セガワブログ

小説家、瀬川深のブログ。

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 Nooooooooooooo!
 野坂昭如逝去か……。掛け値なしの天才、混じりけなしの小説家。追随者なく日本語の荒野を突き進み、我と我らの卑俗を余すところなく活写したうえにそこに何か聖性まで添えてみせた。俺ごときが称揚するまでもない、最も偉大なる日本語の小説家ここに斃る。


  かえりみれば野坂昭如、その名前を最初に耳にしたのは「火垂るの墓」、中学生のころにひときわ評判を取ったアニメ映画の原作者ということになりそうなものだがまるで記憶になく、むしろ親父の買ってくる週刊誌に異様に一文の長いコラムが載っていてまるで読み解けずにいれば、戦後民主主義世代の両親言下に「あぁあのウヨク作家」と切って捨てたその小気味よさこそが、この稀代の大作家をいたずらに反戦平和の教条と結びつけずに済んだのだとは後になってわかることだった。先人の紙に記した言葉を追いかけるようになったのは先帝のみまかってより後のこと、この大作家が歌手にテレビに政治活動にとあらかたの遊びに飽いた後だったことも幸いだったのかも知れぬ、その魁夷なる容貌は常に膨大なる作品の中からのみ立ち上がってきてこちらを睥睨した。
  さりとてアメリカひじきに火垂るの墓、教科書が勧めてくる作品は押しなべて退屈、かえりみればやはりこの大家の作としては最上とは言いがたいものと感じられた一方で古書店の書棚に並ぶ野坂昭如作品はどれをとってもしたたかに、こちらの腰骨のあたりを強打してくるなにか、我らが生と性の浅ましさを極めて実直に無骨にわが網膜に縫い付けてくるようなものばかりで、マッチ売りの少女に童女入水にエロ事師たち、幾度まばたきを忘れたかわからぬ。
  忘れがたいのは「骨餓身峠死人葛(ほねがみとうげほとけかずら)」、超弩級の傑作があると聞かされながら入手かなわず、読みたいと念じながら数年が過ぎてふと訪れた石垣島、西表に渡る船待ちのあいだに立ち寄った古書店、積まれた一番上にその本を見つけたときには脳天を貫くような衝撃を受けた。貪るように読んでその真価直ちに理解したとはとても言えないのだが、渡った西表で見たものは半世紀の昔に苛烈な労働とマラリアで幾百人もの死の果てに原生林の中にまさに朽ち潰えようとしている炭鉱跡、それはまさに骨餓身峠死人葛の世界顕現したかのような、偶然という名の必然、奇跡的な付合だった。
  無粋を承知で要約すれば、骨餓身峠死人葛、ところは九州、流れ人夫の葛作造の拓いた炭鉱を舞台にした奇怪な一代記で、ここにはただ死体をのみ養分として死人葛が白い花を咲かせるという。作造の娘、たかを、幼少のころより死人葛をこよなく愛し、死人葛を咲かせるためには実の兄をそそのかし、やがて道ならぬ関係に陥り、兄が肺病を病めばその骸もまた死人葛を咲かせ、たかをと父は契って娘さつきを生み、大戦と敗戦に時を同じくして炭鉱が衰えれば残された人々ただ死人葛の実を糧秣として生きのびようとする。死人葛を咲かせるためには骸がいる、そのために女は子を孕まねばならず、孕むためには親も子もきょうだいもなく、「髪ざんばら素脚の男女が、夜に日にかき抱き合って、直接食欲に結びつく性欲は、果てしなく強じんであった」。目を覆いたくもなる凄惨なコミューンがやがて破滅的終焉を迎えるのも道理、しかし死者の堆積のうえに我らが危うく生をつなぎ、性へのかつえが生を満たすありさまは寓意だ風刺だといったものをかるがると超えて、さむざむと下腹に迫ってくる、見上げれば天を覆わんばかりの影であったとわかるようなおそろしさがあった。文体からも視点からも物語からもただ感じられるのは生のそして性のいかんともしがたさであったように思う、それは本作に限ったことではなく全てから。


