にも知名度高いかっていうと……うーん。だいたい芳賀町の真ん中へんに劇場があると言ってもたいていの栃木県民はむしろ混乱するばかりだろうし、住所を頼りにGoogleマップなどを参照してみても周囲には田んぼがが広がるばかり。温泉場でも繁華街でもない田園地帯にぽつりと佇んでいる劇場というのは、それ自体がなんだか一つの神話みたいな感じなのだった。
で、実際に行ってきたのである。
公共交通の便が悪いとはいえ、車があれば宇都宮市内から30分ていど。朝方までは豪雨と雷雨で鬼怒川が増水しまくっていたが、少々迷いつつ上延生にたどり着いたときには晴れ間が広がりつつあった。予想はしていたけれど、細い農道を走っていると突然現れる公演の幟はなんだか不思議である。建物は昭和の御代に建った公民館みたいな感じ。
中に入ると、上がりかまちがいきなり大広間につながっていて不意を打たれる。玄関を開けたらいきなり居間という感じだ。もうすでに第一部のショウは終了していて、観客のおっちゃんおばちゃんがゴロゴロしていた。客の入りは30人程度、少々少なめなんだろうか。チケット売り場はその奥にあって、土産物売り場のきびきびしたおばちゃんが対応してくれた。公演にお弁当と飲み物が付いて2800円、しかし本日はもうお弁当が終わってしまったので2300円とのこと。映画に飲み物食べ物が付いたと考えれば、この値段はお値打ちなのではなかろうか。今回は時間の都合で入らなかったけど、ここには入浴施設も付いているのである。
お弁当代わりにカップ麺を買い、ズルズル啜りながら時間を潰していたら、13時から第二部のショウが始まった。だいたい大衆演劇というのは、こういう風に歌や踊りのショウと演劇の二部構成になっているらしい。
さて、このとき公演していた劇団は「新星劇 豊島屋虎太」という一座。まったく予備知識はなかったのだけど、座長も座員も若い一座だった。その生なのかどうかは分からないけど、全体的に芸の元気がいい印象で、歌と踊りを交えて代わる代わる20曲ぐらいやったんじゃないだろうか。言葉通りの盛りだくさん。歌も衣装も派手で、見ていてすごく景気のいい気分になれる。いいですね、こういうのは。
細かく演目をメモらなかったのが悔やまれるのだけれど、印象に残るのは、座長・豊島屋虎太の重低音(よく響く低音ってわりと貴重な気がする)、新海輝龍の「ブラジル音頭」のヤンチャな踊りと面の早変わり。若い女の子二人もかなり踊りが上手だとお見受けしたんだけれど、名前を忘れてしまったのが非常に残念。踊りの良し悪しを判断する素養は全くないのだけれど、日舞をやっていた同行ゆきさんによれば「全体的にかなりうまい」とのこと。プロにそういうこと言うのも失礼ですが。指先の動きがきれいなので、ついつい目が言ってしまった。それから、劇団責任者の大導寺はじめのとにかく達者な歌と踊り。所作のいちいちがぴしっと締まっていて、ビシバシ流し目が飛んできて、なんだか感動してしまった。自分が女性ならばゾクゾク来るんじゃなかろうかというかっこよさだったよ(後で調べたら超ベテランでしたね、この方は)。それから、第二部の締め、団員が桜の枝を持って一斉に踊り乱れる「桜踊り」は本当に素晴らしくて、「ニルヴァーナ!」と嘆息したくなった。惜しみないド派手さである。
15分程度の休憩をはさんで、いよいよ第三部はお芝居。演目を聞き取れなかったんだけど「利根の夜あらし」……と言っていた気がする。
あらすじはこんな感じ。舞台は川沿いの宿場町。船宿を営む東兵衛の娘お千代は、武家の跡取り息子の青木一馬と恋仲なのだが、身分違いの恋は一馬の母・姉に猛反対されている。実はお千代は東兵衛の実娘ではなく、ゆえあって兄・新兵衛の娘を引き取って育てていたのである。いっぽうお千代は町のごろつき空っ風の松五郎に横恋慕されているのだが、娘をくれという松五郎をすげなく断った東兵衛は松五郎に刺し殺されてしまう。松五郎は行方をくらます。ここまでが第一幕。
第二幕では、御千代は青木家に嫁入りしているのだが、なにかにつけて姑と小姑にいびられる毎日。そこに舞い戻ってきた松五郎が強引にお千代を連れ出そうとするのだが、それをとどめるのは松五郎の兄貴分?のやくざもの。やくざものは松五郎を追っ払うと同時に、不遇を託っているお千代をも連れだして、お千代の実父・新兵衛の元へと逃してやるのであった。ここまでが第二幕。
第三幕では、お千代は川の上流、新兵衛が渡し船を営んでいる村まで逃げてくる。底に、お千代を負って空っ風の松五郎がやってくる。しかし、それをまたもとどめるやくざもの。実は彼は、絶縁されているものの、新兵衛の息子でありお千代の兄なのであった。やくざものは松五郎と切り結び、激闘のすえ松五郎を倒す。そして、お千代の幸せを祈りひとり立ち去ってゆく。終幕。
