セガワブログ

小説家、瀬川深のブログ。

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 初めての一人旅をしたのは13歳の夏だった。1987年のことである。住んでいた宇都宮から盛岡の祖父母宅へ行く際、遠大な遠回りをしたのだった。



 日にちも時刻も覚えてはいないが、八月のことだったと思う。宇都宮駅の売店でなぜか「ビッグコミック」を買ったことを覚えている。なんだかよくわからない背伸びだったのだろうか。「土佐の一本釣り」などが連載していたころだった。
 当時、八甲田という急行が走っていた。上野発青森行きの夜行列車である。出稼ぎや集団就職などと絡めてさまざまに語られた、象徴的な列車である。なにしろ急行券とはせいぜい千円ちょっとなので、「北」に安く行くとなれば、まずはこの列車だった。あのころの長距離列車というのはホコリくさいというか油くさいというか、とにかく独特のにおいがした。確かJNRのマークが入った扇風機が天井で回っていた。減灯した車内で、わりと熟睡できた記憶がある。びびりながらもふてぶてしかった年頃のことである。この後、東北や北海道に行くために「八甲田」には何度か乗ることになったが、そういう未来のことを想像するには少々若すぎる年頃のことである。自分の人生にもささやかな記憶を残した「八甲田」が廃止されてしまうのはこの10年後のことなのだが、それを当時の自分が予期できるはずもない。 
 当時の時刻表は手元にないけれど、仙台駅に着いたのは、夏といえどまだあたりは薄暗い時刻だった。困ったことに、次に乗り継ぐ仙石線の始発までずいぶん時間が空いていた。ホームのベンチにごろ寝してうたた寝していたが、誰かに見とがめられやしないかと気になって仕方なかった。13歳というのは、そういう年頃だ。この22年後、この街のどこかに暮らしている女の子と結婚することになるなど、想像することもなかったころのことだ。



 ようやく動き始めた仙石線に乗る。仙台の市街を抜け、松島湾をかがるように走って石巻に至る列車である。このときに軒先をかすめた家に住んでいる少年と、自分の妹が18年後に結婚することになるのだが、このときの自分がそんなことを考えるはずもない。覚えているのは、前谷地という駅で大船渡線に乗り換えるのにえらく待たされたこと。まだ朝の7時か8時ぐらいで、メシにも時間つぶしにも苦労した。駅の周りをうろついても食堂が一軒、店を開けたばかりといったところ。昭和の末期、コンビニやファーストフードが日本の津々浦々を埋め尽くすにはまだしばらくの間があるころだった。酒屋兼雑貨屋のようなところであんパンと牛乳かなにかを買うのが精いっぱいだったように思う。
 ようやく大船渡線に乗り、大船渡の盛駅を目指す。この大船渡にお住まいの山浦玄嗣先生が土地の言葉を詳細に研究し、ケセン語という一言語として確立し、この14年後に仙台市で開かれた日本小児科学会の山浦先生の講演でその素晴らしい成果を聴いて大いに感激することになるのだが、もちろんこのとき、自分の未来にそんな素敵なことが待ち構えているとは想像もしていなかった。率直に言ってこのときに通り過ぎたはずの志津川、気仙沼、陸前高田といった町のことは、余り強い記憶にない。たくさんの海を見たはずだが、情けないことに、それも記憶にない。盛の駅から陸鉄道南リアス線に乗ることがこの旅のいちばんの目的で、そのことで気もそぞろだったのかも知れない。
 つい3年前の1984年に開業したばかりの、新しい列車である。折しも前年に野岩鉄道や会津鉄道が開通し、第三セクターという言葉がまだ耳新しく、死に体となっていた国鉄に比してどことなく輝かしく感じられた時代である。19世紀末、この土地に甚大な被害をもたらした明治三陸大津波ののちに計画され、そののち開通まで長大な時間がかかり、100年の悲願とまで言われていた線路だが、当時の自分がそのへんの経緯を十分に理解していたわけではない。海沿いを走りはするが、期待するほど海が見えないのがちょっと残念だったことを覚えている。
 途中、釜石で国鉄山田線に乗り換えたのだか、直通列車があったのだか、よく覚えていない。確かなのは、どこかの駅でちょっと奮発してアワビとウニの入った駅弁を買ったことで、ときおり車窓に現れ出る海を心待ちにしながら弁当を食った。思い出の中はいつも晴天らしいやと言ったのは確か永井荷風だけれど、記憶に残る三陸の海は、崖と崖とに狭められてやけに狭くて、やたらに青くて、そしておそろしく天気がよかった。本当にこのときの記憶であったかどうか訝しみたくなるほど美しいのだが、この一帯を訪れたのは今に至るまで、この一度きりである。