  われらの土地に、歴史に、人間たちに、このような光を当てたのはただ一人野坂昭如だけだった、自分は強くそう信じている。強い光を見つめる勇気なければ目をそらしてしまうほどの強い光芒。
  空前絶後、前人未到、唯一無二。南無阿弥陀仏。
  アキユキ・ノサカ・ノー・リターン。
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 新聞を読んでいて、カルロス・フエンテスの逝去を知る。
 それなりのお年だったとはいえ、ああ残念だなあ……とちょっとしょんぼり。
 アンゲロプロスの訃報を聞いたときも思ったけど、自分が若いころに見聞きして強くインスピレーションを貰った人が亡くなるというのはなんだかとても悲しいことだ。たいていの場合そういう人というのは自分よりも年上なので、先に逝かれる可能性の方がはるかに高いんだけれど。最初にそういうことを実感したのは、1992年、オリヴィエ・メシアンと中上健次の訃報を聞いたときだったかなあと思い出す。
 フエンテスは「老いぼれグリンゴ」と岩波文庫の短編「アウラ・純な魂」を読んだだけなんだけど、前者がとにかく凄い小説だったと記憶している。歴史の虚構とメロドラマをふんだんに盛り込んだメキシコの来歴。たとえばこういうやり方で、明治維新は再構築できるものだろうか?
 それにしても、フエンテスといいルルフォといいパチェーコといい、メキシコは本当に凄い作家を生む土地だなあ。




 ……などと思っていたら。
 フエンテスの長編「大気澄み渡る土地」が邦訳されていたことを知ってしまったよ!
 え、えらいこっちゃぁ……。確か木村栄一さんの「八十余人の登場人物の語りによりメキシコの全体像を描き出そうとした」という(うろ覚え)文章に心引かれて、ああ読みたい、読みたい、読みたいなあ! とずーーーーーーっと思っていた作品。これはもう即買いですわよ。コルタサルの訃報と入れ違いになってしまったような刊行だけれど、謹んで読ませて頂こうと思う。


 そうとなると次は……、「我らが大地 Tierra Nostra」も邦訳されないかなあ!
 出たら二冊は買うので確実に二冊は売れますよ(駄)。
 ついでにバストス「至高の存在たる余は」が邦訳されて、どさくさにまぎれて「夜のみだらな鳥」が文庫化しないかなあ。


澄みわたる大地 (セルバンテス賞コレクション)澄みわたる大地 (セルバンテス賞コレクション)
(2012/03/11)
カルロス フエンテス

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フエンテス短篇集 アウラ・純な魂 他四篇 (岩波文庫)フエンテス短篇集 アウラ・純な魂 他四篇 (岩波文庫)
(1995/07/17)
カルロス フエンテス

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老いぼれグリンゴ (ラテンアメリカの文学) (集英社文庫)老いぼれグリンゴ (ラテンアメリカの文学) (集英社文庫)
(1994/08/19)
カルロス・フェンテス

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 井上ひさしさんの訃報を知りました。ああああァ、残念だなぁ、というのが率直な感想です。これは型どおりの言葉ではなくて、なによりも井上さんがなお旺盛な執筆を続けていた「現役の」作家だったkとを考えれば、つくづく、惜しまれる。まだなお書いてくれるだろう、なにか新しいものを作ってくれるのだろうという期待が井上さんの筆にはありました。
 不躾を承知で申し上げますと、お年を召して「枯れて」しまう作家が日本にはいささか多いように思うのですが、井上さんについて言えば、享年七十五歳というのはいかにも早い。「まだまだ書いて頂きたかった」をためらいなく申し上げられる、数少ない作家だったでしょう。今となっては、感謝とともに冥福をお祈りするばかりです。