シンプルなメロドラマだけど、非常に面白かった。こういう舞台での作法も随所に見られて興味深かった。たとえば、理解を助けるためか、セリフはおそらく意図的に繰り返される(例.『なぁお千代を嫁にくれねえか』『莫迦なことを、お千代をお前のようなごろつきに嫁にやれるものか』)。止め絵でサマに鳴る立ち位置が工夫されているようで、チャンバラもただがむしゃらに斬り合っているのではなくて、あちこちにストップモーションのような動きが入る。芸の善し悪しは例によって云々できる訳じゃないんだけど、東兵衛・新兵衛をダブルキャストでやった大導寺はじめ、やくざものを演じた豊島屋虎太と松五郎(キャスト失念)の掛け合いと斬り合いは特に見事だった。
よく考えてみれば、こういう大衆演劇というのも非常に不思議な芸風だと思う。和服に日舞ベースの踊り、和っぽい雰囲気に貫かれてはいるんだけれど、芸そのものは伝統的なモノにこだわっている感じでもなく、むしろ面白いものを惜しみなく取り入れていく感じがある。照明はディスコ風にもなるし、音楽はトランス風やラップ風にもなるし。ステージのベクトルが「オモシロイ感じ」にきちんと向いている世界である。小理屈をこねて客に褒めて貰えるジャンルでもないでしょうしね。芝居に「女は三界に家などなく……」などとまぁ今日的な基準ではいろいろまずそうな部分もあるんだけれど、考えてみればこういうのも日本的情緒とは親和性が高そう。日本文化と日本的情緒をかき混ぜて、ヤンキー的素養を接ぎ木した一種のハイブリッドなのかもなあ、と根拠なく思った。
それからもう一つ、大衆演劇というのはなぜかネットでの情報が探しにくい。もちろんホームページ持ってる劇団や小屋も多いし、個人のブログもそれなりにヒットするんだけれど、総じてのアーカイブに乏しいという印象だった。離合集散の激しい世界でもあるようだし、記録に残らない部分も相当多いんじゃないかと思う。個人的には、ちょっと勿体ないような気がしないでもない。
それにしても、こういう娯楽で半日をのんびり過ごすのは、考えてみたらなかなか贅沢な経験だった。また他の劇団も見てみたいなあ。できれば今度は温泉場とか、あるいは街中の常設小屋とかで。
この上延生ヘルスセンター、その極端な行きづらさもあって大衆演劇ファンには知る人ぞ知る存在である(らしい)。正直なところ、栃木の地元的にも知名度高いかっていうと……うーん。だいたい芳賀町の真ん中へんに劇場があると言ってもたいていの栃木県民はむしろ混乱するばかりだろうし、住所を頼りにGoogleマップなどを参照してみても周囲には田んぼがが広がるばかり。温泉場でも繁華街でもない田園地帯にぽつりと佇んでいる劇場というのは、それ自体がなんだか一つの神話みたいな感じなのだった。
で、実際に行ってきたのである。
公共交通の便が悪いとはいえ、車があれば宇都宮市内から30分ていど。朝方までは豪雨と雷雨で鬼怒川が増水しまくっていたが、少々迷いつつ上延生にたどり着いたときには晴れ間が広がりつつあった。予想はしていたけれど、細い農道を走っていると突然現れる公演の幟はなんだか不思議である。建物は昭和の御代に建った公民館みたいな感じ。
中に入ると、上がりかまちがいきなり大広間につながっていて不意を打たれる。玄関を開けたらいきなり居間という感じだ。もうすでに第一部のショウは終了していて、観客のおっちゃんおばちゃんがゴロゴロしていた。客の入りは30人程度、少々少なめなんだろうか。チケット売り場はその奥にあって、土産物売り場のきびきびしたおばちゃんが対応してくれた。公演にお弁当と飲み物が付いて2800円、しかし本日はもうお弁当が終わってしまったので2300円とのこと。映画に飲み物食べ物が付いたと考えれば、この値段はお値打ちなのではなかろうか。今回は時間の都合で入らなかったけど、ここには入浴施設も付いているのである。
お弁当代わりにカップ麺を買い、ズルズル啜りながら時間を潰していたら、13時から第二部のショウが始まった。だいたい大衆演劇というのは、こういう風に歌や踊りのショウと演劇の二部構成になっているらしい。
さて、このとき公演していた劇団は「新星劇 豊島屋虎太」という一座。まったく予備知識はなかったのだけど、座長も座員も若い一座だった。その生なのかどうかは分からないけど、全体的に芸の元気がいい印象で、歌と踊りを交えて代わる代わる20曲ぐらいやったんじゃないだろうか。言葉通りの盛りだくさん。歌も衣装も派手で、見ていてすごく景気のいい気分になれる。いいですね、こういうのは。