 宮古からは、北リアス線に乗り換えられる。せっかくだからこっちにも乗ってみたいなぁと思ったことを覚えているが、自分が目指すのは盛岡だった。宿願叶って久慈から宮古まで北リアス線に乗るには、さらに15年待たなければならなかった。宮古から盛岡までの車中、だんだん辺りは暗くなってきた。今思い出すに凄まじい路線だった。この鈍行列車が三時間をかけて走る盛岡までの百キロメートルには、事実上、一カ所も平地がない。日本がいかに山国といえども山がここまでひとつらなりの塊となって迫ってくる一帯は本当に稀であって、このことはこの15年後、岩泉線を乗車して岩泉まで行き、盛岡までの長距離バスに乗って改めて認識することになる。
 盛岡についたときは、もうすっかり日が暮れていた。祖父母がまだ元気なころだった、酔狂な旅をした孫を歓迎してくれた。



 今になって、24年前の夏の一日のことを思い出す。初めての一人旅をした土地であって、その記憶が美しかったがゆえに、僕はあの土地に限りない愛着を覚えます。
 僕は、三陸の復興を、心よりお祈りいたします。微力なれど、できる限りの助力をしますので。





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 英語で言うとHawaii in my heartですね。ハワイ語で言うとHawai'i ma loko ko'u pu'uwai. 合ってるのかなこれ。
 まあそれはそれとして、ハワイの学会に出席して参りました。実は、これが人生初ハワイであります。そもそもあんまりハワイに対する思い入れ(=ハワイ愛)が強くはなかったんですが、よもや仕事で行くことになるとは思いませんでした。


 振り返ってみると、自分の人生とハワイとの最初の接点は、「常磐ハワイアンセンター(現・スパリゾートハワイアンズ)」ではなかったかと思います。昭和の末期ごろまでは北関東のあちこちで目にすることができた「常磐~」の看板を目にするたび、なんだか不思議な施設だなあと思っておりました。結局行くことはなかったんですが。これは自分より若い世代の人々には分かって貰いづらいことかもしれませんけど、バブル以前、要するに昭和末期までは、海外旅行って本当に高嶺の花だったんですよ。一ドルが二百円以上したこともあるんですけど、それ以上に海外旅行への心理的なハードルが高かったんじゃないでしょうか。少なくとも今みたいに、ちょっと連休に海外へとか修学旅行で海外とか、そういう社会の雰囲気はありませんでしたから。
 次にハワイとの接点……と言えるかどうか、ともかくハワイ的なモノにふれたのは、吉田戦車の漫画「伝染るんです。」でしょうかね。メインキャラのかわうそ君が、なぜかハワイに異常な執着を見せるくだり。連載時期は自分が高校生のころですから昭和~平成の端境期、要するにバブル末期のことでした。今にして思えば、あれは「ハワイをギャグの一環として捉える」さきがけだったかもしれませんね。これは考えてみれば面白いことで、ハワイに対する過剰な憧れが日本人にある(あった?)ことを前提としなければ成立しないでしょう。たぶんこのセンスは、最近だと増田こうすけ「ギャグ漫画日和」のOPあたりにもつながっていく気がします。
「白い波とワイキキビーチ 浮かぶ浮かぶディナークルーズ 忘れられない思い出 ココナツの香り あぁハワイ ギャグ漫画日和!」