 それにしても、井上ひさしさんの業績というのは凄い。小説と戯曲を両立したというだけでも珍しいと思うんですが、それに加えて脚本から評伝から作詞まで、そしてそれぞれの数が膨大ですからね。質と量を掛け算してみれば、その数値は戦後日本の作家の中でももっとも高い一人に属するんじゃないでしょうか。
 その中で自分が読んだのは、ごくごく一部に過ぎません。なにより、その仕事の要の一つであった戯曲を実際に舞台で見てないのですから、片手落ちもいいところです。
 ただ、井上さんの小説はずいぶん熱心に読んだ時期があって、振り返ってみればそれはまだ十代も半ば、自分が物書きになることを夢想だにしていなかったころのことだったなあと思い出します。大した読書経験もなければ自覚的に文章を読む心情にも乏しかったあのころに読んだものが、井上さんのめっぽう面白い、そしてさまざまな寓意を含んだ小説の一群れであったのは、ひょっとするととても幸運なことだったかも知れません。
 その見聞の範囲で言うならば、井上さんの小説には言葉に対する強いこだわりと、歴史を物語の中に織り込んでゆく視点が存在していたように思います。不見識を承知の上ですが、この両者を備えた作家というのはそれほど多くはないのかも知れない。以前の日記でも書きましたが、海外の小説家に似た例を求めれば、自分はメルヴィルやピンチョンを想起したくなるのですが。
 以下、読んだ記憶の残る小説を記して、ささやかに故人をしのんでみることにします。まったく私的な井上ひさしさんの追悼です。



○四十一番の少年
 表題作、非常な痛みの残る物語で、筆者自身の複雑な少年期を色濃く反映させたものになっています。どこか光クラブ事件の山崎晃嗣を思わせる、知的で偏執的な少年の犯罪と破滅。
 ただしセガワの好みは併録された「明くる朝の蝉」のほうで、これは井上さんの私事を書いた物語の中でのマイベストかもしれません。少年期の悲劇を描く趣向は今でも大いに流行っていますが、それをひどく明るく悲しみに満ちた物語に仕立てた点、なかなか類例がありません。主人公の少年が自らの複雑な境遇を語る言葉は本当に秀逸ですよ。声高に非難するでもなく、自らを慰めるでもなく、その言葉は明晰で、痛ましいと思うほかないです。
「だけど、ほかに行く宛があるとなったら、一秒たりとも我慢できるところじゃないんだ」

○青葉繁れる
 昭和二十年代の杜の都仙台を舞台にした、すばらしい青春小説です。昔から学生はボンクラで、そして無駄に必死だったものらしい。こういう青春像は、いつの時代に置いたって愛おしいですよ。
 ラストは苦いです、ご注意。

○花石物語
 これも筆者の実体験に基づいた物語なのでしょう。時期的には「青葉繁れる」の数年後、ビルトゥングス・ロマンの傑作。鬱屈と自己嫌悪を吃音という現象に託した筆致も見事なんですけれど、それにもまして細部の描写がすばらしい。傑作は細部に魂が宿ると言いますが、井上さんが本気で細部に魂を宿らせると、本当に、すごい。アイスキャンデーを昼食代わりにする女郎かをり、コンドームの再生を副業にする老人、ある時はマドロス・ある時は花石製鉄の熟練工(づくれんこ)と自分を偽り続けながら女郎買いに来る高校教師、主人公の童貞喪失(どうして俺は神様が男と女を作ったのかやっと分かったぞ)、どれをとってもすばらしい。中でもセガワのいちばんのお気に入りは冒頭のイカそうめんの描写です。これはモノ書くことを志す人ならば一見に値しますよ。
 それにしても、二十年ぐらい前に二回読んだきりの本作、記憶にこれだけ残っているのですから自分でも驚きました。いま改めて見ると、カバー絵もいいなぁ。これ、村上豊さんかな。

○月なきみそらの天坊一座
 どうやら二流の腕前のマジシャンとその妻、そしてそこに弟子入りした天才少年の旅回りのものがたり。戦後まもない東北を舞台にした風俗描写は井上さんの真骨頂でしょう。これは確か昭和の末期、NHKがドラマにしていたような。
 ついでながら、文庫版の解説もすばらしかったです(手元にないのでどなたの文章か分からないのですが……)。