細かく演目をメモらなかったのが悔やまれるのだけれど、印象に残るのは、座長・豊島屋虎太の重低音(よく響く低音ってわりと貴重な気がする)、新海輝龍の「ブラジル音頭」のヤンチャな踊りと面の早変わり。若い女の子二人もかなり踊りが上手だとお見受けしたんだけれど、名前を忘れてしまったのが非常に残念。踊りの良し悪しを判断する素養は全くないのだけれど、日舞をやっていた同行ゆきさんによれば「全体的にかなりうまい」とのこと。プロにそういうこと言うのも失礼ですが。指先の動きがきれいなので、ついつい目が言ってしまった。それから、劇団責任者の大導寺はじめのとにかく達者な歌と踊り。所作のいちいちがぴしっと締まっていて、ビシバシ流し目が飛んできて、なんだか感動してしまった。自分が女性ならばゾクゾク来るんじゃなかろうかというかっこよさだったよ(後で調べたら超ベテランでしたね、この方は)。それから、第二部の締め、団員が桜の枝を持って一斉に踊り乱れる「桜踊り」は本当に素晴らしくて、「ニルヴァーナ!」と嘆息したくなった。惜しみないド派手さである。
15分程度の休憩をはさんで、いよいよ第三部はお芝居。演目を聞き取れなかったんだけど「利根の夜あらし」……と言っていた気がする。
あらすじはこんな感じ。舞台は川沿いの宿場町。船宿を営む東兵衛の娘お千代は、武家の跡取り息子の青木一馬と恋仲なのだが、身分違いの恋は一馬の母・姉に猛反対されている。実はお千代は東兵衛の実娘ではなく、ゆえあって兄・新兵衛の娘を引き取って育てていたのである。いっぽうお千代は町のごろつき空っ風の松五郎に横恋慕されているのだが、娘をくれという松五郎をすげなく断った東兵衛は松五郎に刺し殺されてしまう。松五郎は行方をくらます。ここまでが第一幕。
第二幕では、御千代は青木家に嫁入りしているのだが、なにかにつけて姑と小姑にいびられる毎日。そこに舞い戻ってきた松五郎が強引にお千代を連れ出そうとするのだが、それをとどめるのは松五郎の兄貴分?のやくざもの。やくざものは松五郎を追っ払うと同時に、不遇を託っているお千代をも連れだして、お千代の実父・新兵衛の元へと逃してやるのであった。ここまでが第二幕。
第三幕では、お千代は川の上流、新兵衛が渡し船を営んでいる村まで逃げてくる。底に、お千代を負って空っ風の松五郎がやってくる。しかし、それをまたもとどめるやくざもの。実は彼は、絶縁されているものの、新兵衛の息子でありお千代の兄なのであった。やくざものは松五郎と切り結び、激闘のすえ松五郎を倒す。そして、お千代の幸せを祈りひとり立ち去ってゆく。終幕。
シンプルなメロドラマだけど、非常に面白かった。こういう舞台での作法も随所に見られて興味深かった。たとえば、理解を助けるためか、セリフはおそらく意図的に繰り返される(例.『なぁお千代を嫁にくれねえか』『莫迦なことを、お千代をお前のようなごろつきに嫁にやれるものか』)。止め絵でサマに鳴る立ち位置が工夫されているようで、チャンバラもただがむしゃらに斬り合っているのではなくて、あちこちにストップモーションのような動きが入る。芸の善し悪しは例によって云々できる訳じゃないんだけど、東兵衛・新兵衛をダブルキャストでやった大導寺はじめ、やくざものを演じた豊島屋虎太と松五郎(キャスト失念)の掛け合いと斬り合いは特に見事だった。
よく考えてみれば、こういう大衆演劇というのも非常に不思議な芸風だと思う。和服に日舞ベースの踊り、和っぽい雰囲気に貫かれてはいるんだけれど、芸そのものは伝統的なモノにこだわっている感じでもなく、むしろ面白いものを惜しみなく取り入れていく感じがある。照明はディスコ風にもなるし、音楽はトランス風やラップ風にもなるし。ステージのベクトルが「オモシロイ感じ」にきちんと向いている世界である。小理屈をこねて客に褒めて貰えるジャンルでもないでしょうしね。芝居に「女は三界に家などなく……」などとまぁ今日的な基準ではいろいろまずそうな部分もあるんだけれど、考えてみればこういうのも日本的情緒とは親和性が高そう。日本文化と日本的情緒をかき混ぜて、ヤンキー的素養を接ぎ木した一種のハイブリッドなのかもなあ、と根拠なく思った。
それからもう一つ、大衆演劇というのはなぜかネットでの情報が探しにくい。もちろんホームページ持ってる劇団や小屋も多いし、個人のブログもそれなりにヒットするんだけれど、総じてのアーカイブに乏しいという印象だった。離合集散の激しい世界でもあるようだし、記録に残らない部分も相当多いんじゃないかと思う。個人的には、ちょっと勿体ないような気がしないでもない。
それにしても、こういう娯楽で半日をのんびり過ごすのは、考えてみたらなかなか贅沢な経験だった。また他の劇団も見てみたいなあ。できれば今度は温泉場とか、あるいは街中の常設小屋とかで。
スポンサーサイト
昨夏から書いておりました長編小説を書き上げました。
ヤッホウ肩の荷が下りたぜこれでほっと一息……、とはいかないのが小説の悲しいところで、ゴリゴリと推敲を重ねております。
お披露目の準備が整いましたら、また告知致しますね。
-------- ☆ --------
先日、シカラムータの新作アルバム『裸の星』がリリースされました!