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 まあ自分自身は大学に入ってからも社会人になってからも相変わらずハワイとの縁はなかったんですが、無理をして探せばハワイとの接点がないこともないです。特に、音楽を通じて「ハワイ」はちょくちょく顔を出していましたから。
 たとえば、これはかなり早い時期の経験になるんですけど、大学に入ったころ、オリエンテーションとやらで九十九里浜に行きました。ここの施設で見た「九十九里音頭」なる曲の歌詞が実にひどかったんですよ(無論誉め言葉)。
「うちの隣はアメリカハワイ 奥の茶の間は東京だ みんな来い来い 九十九里浜へ 月も裸でフラ踊り さて ヤッサヤサヤサ ヤサホイのホイ 九十九里だよ ヤサホイのホイ」
 ああもうなんというか、実に濃厚な「(日本人にとっての)ハワイ愛」成分が検出できていいですね。ハワイ愛さえあれば現実のハワイなんぞ知らずとも充分!という勢いの詞が素晴らしいです。「フラ踊り」と呼称しているのも興味深い。同様の例は「ハワイ小唄」などにも見られますね。
 自分が大学生だったころに日本で突如有名になったポンチャック界のえらいひと、李博士(イ・パクサ)のビデオ「李博士の八十日間世界一周ポンチャック」の中にも、ワイキキビーチかどっかにカシオトーンを持ち込んでノリノリで歌いまくるパクサが出てきました(ついでにおねいさんにオイルを塗るご機嫌なパクサも)。パクサと明和電気の奇跡的なコラボ「俺は宇宙のファンタジー」でも、冒頭の歌詞は「かわいいあの娘追いかけて 気がつきゃハワイ(ヒー!)」ですからね。パクサとハワイはなんか相性がいいんでしょうか。これも「ハワイをギャグ」の一種なのかな。

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 音楽といえば、六年ぐらい前に出た「アロハイサイ」というアルバムも良かったですね。沖縄とハワイ、人的なつながりも多ければ気候も近い二つの土地の音楽をイイ感じにミクスチュアした傑作アルバムです。中でも、カヴァーされてる「ハワイ音頭」はアレンジ・歌いッぷりとも最高なんですが、これの歌詞は実にひどい(もちろん誉め言葉)。原曲はご存じ殿さまキングスです。
「月が出た出た カメハメハ 椰子の葉揺れる カメハメハ 知らぬ同士が肩寄せあって 踊ればワイキキ パラダイス アァアァアァアァア カメハメハメハ ちょいとカメハメハ」。
 ああぁ、ひどいなあ(誉め言葉)。実際のハワイとは一カ所もかぶってないようなこの内容、二番、三番とどんどんひどくなってゆきます(誉め言葉)。なによりも驚いたのが、改めて調べてみたらこのハワイ音頭がなんと1980年のリリースだったという事実ですね。それより二十年ぐらい前の曲かと思ってましたよ。今からおよそ三十年前の日本、まだこういうすっとこどっこいなセンスを受容する度量が残っていたみたいです。
(※こんな傑作アルバムがなんとamazonでは買えないらしい。仕方ないので高良レコード店のリンクを一つ貼っておきます。→
 まあ要するに、自分にとってのハワイは、常磐ハワイアンセンターに始まって李博士や殿さまキングスを経由してギャグ漫画日和に至るという、なんというか、その、どうしてもギャグの一環というかお笑いのイメージが強いというか、なんかろくでもない印象ばっかで申し訳ないんですけれど、これも結局のところは昭和の中ごろ、ハワイが日本人に強烈に憧れられ愛された歴史的経緯を抜きにできないことは確かです。自分は、ああいうピュアなハワイ愛にいい加減手垢が付いちゃった世代なのかもしれません。悲しいことです。