ご承知の通り、セガワが大好きなミュージシャンの皆さんです。「チューバはうたう mit Tuba」が刊行された折り、一方的に作品を献呈するという暴挙に出たのですが、幸いにもその後度々応援させて頂いております。
音楽の内容を、ましてやシカラムータのような超個性派の音楽を言葉で説明することぐらい野暮なこともないとは思うのですが、これまでに増して濃い密度の演奏が詰まっていますよ。なんといっても感じ取れるのは、音が変容していく面白さですね。親しみやすい、鼻歌のように歌えるフレーズが生き物のようにモリモリ膨れあがっていく迫力と躍動感。しかもそれを強烈なビートが貫き、変拍子取り混ぜての複雑なリズムと混ぜ合わせて叩きだしてくるのですから。こういう面白い、しかも類例のない音楽というのは、本当に素晴らしいですよ。
ちなみに、細かいことはここでは書けないのですが、シカラムータの音楽は3歳児(セガワの姪)から還暦越えのおっちゃん(セガワの父)までを踊らせる音楽だということが実証されました。この目で見たので、まちがいありません。
そしてセガワも、本作にはほんのちょっぴりご縁がありまして。一つは、CDのライナーノートに寄稿させて頂いております。なんというか、もう、本当にありがとうございます。
それからもう一つ、一曲目に収録された「火の中の火」は、恥ずかしながらセガワがお名前を提供させて頂きました。「チューバはうたう」作中、Muzicanti Auriiが演奏する曲名です。もちろんこれを音楽化したのではなく、大熊さんの発案で、出来上がった曲にお名前を差し上げたのですが。
楽器にまるで縁のないセガワが、せめて脳内ででっち上げた「この世にあったらイイナの飛び切りかっこいい曲」は、いつのまにか実体を与えられて、本当にこの世に生まれ出たようです。なんとも不思議な、そしてとてもうれしいことです。
素晴らしいことだ、「かっこいい音楽」はいつしか実体を与えられ、「ものすごくかっこいい音楽」に進化してシカラムータから弾き出されている。空想が文字になり、文字は音楽になって、世界へと広がってゆく。空想しか能のない物書きにとって、これ以上の幸運ってあるだろうか?
そしてこの音楽が、またどこかの物書きの空想を刺激することがあるのならば。このイカれた世界もあんがい捨てたもんじゃないだろうな、と、筆者は本気で思っている。
ライナーノートの文章より引用しましたが、これが、セガワの偽らざる気持ちであります。
脳とか脊髄とか筋肉とかをちょっと刺激してみたいかた、気が付いてみたら滅多に体が熱を帯びることなどなくなっていたとお嘆きのかた、倦怠沈む日常にリズムとビートを注入してみたいとお思いのかた、シカラムータ「裸の星」を是非どうぞ。
ヤッホウ肩の荷が下りたぜこれでほっと一息……、とはいかないのが小説の悲しいところで、ゴリゴリと推敲を重ねております。
お披露目の準備が整いましたら、また告知致しますね。
-------- ☆ --------
先日、シカラムータの新作アルバム『裸の星』がリリースされました!
ご承知の通り、セガワが大好きなミュージシャンの皆さんです。「チューバはうたう mit Tuba」が刊行された折り、一方的に作品を献呈するという暴挙に出たのですが、幸いにもその後度々応援させて頂いております。
音楽の内容を、ましてやシカラムータのような超個性派の音楽を言葉で説明することぐらい野暮なこともないとは思うのですが、これまでに増して濃い密度の演奏が詰まっていますよ。なんといっても感じ取れるのは、音が変容していく面白さですね。親しみやすい、鼻歌のように歌えるフレーズが生き物のようにモリモリ膨れあがっていく迫力と躍動感。しかもそれを強烈なビートが貫き、変拍子取り混ぜての複雑なリズムと混ぜ合わせて叩きだしてくるのですから。こういう面白い、しかも類例のない音楽というのは、本当に素晴らしいですよ。
ちなみに、細かいことはここでは書けないのですが、シカラムータの音楽は3歳児(セガワの姪)から還暦越えのおっちゃん(セガワの父)までを踊らせる音楽だということが実証されました。この目で見たので、まちがいありません。
そしてセガワも、本作にはほんのちょっぴりご縁がありまして。一つは、CDのライナーノートに寄稿させて頂いております。なんというか、もう、本当にありがとうございます。
それからもう一つ、一曲目に収録された「火の中の火」は、恥ずかしながらセガワがお名前を提供させて頂きました。「チューバはうたう」作中、Muzicanti Auriiが演奏する曲名です。もちろんこれを音楽化したのではなく、大熊さんの発案で、出来上がった曲にお名前を差し上げたのですが。
楽器にまるで縁のないセガワが、せめて脳内ででっち上げた「この世にあったらイイナの飛び切りかっこいい曲」は、いつのまにか実体を与えられて、本当にこの世に生まれ出たようです。なんとも不思議な、そしてとてもうれしいことです。
素晴らしいことだ、「かっこいい音楽」はいつしか実体を与えられ、「ものすごくかっこいい音楽」に進化してシカラムータから弾き出されている。空想が文字になり、文字は音楽になって、世界へと広がってゆく。空想しか能のない物書きにとって、これ以上の幸運ってあるだろうか?
そしてこの音楽が、またどこかの物書きの空想を刺激することがあるのならば。このイカれた世界もあんがい捨てたもんじゃないだろうな、と、筆者は本気で思っている。
ライナーノートの文章より引用しましたが、これが、セガワの偽らざる気持ちであります。
脳とか脊髄とか筋肉とかをちょっと刺激してみたいかた、気が付いてみたら滅多に体が熱を帯びることなどなくなっていたとお嘆きのかた、倦怠沈む日常にリズムとビートを注入してみたいとお思いのかた、シカラムータ「裸の星」を是非どうぞ。
![]() | 裸の星 (2010/01/27) CICALA-MVTA 商品詳細を見る |
お寒い日々が続いておりますが@東京、皆様お元気でしょうか。セガワです。今日は冬至だったんで、型どおりに柚子買ってきて風呂桶に投入して、入浴して参りました。カボチャは食べ損ねましたけど。
どうやら例年になく寒い冬のようですが、寒冷地の出身であるせいか、なんだか久しぶりにキッチリ寒い冬というものを経験しているような気がします。こういう寒い冬は嫌いじゃないですよ、なんか容赦ない感じがして。きちんと寒さへの備えをしていないと簡単に体調が悪くなりますし。「僕は冬の餌食だ」というやつです(逆)。なんとなく頭の回転が良くなる気がしますしね(気のせい)。
先日は所属している合気道道場の忘年会があったんですが、帰り際に買い物がてら公園に寄ってみたら、あちこちに霜柱が立っていてなんだかうれしくなりました。しかし、午後も遅めの時間なのにわりかし霜柱が残っていたところを観ると、東京のお子様はあんまり霜柱を踏みつぶしたりしないんでしょうか。水たまりに張った氷採取と並んで、冬の朝のお手軽娯楽だと思っていたのにな。
とりあえず、冬の音楽(といっていいのかどうか)を一枚ご紹介。
そういえば、先日ちょいと諸般の事情で1950年代あたりのうたごえ運動の歌なんぞを調べていたのですが、このたぐいの労働歌に、季節を感じる歌はあまりないのではないかという印象を持ちました。同時期によく歌われていたらしい民謡(ロシア民謡なども含む)が、季節の叙情を強く歌うのとは対照的です。もちろんこのこと、セガワも大して詳しくないうえ、けっきょく商業ベースに残ることもなかった労働歌には満足なアーカイヴも手に入らないありさまですから、どのていど定量的なことが言えるのかは分からないのですが。
しかし、一定のイデオローグに裏打ちされた歌に、もっとも生活の身辺にあるはずの気候というものがあまり爪痕を残していない点、この仮説が正しいのならば、興味深いところです。
現代音楽の冬、に対置するわけではないのですが、世界最古の民謡の夏、を一つご紹介。
この「夏は来たりぬ (Sumer Is Icumen In)」という歌、無限に歌い続けられるカノンの形式であるようです。ちょっと興味があって調べてみたところ、英語版のWikipediaに歌詞が載っておりました。
これがまあ、眺めていると、何とも不思議な気分になりましたよ。13世紀に成立した歌なので、もちろん中世英語で書かれております。なんというか、もちろんシロウトの感想なのですが、まだ屈折語とゲルマンの雰囲気を色濃く残した言葉だなあと言う印象を受けました。言葉が800年を経てどのように変容するのか、実に面白いです。現代英語訳も引用致しますので、是非、お見比べを。þは、今ではアイスランド語にだけ残るthを現す文字ですね。
しかし、中世英語というのは今の普通のイギリス人には読めるものなんでしょうか?日本だと曲がりなりにも高校で古文をやりますが、よその国では古文に相当する授業ってどのぐらいやるんでしょうね。13世紀といえば鎌倉時代、方丈記や徒然草ですから高校の古文の知識でもギリギリなんとかなるぐらいかな。これが上代になると、飛躍的に難易度が上がるような気がしますが。
Sumer Is Icumen In
Middle English
Sumer is icumen in,
Lhude sing cuccu!
Groweþ sed and bloweþ med
And springþ þe wde nu,
Sing cuccu!
Awe bleteþ after lomb,
Lhouþ after calue cu.
Bulluc sterteþ, bucke uerteþ,
Murie sing cuccu!
Cuccu, cuccu, wel singes þu cuccu;
Ne swik þu nauer nu.
Pes:
Sing cuccu nu. Sing cuccu.
Sing cuccu. Sing cuccu nu!
Modern English
Summer has come in,
Loudly sing, Cuckoo!
The seed grows and the meadow blooms
And the wood springs anew,
Sing, Cuckoo!
The ewe bleats after the lamb
The cow lows after the calf.
The bullock stirs, the stag farts,
Merrily sing, Cuckoo!
Cuckoo, cuckoo, well you sing,
cuckoo;
Don't you ever stop now,
Sing cuckoo now. Sing, Cuckoo.
Sing Cuckoo. Sing cuckoo now!