 で、現実のハワイとなれば、これが結構えげつない歴史を背負ったところですからねえ。地球の歩き方程度の記述でも、コロニアリズムの問題点を全部集めて佃煮にしちゃった来歴が軽く読めてしまって、常夏の島で結構陰気な気分になれます。ああ当時のアメリカはインチキクーデター起こして政権転覆させることぐらい朝飯前にやってた国だったなあと言うことを否応なく思い出してしまったりして(中米やフィリピンなんかでも似たようなことやってましたね)。
 実際行ってみて驚いたのは、今のハワイって、驚くほど昔を忍ばせるものがないんですよ。曲がりなりにもハワイ王国の統一から200年以上、なんかしらそういうものが見える部分があるかというとほとんど皆無で、アメリカの凡庸な地方都市がだらりんと広がっている印象です。これはなんか凄いことだなあ、と。東南アジアにせよ南アジアにせよ中近東にせよ満州にせよ台湾にせよカリブ海地域にせよ、街を歩けばどこかしらにかつての宗主国と基層文化とがアマルガムになって作り上げられた町の雰囲気が感じ取れたもんなんですけどね。そうやってみると、ハワイの基層文化はもうほとんど残ってないんじゃないかなと思ってしまいます。事実上ハワイ語も、今じゃ田舎か離島で細々と話されてるだけのようですし。ポスト・コロニアリズムみたいな問題は、もうハワイでは成立しないんじゃないかなと危ぶんでしまいました。
(でまあ、そういうえげつない歴史の果てに、慌てて固有名詞にハワイ語を復活させたり、ハワイアン・ロミロミみたいなもんを持ち出してきても、ぶっちゃけなんかまやかしくせえなあとしか思えないんですよ。ソフトな贖罪感というか。アメリカン・ネイティブの文化を事実上壊滅させた後で、彼らのスピリチュアルな部分やら工芸品だけ切り出してありがたがるのと似たようなセンスを感じてしまいます。)


 ま、それはそれとして、初ハワイの感想を軽く書いておきます。
 入国審査のところで高校生の集団に遭遇し、「高校生が……修学旅行でハワイ……!(ビキィ」とかわうそ君のように阿修羅像を背負ってしまったり、とにかくホノルルはアベック(死語)だらけでレストランに行ってもトロリーに乗ってもショッピングセンターに行ってもアベック、あんたらアベックか!と理不尽な憤りを抱いてしまったり、同行したのは大学院生のHONDAくんなんですが「えっ、男性二人でいらしたんですか」と旅行会社のおねいさんに軽く引かれたりしましたが、まあそのほかはバナナボートにも乗らずパラグライダーも試さずワイキキビーチでも泳がず、コンベンションセンターとホテルを往復するだけの大変ハワイ満喫な一週間でした。
 ホノルルはまるでディズニーシーとかイクスピアリみたくきれいな町並みでよかったです。

























































 ……ああそうだ、なんかディズニーランドに一週間軟禁されてた気分だ……。
 一週間ほど中国を旅行しておりました。いわゆる旧満州のあたりです。大連、瀋陽、ハルビン、そして丹東という妙な旅先でした。旅の顛末はまた別の機会に書くかもしれないので、ここではちょっと違うことを。
 実は12年ぶりの訪中だったのですが、いやまあなんというか。当時は社会主義な雰囲気がもうちょっと強かったんですけどね。今でも政治体制が変わった訳じゃないんですが、商業主義で思いきり厚塗りしちゃってなにがなんだかよく分からなくなっている感じでした。場合によっては、当の中国人自身もよく分かっていないのかも知れないと思ってみたり。もうちょっとソフィスティケイトされた部分があるかと思ってたんですが、エントロピー増大しっぱなしの中国にすっかりやられて帰って参りました。疲れたなあ。
 で、帰国してみれば、そういえば日本は衆院選挙の直前でした。どうやら政権交代となる可能性が濃厚のようですが。