どうやら例年になく寒い冬のようですが、寒冷地の出身であるせいか、なんだか久しぶりにキッチリ寒い冬というものを経験しているような気がします。こういう寒い冬は嫌いじゃないですよ、なんか容赦ない感じがして。きちんと寒さへの備えをしていないと簡単に体調が悪くなりますし。「僕は冬の餌食だ」というやつです(逆)。なんとなく頭の回転が良くなる気がしますしね(気のせい)。
先日は所属している合気道道場の忘年会があったんですが、帰り際に買い物がてら公園に寄ってみたら、あちこちに霜柱が立っていてなんだかうれしくなりました。しかし、午後も遅めの時間なのにわりかし霜柱が残っていたところを観ると、東京のお子様はあんまり霜柱を踏みつぶしたりしないんでしょうか。水たまりに張った氷採取と並んで、冬の朝のお手軽娯楽だと思っていたのにな。
とりあえず、冬の音楽(といっていいのかどうか)を一枚ご紹介。
![]() | 冬は厳しく~弦楽四重奏曲の諸相 II (1996/05/10) クロノス・カルテットサンフランシスコ少女合唱団 商品詳細を見る |
そういえば、先日ちょいと諸般の事情で1950年代あたりのうたごえ運動の歌なんぞを調べていたのですが、このたぐいの労働歌に、季節を感じる歌はあまりないのではないかという印象を持ちました。同時期によく歌われていたらしい民謡(ロシア民謡なども含む)が、季節の叙情を強く歌うのとは対照的です。もちろんこのこと、セガワも大して詳しくないうえ、けっきょく商業ベースに残ることもなかった労働歌には満足なアーカイヴも手に入らないありさまですから、どのていど定量的なことが言えるのかは分からないのですが。
しかし、一定のイデオローグに裏打ちされた歌に、もっとも生活の身辺にあるはずの気候というものがあまり爪痕を残していない点、この仮説が正しいのならば、興味深いところです。
現代音楽の冬、に対置するわけではないのですが、世界最古の民謡の夏、を一つご紹介。
この「夏は来たりぬ (Sumer Is Icumen In)」という歌、無限に歌い続けられるカノンの形式であるようです。ちょっと興味があって調べてみたところ、英語版のWikipediaに歌詞が載っておりました。
これがまあ、眺めていると、何とも不思議な気分になりましたよ。13世紀に成立した歌なので、もちろん中世英語で書かれております。なんというか、もちろんシロウトの感想なのですが、まだ屈折語とゲルマンの雰囲気を色濃く残した言葉だなあと言う印象を受けました。言葉が800年を経てどのように変容するのか、実に面白いです。現代英語訳も引用致しますので、是非、お見比べを。þは、今ではアイスランド語にだけ残るthを現す文字ですね。
しかし、中世英語というのは今の普通のイギリス人には読めるものなんでしょうか?日本だと曲がりなりにも高校で古文をやりますが、よその国では古文に相当する授業ってどのぐらいやるんでしょうね。13世紀といえば鎌倉時代、方丈記や徒然草ですから高校の古文の知識でもギリギリなんとかなるぐらいかな。これが上代になると、飛躍的に難易度が上がるような気がしますが。
![]() | 夏は来たりぬ (1991/08/05) ビリヤード・アンサンブルヒリヤード・アンサンブル 商品詳細を見る |
Sumer Is Icumen In
Middle English
Sumer is icumen in,
Lhude sing cuccu!
Groweþ sed and bloweþ med
And springþ þe wde nu,
Sing cuccu!
Awe bleteþ after lomb,
Lhouþ after calue cu.
Bulluc sterteþ, bucke uerteþ,
Murie sing cuccu!
Cuccu, cuccu, wel singes þu cuccu;
Ne swik þu nauer nu.
Pes:
Sing cuccu nu. Sing cuccu.
Sing cuccu. Sing cuccu nu!
Modern English
Summer has come in,
Loudly sing, Cuckoo!
The seed grows and the meadow blooms
And the wood springs anew,
Sing, Cuckoo!
The ewe bleats after the lamb
The cow lows after the calf.
The bullock stirs, the stag farts,
Merrily sing, Cuckoo!
Cuckoo, cuckoo, well you sing,
cuckoo;
Don't you ever stop now,
Sing cuckoo now. Sing, Cuckoo.
Sing Cuckoo. Sing cuckoo now!
ギタリストの桜井芳樹さんが、メルマガでミサキラヂオをご紹介下さいました。
ありがとうございます!
居酒屋とミサキラヂオ、なんか実にしっくり来る組み合わせじゃないかと思います。アドレスはこちらです、是非お目通し下さいませ。
前回はチューバだったから今度はギターだ……、というつもりもなかったのですが、実は「チューバはうたう」を通じて知り合うことの出来た徳永先生(こちらのライブを企画なさった方です)と雑談していたとき、「次はギターとヴァイオリンを出してよ」みたいな話題が出たのです。管楽器の次は弦楽器か、なるほどそれもいいかもなあ……、とそのときは思っていたのですが、そのあとミサキラヂオを書いていて、なぜかギターの曲がちょこちょこ顔を出すことに気付きました。一人でそっと聴くラジオには、管楽器の華々しい音よりは、ギターの静かな音の方がなんとなく似合うようです。そして物語の終盤で、ギターとヴァイオリンのデュオにライブをやって貰うことに決めました。