 で、ふと思い出したのが、大連の町はずれのアパート街を歩いていたときのこと。「中国共産党六十周年」みたいなことが書いてあって、ああそういや今度の9/1で建国60年なんだなと言うことを思い出しました。日本でいわゆる55年体制が確立してから54年ですから、実は結構期間が近いんですよね。
 もちろん社会主義国家と自由主義国家を同列に比べることには大した意味はないんですが、一つの政党がずっと政権の中枢にいた点ではその異質さが似ているんじゃないかと思います。じっさい、アジアの開発途上国に開発独裁の政党は結構存在していましたし、少なくともバブル崩壊までの自民党も明らかにそういう側面を持っていたでしょうし。
 ただ、自分が驚くのは、ここまで自民党が長期政権を担当してきたという事実で、曲がりなりにも自由選挙のある国でこれは異例のことだと思います。よもや、例えば台湾の国民党やインドネシアのゴルカルやメキシコの制度的革命党などよりも自民党の方が長命を保つとは思わなかった。G8内でも先進国の中でも、唯一の例でしょうね。
 逆に言えば、たとえば外交にせよ経済にせよ地方自治にせよ、政権にアクセスすると言うことは自民党にアクセスするということを意味したわけで、これはなんとも安定した、裏を返せば緊張感を欠いた関係を構築してきたのではないかと推察します。族議員などという言葉が普通にまかり通ってきたわけですから。
 もちろん功罪両面あったことは認めるにせよ、とにかく自分の感想としては、長すぎたというのが率直なところです。どんな組織であっても、半世紀は長い。プロトコールとメソドロジーが完成されすぎるというのは、政治にとっては決して幸福なことではないだろうとセガワは思います。刻一刻と変化する社会に対応していかなければならないのが政治ですから。
 そんなわけで、今度の選挙は結構楽しみにしています。政治家、官僚、経済界、メディア、そして当の日本国民が、この長すぎた政治的安定の変化をどう受容していくのか、すごく興味が湧きますよ。
 富山に行って来ました。これといった用もない純然たる小旅行であります。
 どうもこのところ(といってももう十年近く)日本海側に対する興味が強く、隙あらば「あちら側」の海沿いの街を歴訪しております(自分は岩手→栃木→東京……と、大平洋側の上下に移動したことしかないので、どうも日本海側というのは「あちら側」という心理的な風景になるのです)。これまでに行った町を列挙すると、出雲、松江、米子、敦賀、福井、金沢、高岡、酒田、秋田ということになりますが、どこも例外なく気持ちの良い土地でしたね。今回はそこに、富山を加えた旅でした。


 セガワは地図を眺めるのが大好きなので、今回も出発に先駆けてあのあたりの地図を眺めていたのですが、あらためて富山の地形は面白いもんだなと思いました。
 ご承知の通り、富山の東端というのは日本アルプスが海にぶつかる親不知という地点なのですが、これほど強烈な国ざかいは日本でも有数でしょうね。今回は上越新幹線→ほくほく線→北陸本線というルートで富山入りしたものですから、とりわけその思いを新たにしました。
 これは特に越中側から見たときにその印象が強いんですが、富山のどこからでも目に入る立山連峰、それがどんどん海に近付いてきて、文字通り行く手を阻むわけです。ああダメだ、これ以上先には進めねえや、しみじみそんな気分にさせられる地点であります。ここが西日本と東日本を分かち、鉄道を通すにも道路を通すにも難渋した場所であるのがよく分かる地形でしたね。
 そのくせ、越中も越後も広々とした平野に恵まれているのですから面白い。これは地図を見ても実際に列車や車で走ってもよく分かることですが、富山というのはやけに川の多い土地です。飛騨山脈から流れ下る川がいくつもの支流をなして日本海に注ぐわけで、それはまさしく富山平野や砺波平野を縦横に走るという形容が似合うような気がします。山の近さを考えるに、源流から河口までの高低差と川の長さの比はものすごいでしょうね。おそらく水の勢いも強いでしょうし、そうとなれば富山の川がやけに広い河川敷を持っている理由も分かるような気がします。
 これはどこかで見た風景に似てるなあ……、としばし考え、山と海との距離が近くて川がやけに多いあたり、台湾西部の風景じゃないかなと思いました。嘉義とか鹿港とか台南とか、あのへんの町を回っていたときのことを思い出しました。


 富山の地図を眺めているともう一つ気付くことがあるんですが、それは、やけに私鉄の路線が充実しているということです。大都市圏以外でこんなにもりもり私鉄が走っている県というのは稀じゃないでしょうか。JR線はおおむね海沿いに東西に引かれているだけなので、それ以外の富山平野を富山地方鉄道という私鉄がカバーしているわけです。これはいったいどうしてなんでしょうね。お隣の新潟や石川でもこうはいかなかったのに。立山とか黒部とか、一部観光コースに組み入れられて成功している路線があるとは言っても、これだけでは説明できないような気がします。
 あろうことか、富山市では、かつての国鉄のローカル線を大幅に改造して日本初のライトレールに仕立て上げるという芸当までやってのけています。このへんの実行力もすごいもんだなあと、余所者であるセガワはのんきな感想を抱いてしまうんですが。
 これはぜひ乗らねば、ということで乗車してきたんですが、結論から言ってすごく快適な乗り心地でしたよ。だいたい10~15分間隔の運転なんであまり待つこともないですし。こういう乗り物はヨーロッパではよく目にするんですが、日本でももうちょいと一般的になってくれるといいなあ。特に、都市圏の人口が五十万人を超えたら、車だけで人の移動をまかなうのは無理じゃないかと思うんですけどね。
 快適な都市交通というのは大切だと思いますよ、なんと言っても出歩く気になりますから。町なかを人が歩けば町が活性化するわけで、長い目で見れば、これは大変有意義な投資になるんじゃなかろうかとセガワは思います。
 ちなみに我が青春の土地、宇都宮市でもライトレール計画があるにはあるようですが、こちらはなんかグダグダになりつつあるようで、このへんがしもつかれ県の限界なのかも知れません。まあ進取の気性に乏しい土地だしなあ。

ポートラム
愛称はPORTRAM。しゃれてます。

 本当は終点の岩瀬浜まで行ってブリリアントなビーチリゾートを満喫する予定だったんですが、あいにく天気は最悪。かわりに二つ手前の東岩瀬という駅で降りて、岩瀬という古い街並みを散策してきました。結果から言えば、これは大成功だったんですが。
 この岩瀬という町、かつては、北回船の交易地として大変に栄えたところだったようです。神通川に平行して掘られた運河が今なお残り、この運河に沿って倉と商家が立ち並ぶ、そんな町だったようです。
 感心したのは、岩瀬の街並みを保存しようと結構な努力が払われていると見受けられたところです。電線は地下に埋設しているようですし、建物も(まあフェイクですが)古い様式に見えるように改築しているらしい。これはいいですね。

岩瀬
こちらが岩瀬の町並み。

 で、森家という岩瀬における大商人の旧宅を見物してきました。中を地元のおじいさんが案内してくれたんですが、これがまあ、実に流麗流暢な素ン晴らしい名調子で。根本閣下言うところの、いわゆるイイ声イイ顔というやつであります。昔はいったいどういう生業の方だったんだろうかと気になって仕方がないほどの素晴らしさでありました。

「そちら大広間ね、これだけのお大尽でもなんと!自分の部屋ってもんがなかった、立って半畳寝て一畳、それだけあればいいってことだったんだね、それで旦那以下家族八人はこちらに雑魚寝、従業員百二十人はみんな通い」
「ハイそこから上がると二階、この近隣の十三から十六までの女の子が嫁入り前の行儀見習いに来てた
「火鉢のこちらに座ったのが旦那、こちらは奥様、こちらはお嫁様。客人はこっちに座って話を聞いた」
「ほいお嬢ちゃんこの金庫開けてご覧(と小学生の女の子を手招きして)、重いだろう、扉ん中に砂詰めてあるからね、そうそうこれでいいところに嫁に行けるよ
「これ昔の帳簿です。今はパソコンだけどね、昔は筆で縦書き、これ見ればどこそこに何両、全部分かった。大事なのは読み書き算盤だね、お嬢ちゃん勉強してるかい?」

 いやもう、これ聞いただけでも富山に来た甲斐がありました。
 こういう語りができる人間って、日本では絶滅に向かいつつあるんじゃないでしょうかね。自分があと三十年か四十年年取ったとして、こういう爺さんになれる自信はまるでありません。