作中のことなので深くは触れませんが、彼らは土産物店主とほぼ同年代でいて、そしてまったく違った道を歩いている中年男というつもりだったのです。夏と冬に一つずつ、音楽を通じてミサキに外からの風を吹き込ませたかったですし。
巧くいっているかどうかはともあれ、さすが桜井さんの文章では曲目が看破されていて恐れ入りました。ヴァイオリンがマルティニークのバンジョーを模倣する……、というのは(実際に演奏できるかどうかは自信がないんですが)、ご指摘通り、KALIという素晴らしいバンジョー弾きの音楽を思い浮かべながら忍び込ませてみたいたずらです。
その桜井さんが、実に素敵なアルバムを出しておられたのでご紹介します。こないだ4月のシカラムータのライブに行った折りに買ってきました。
田村玄一さん、原さとしさん、松永孝義さんと組んだ"LONESOME STRINGS"というユニットのBLOSSOMというアルバムなのですが、ここで面白いのは、「はつ弦楽器」(要するにはじいて弾く弦楽器ですね)というくくりで、曲毎にいろんな楽器を組み合わせているところ。
ギターだけを組み合わせたユニットというといくつか思いつくんですが(ゴンチチとかアサド兄弟とかLos Angels Guitar Quartetとか)、いろんなはつ弦楽器を組み合わせると、音の響きがなんかすごく楽しくなるんですよ。スチールギターにエレキギターにバンジョーにウクレレ、確かに楽器の構造は基本的に一緒でも、音色は明らかに違いますからね。すっきり粒の立った音のウクレレに柔らかく歌うアコースティックギター、びよんと音の伸びるエレキ、個性派揃いの音が、なぜか食べあわせよく一つの歌を歌っているという感じです。シカラムータのアルバムに入っていたRajamati Kumatiも、まるで違ったサウンドになっていて気持ちいいです。
これからの季節、けだるい昼下がり、あるいは雨の日曜日、のんびり聴くのに最適のアルバムですよ。お薦めです。
ギターといえばもう一つ、ギターマガジンのブログでもミサキラヂオが紹介されておりました。ありがとうございます。どうやらFMラジオがお好きと言うことで手にとって下さったようで、それが呼び水になって読んで下さったのは本当にありがたいです。
ここで書いたことに通じるんですが、ちょっと違ったジャンルの方に小説を読んでいただけるのは、本当に嬉しいことですので。ほんのちょっぴり、モノを書くと言うことを信じてみたいという気分になれます。
ついでにKALIのアルバムもご紹介しておきます。
これ、「デパートの催事場でやってたリサイクルショップでかかっていたCDにびっくりして無理なお願いをして売って貰った」という、セガワにとっては非常に思い出深いアルバムなんですよ。
ありがとうございます!
居酒屋とミサキラヂオ、なんか実にしっくり来る組み合わせじゃないかと思います。アドレスはこちらです、是非お目通し下さいませ。
前回はチューバだったから今度はギターだ……、というつもりもなかったのですが、実は「チューバはうたう」を通じて知り合うことの出来た徳永先生(こちらのライブを企画なさった方です)と雑談していたとき、「次はギターとヴァイオリンを出してよ」みたいな話題が出たのです。管楽器の次は弦楽器か、なるほどそれもいいかもなあ……、とそのときは思っていたのですが、そのあとミサキラヂオを書いていて、なぜかギターの曲がちょこちょこ顔を出すことに気付きました。一人でそっと聴くラジオには、管楽器の華々しい音よりは、ギターの静かな音の方がなんとなく似合うようです。そして物語の終盤で、ギターとヴァイオリンのデュオにライブをやって貰うことに決めました。
作中のことなので深くは触れませんが、彼らは土産物店主とほぼ同年代でいて、そしてまったく違った道を歩いている中年男というつもりだったのです。夏と冬に一つずつ、音楽を通じてミサキに外からの風を吹き込ませたかったですし。
巧くいっているかどうかはともあれ、さすが桜井さんの文章では曲目が看破されていて恐れ入りました。ヴァイオリンがマルティニークのバンジョーを模倣する……、というのは(実際に演奏できるかどうかは自信がないんですが)、ご指摘通り、KALIという素晴らしいバンジョー弾きの音楽を思い浮かべながら忍び込ませてみたいたずらです。
その桜井さんが、実に素敵なアルバムを出しておられたのでご紹介します。こないだ4月のシカラムータのライブに行った折りに買ってきました。
田村玄一さん、原さとしさん、松永孝義さんと組んだ"LONESOME STRINGS"というユニットのBLOSSOMというアルバムなのですが、ここで面白いのは、「はつ弦楽器」(要するにはじいて弾く弦楽器ですね)というくくりで、曲毎にいろんな楽器を組み合わせているところ。
ギターだけを組み合わせたユニットというといくつか思いつくんですが(ゴンチチとかアサド兄弟とかLos Angels Guitar Quartetとか)、いろんなはつ弦楽器を組み合わせると、音の響きがなんかすごく楽しくなるんですよ。スチールギターにエレキギターにバンジョーにウクレレ、確かに楽器の構造は基本的に一緒でも、音色は明らかに違いますからね。すっきり粒の立った音のウクレレに柔らかく歌うアコースティックギター、びよんと音の伸びるエレキ、個性派揃いの音が、なぜか食べあわせよく一つの歌を歌っているという感じです。シカラムータのアルバムに入っていたRajamati Kumatiも、まるで違ったサウンドになっていて気持ちいいです。