森家
森家のお座敷でございます。

 それにしてもこういうものを見ると、越中とは奥深い豊かさを持つ土地なんだなあと思いましたよ。この岩瀬という土地の繁栄が今の富山の基礎になったことは確かなようです。乗ってきたライトレールの前身である鉄道も、あろうことか富山大学までも、この土地の富豪が支えたということなのですから。
 こういう土地を以前にも見たことがあるなあ、と思い返してみれば、米子や島根の平田で見た商家です。あちらもまた、水運で栄えた結構な大旦那がいた土地のようです。大都市圏ばかりにゼニと人とが集まる現代というものが成立する前、確実に今とは違った金とモノの流れがあったわけですね。そういったものがかつて日本の地方を支え、人を育て、インフラを整備する礎となっていたんでしょう。
 もっとも、この過去の栄華がどのていど今につながっているのか、今のセガワには知識がないです。それを調べるのはちょっと恐ろしいような気分ですね。地方の衰退とはよく言われることですが、それが大都市集中型の経済に端を発していて、過去の資産を活かす視点が欠如していなかったのだとすれば、現代とはなんとも罪深い時代であるように思います。
 まあ海遊びには恵まれませんでしたが、岩瀬の散策は補って余りある収穫でした。やはり日本海側の街は奥が深くて面白いです。
 あ、翌日出かけた氷見の町がなかなか素敵で、回転寿司が大変美味しかったことも付け加えておきます。「東京では回らない寿司が富山では回っている」とはネットで見付けた名言ですが、まさにこの言葉通りの寿司でした。


 それにしても、どうもあのあたり、北陸や山陰を旅していると抱くのは、人間の数がこれぐらいで生きていけるのならば、本当にそれは心地のいいことだろうなあという気分です。自分が大都市のど真ん中に暮らしていることを差し引いても、これは正直なところです。
 奈良に行ってきました。学会があるとかまあそういう関係なんですが、最近どうも遠出といえば仕事がらみのことが多くて悲しいですね。しかし、春の大和路をぶらつけるという点では最高のタイミングでした。


 奈良といえば高校の修学旅行以来、実に二十年ぶりの再訪です。これだけ時間が空けば記憶なんて至るところが磨滅して穴だらけになっていることをつくづく実感しました。
 たとえば鹿のこと。学会会場は東大寺とか春日大社のすぐ近くなので、きわめてナチュラルにそこいらに鹿が群れているのに感動しました。これだけ鹿がうろうろしていれば間違いなく記憶に残ってしかるべきなのに、それがまるで憶えがないんですよ。なので、事実上初めて見たような感動を抱きつつ鹿を見ておりました。
 鹿はいいですね。実に和む。まったく人間の身勝手な視点と言うことは承知の上で、それでもどことなく思慮深そうに見える動物とそうでない動物というのがあるような気がするんですが、その点、鹿の面構えは絶妙です。深淵を覗き込んでいるような表情と、なにも考えてなさそうな表情が混在していて、こっちも思わず鹿の横顔に見とれてしまいます。まあその点、奈良の鹿なんぞは人擦れの極地にあるでしょうから、外人に抱きつかれようが中学生に追っかけられようがまるで動じず、どのニンゲンがおやつをくれるのかだけを冷徹に品定めしているのかも知れませんが。


 ついでに、空き時間で東大寺の大仏さまも見て参りました。さすがにこちらは記憶に残っています。なにしろあの大仏さまと来てはやたらにでかいので(実際の高さはどうあれ、足下に寄ったときに体感できる大きさがやけに大きい。これはいったいどういうからくりなんでしょうか)、ちっとも言うことを聞かない生意気盛りの中高生までがやけに感心して「でけえなあ」を繰り返していたことが印象深かったからなんですが。
 で、それからおよそ二十年の星霜を経て眺め上げた大仏さまは、やっぱりでっかかったです。いやあ、すごいなあ。ぐぐいとこちらを睥睨してくる大仏さまから伝わる、皮膚感覚としての質量がやたらに大きい。それに加えて、さすがに二十年も年を取ればほんのちょっぴり知恵も身に付いていて、これが天平文化の粋であるとか、千三百年前の日本国が国の威信を懸けて鋳造したものであるとかいったていどのことは理解しているわけです。その上で大仏さまを見上げると、やはり、迫ってくる感動の質が違ったように思いました。いや、よくもまあ、作ったもんです。すっかりすれっからしになってしまった現代人にしてこうなんですから、昔人の驚きというのは並大抵のものではなかったでしょうね。「大きいものはすごい」という非常に原始的な人間の感覚を存分に刺激したのではないかと思います。山岳信仰なんかも、元を辿ればそういう率直な畏敬の念に端を発するのではないでしょうか。
 それにしても、宗教というのはまるで明るくない分野ですが、仏教の「聖人を大きくしてしまう」という発想は面白いです。キリスト教徒かイスラム教なんかは偶像崇拝を禁じておりますからでっかくするのは伽藍にとどめていたようですが。といって東方正教にはイコンというものがありますけど、あれもイコンそのものをでかくするという発想はなかったようですしね。リオ・デ・ジャネイロやリスボンのキリスト像なんかはでかいキリストですけど、あれはどっちかと言えばモニュメンタルなものなんでしょう。信仰の中心にでかい聖人像があるという構造は、率直な明快さに貫かれていていいもんだなと思います。大きいものはありがたいのです。
 そして嬉しいことには、自分より確実に二十年は年若い中学生たちも、大仏さまを見上げて大そう感動しているようでした。千三百年前、天平の世の大和人や渡来人もそうだったでしょうね。人間千年ぽっちじゃたいしてかわりはしない、そんな奇妙な感慨を得た東大寺再訪でした。


 奈良についてはもう一つ、大変貴重なものを見ました。学会の懇親会なんですが、パーティーのアトラクションということで、舞楽を見る機会に恵まれたんですね。雅楽を伴奏にした舞踊です。南都楽奏所というところの演奏で、何でもその端緒は奈良時代にまで遡るとか。大変に由緒のある雅楽であります。見た演目は「蘭陵王」。中国の北斉の王様にちなんだ舞曲とかで、それが唐代に盛んになって日本に伝えられたというのですからこれまた筋金入りの由緒であります。これが、まあ、なんとも面白かった。
 当方、雅楽の素養などありようもないことを承知でお読みいただきたいのですが、とにかくその動きが徹底して禁欲的であることに驚きました。おそらく、いっさいの所作にほとんど音を伴わない、抑制され制御された動きです。言い忘れましたが、演じられたのは奈良公園の芝生の上、背後に山を背負った星舞台です。そこで、ほとんど動いてはいないのではないかと思われるほど緩慢な所作、まるで揺らぎだけで構成されているかのような音楽、これが次第に流れを早めてゆくにつれて気付いたことですが、一つ一つの動作が恐ろしく鮮やかに感じられてくるのです。一瞬の身の翻り、天を指し地を踏みしめる動作(ここで明らかに演者は音を立てて足を踏んでいます)、日常の雑然としたノイズの中では見逃されてしまうような動きが、これほどに明瞭に感じられるとは思わなかった。戦に優れた美貌の若き王に縁起を持つらしいこの舞が、確かにどこか荒々しいものを包含していると感じられた瞬間でした。
 奇妙なことですけど、ここでまず連想したのはアントン・ヴェーベルンの音楽なんですね。あの一つ一つの音が恐ろしく大きく強く響くと感じられる瞬間がある、極度に切りつめられた音楽。千年を超える日本の伝統音楽を理解するのに新ウィーン学派の作曲家を引っ張ってくるとはいかにもペダンチックな逆説のようですが、悲しいことにこれが自分の教養の限界のようです。日本におけるいびつな文化土壌の、反映かも知れません。もちろん、西洋が遠大な遠回りをして到達したところに上代の宮廷が先んじていたなどと言うレトリックを弄するつもりはないのですよ。人間がなにものかを表現しようとするとき、そこにはいくつものやり方があって、古代の中国人や日本人はその抽象化がきわめて優れていたのではないか、自分の狭い範囲の見聞で言えることはそれだけです。
 そして、こういう一種の凄みに時おり邂逅できることがあるのだから、文化というのは侮れない。それは場合によっては千年以上の時間を経て、むかしびとの逡巡や創意工夫を伝えてくれるものであるわけですから。ナショナリストを標榜するつもりはありませんが、この日本という国も、なかなか捨てたものではありませんよ。


絵馬_ミサキラヂオ


 ついでながら、東大寺に絵馬を奉納して参りました。滅多に絵馬なんか書かないんですけどね、普段は他人の絵馬を眺めてニヤニヤしてるだけなんですが。趣味悪いなあ。

segawashin

Author:segawashin
2007年、「mit Tuba」で
第23回太宰治賞受賞。
ホームページはこちら。
www.segawashin.com
ツイッターはこちら。
http://twitter.com/#!/segawashin

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