これからの季節、けだるい昼下がり、あるいは雨の日曜日、のんびり聴くのに最適のアルバムですよ。お薦めです。
![]() | BLOSSOM (2009/01/26) LONESOME STRINGS 商品詳細を見る |
ギターといえばもう一つ、ギターマガジンのブログでもミサキラヂオが紹介されておりました。ありがとうございます。どうやらFMラジオがお好きと言うことで手にとって下さったようで、それが呼び水になって読んで下さったのは本当にありがたいです。
ここで書いたことに通じるんですが、ちょっと違ったジャンルの方に小説を読んでいただけるのは、本当に嬉しいことですので。ほんのちょっぴり、モノを書くと言うことを信じてみたいという気分になれます。
ついでにKALIのアルバムもご紹介しておきます。
これ、「デパートの催事場でやってたリサイクルショップでかかっていたCDにびっくりして無理なお願いをして売って貰った」という、セガワにとっては非常に思い出深いアルバムなんですよ。
![]() | ラシーヌ VOL.1&VOL.2 (2005/04/24) カリ 商品詳細を見る |
三木鶏郎作詞作曲「僕は特急の機関士で」。1950年の大ヒット曲だったらしい。
セガワは主に母親の英才教育が行き届いていたので幼児期から中尾ミエの歌だの中村八代だのの曲をみっちり聴かされてきたのだが、そこで知った曲。三木鶏郎の曲だとは当然知らなかったのだが。まさかネットで拾えるとは思わなかった。
20年以上建って改めて聴いて驚くのは、かなりスウィング・ジャズを意識した音作りにしていることや、当時おそらくスタジオ一発録りであったであろうミュージシャンたちのすばらしい芸達者さ(間奏で一瞬曲の雰囲気をがらっと変えるあたりとか、惚れ惚れする)。そしてなにより、三木鶏郎のものすごい才人ぶり。なにが怖いかって、おそらくコレ、あんまり大した時間をかけていないんじゃないかと思われる曲なんだが、「熱海湯の町恋の町 寛一お宮の昔から 愛し恋しの二人連れ 闇のトンネル通りゃんせ」とか、とにかく巧い。
多分この曲でいちばんの才気を感じるところはサビの部分、「トーキョー キョート オーサカ ウゥウゥウゥウゥ ポッポ」。地名を三つ連ねただけなのに、そこには四つの長母音と二つの短母音が入り、ぴたりと音楽に組み合わされる。この無造作が出来ることこそが、才能なんだと思う。
そしてこの曲、底抜けに明るい。 敗戦からたった五年で日本の一世を風靡した音楽の明るさと来ては眩しすぎて、なにか凄みを感じるほどだ。15年の戦争というのは、本当につまんない時代だったんだろうと思う。それが、帝大の法科を出て順調にエリートコースを歩んでいた三木鶏郎にまるで違った人生を歩ませた理由になったのかどうか、今の自分の知識ではよく分からないんだけど。
確か中学校の時に初めて聞いたレイ・チャールズの「旅立てジャック」。ウワァかっこいい、と当時思ったものだが、改めて観てみて、ガツンとやられた。
なんていかがわしいんだろう。なんて薄暗くて、なんて格好いいんだろう。良識ある大人がまゆをひそめた理由がよく分かる。これはアレだ、昭和の御代ならば「嫁入り前の娘に見せてはいけない」といった類の音楽だ。やっぱりマトモな大人っていうのはこういう音楽におもねっちゃいかんな。ガキどもと一緒にプレスリーなんか歌っちゃいけないのですよ。それにしても、アメリカで公民権運動が盛んになる前に、こんなうさんくさくてこんな素敵な音楽は確かに生まれていたらしい。
で、こちらはジェイミー・フォックスによるカヴァー。フォックスの芸達者ぶりと再現度の高さに惚れ惚れするんだけど、しかしここからはたった一つ、いかがわしさというものが拭い去られている印象を強く持った。
チリのフォーク・グループQuilapayunによる、「不屈の民~El pueblo unido jamas sera vencido」。あまたあるプロテスト・ソングの中でももっとも劇的なエピソードに彩られた曲の一つであろう。この素晴らしい曲はシカラムータのアルバム"Ghost Circus"に教えられた。不勉強を恥じるが、高橋悠治のCD「不屈の民変奏曲」の原曲であることも、こののちに知った(作曲はフレデリック・ジェフスキ)。
きわめてイデオロジックな背景を持つ曲であるのは確かだが、この曲の歌われたチリ共和国の現代史を思うに、それは遠い地球の裏側から云々することなどとても出来たことではないように思われる。アジェンデ政権がアメリカを後ろ盾にしたクーデターで倒されたとき、この曲を歌っていたビクトル・ハラは軍人に虐殺されている。そしてこの動画のキラパジュンが長い亡命生活から帰国し、民政が回復されるまでには20年近い時間がかかっているのだ。 かなり読み応えがあるが、こちらのリンク先が大変参考になる。
余談だが、昨年学会でサンディエゴを訪れたとき、郊外のヒスパニック系が多く住む、率直に言ってあまり豊かではない地帯にホテルを取ったのだが、そこの壁に描かれた壁画には"El pueblo unido jamas sera vencido!"と書かれていて、胸を突かれる思いがした。
Kid Cleore and the Coconuts で"Endicott"。ジャンミシェル・バスキア主演の映画"Downtown 81"で知ったグループ。ウワァうさんくさい!大好き!
それにしても、このセクシーダイナマイツなおねいちゃんがコーラスを入れるスタイル(上のHit the road, Jackもそうですね)には、なにかルーツとか名称とかがあるんでしょうか。大友克洋「アキラ」の5巻で、二度目に月をぶっ壊すアキラの前でネオ東京のチンピラたちがまさしくこういうステージをやっていたのが凄く印象に残ってるんだけど。