○偽原始人
 大変な失礼を承知で書きますが、どうにも根強い井上さんの学歴コンプレックスも突き詰めればこんな壮絶な小説を生んでしまうらしい。教育ママの狂気じみた驀進と、それに必死であらがおうとする少年三人。神経を病んでしまった学校の担任、学歴至上主義の家庭教師、ふがいない父親、カッコつけしのヒッピー親父、人物造形はどれも見事。そこに、井上さん一流のこだわりに満ちた情報の群れが覆い被さり、結末も含めて、痛ましいと言うほかない小説ではあります。
 しかし、これほどにやるせない、行き場のないような題材を用いていても、冷酷な、乾燥した感じを受けないのは本当に井上さんの才能だったんだと思います。これを、ただただ心胆の冷えるだけの作品にするのならば、並の書き手にも可能なことだったんでしょうが。このなにかを慈しむようなまなざしがどこに発していたのか、なにを向いていたのかは、今の自分には手に余る問いかけです。

○國語元年
 これは戯曲です。戯曲を読み慣れていないせいもあって、どうもすっきり筋立てを覚えてはいないのですが、「日本語」「標準語」といった現代の我々が無造作に、いささか粗雑に用いる概念に鋭い突っ込みを入れた作品です。たしか文部省の小役人(だったかな)の主人公が七転八倒したあげくに、狂気とともに奇怪な人工言語の創出に至る結末、秀逸であり、そして言葉というものの深淵を覗き見た気分になります。
 各方言の描写も見事。

○浅草鳥越あずま床
 下町を舞台にした連作短編集。ちょっとダメな中年たちの青春物語といった味わいで、あんがい時代を先取りしていた感があります。主人公たちが若い娘に心惑わされてしまった一編が好き。結末の苦さも含めてすばらしい。

○吉里吉里人
 おそらく井上さんの小説の中でもっとも有名なものでしょう。物心ついていないころのことなんですが、刊行当時はベストセラーになったようですね。率直に言ってこの作品、小説としての出来映えが最上だとは思えないんですが、しかし、その企てと内実はものすごいですよ。ベルリオーズのオラトリオが結構としては破綻していても、どこかを削ってどうなるものでもなく、傑作だとしか言い様がないのに似ていると思いました。
 「國語元年」が日本語というものに突っ込みを入れた作品ならば、本作は日本国というものに突っ込みを入れた作品ですね。国家というもの、東北という土地、近現代の日本史、軍事、医療、経済、あらゆるものに筆を縦横にのばしながら奇妙な国家の成立から崩壊までを描いていきます。これらの事象に井上さんが突きつけた問いかけは、今日なお有効でしょう。「民主主義」と口にしたときに、我らはその意義をどこまで考えているのだろうか。「我らのことを我らが決める」という、近代社会の前提となっている思想を、我らはどこまで実感することができるのだろうか。なぜか刊行当時はSFというくくりで読まれたこともあったようですが、そんな狭い枠組みはいっそ考えず、平成二十二年の今、再読する価値の大いにある小説だと思います。
 細部に魂が宿りすぎて味付けは濃いんですが、セガワは読みながら、ピンチョンやメルヴィル、ガルシア=マルケスなんかをしょっちゅう思い出していました。「世界の丸ごと」を投射し得る日本語の小説という点でも、希有な作品だと考えています。日本語で語り得るマジック・リアリズムとは、ことによってはこういうものなのかも知れません。



 なお、井上さんには、言葉を題材とした深い洞察に満ちたエッセイも多数ものしておられます。ほどよく脳を刺激される、極上のエッセイですよ。


 これを機会に、前から気になっていた「東京セブンローズ」を読んでみようかな。アウトラインを聞くだに面白そうです。

四十一番の少年 (文春文庫)四十一番の少年 (文春文庫)
(1974/01)
井上 ひさし

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青葉繁れる (文春文庫)青葉繁れる (文春文庫)
(2008/01/10)
井上 ひさし

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花石物語 (文春文庫 (111‐10))花石物語 (文春文庫 (111‐10))
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井上 ひさし

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月なきみそらの天坊一座 (新潮文庫)月なきみそらの天坊一座 (新潮文庫)
(1984/01)
井上 ひさし

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偽原始人 (新潮文庫)偽原始人 (新潮文庫)
(1979/07)
井上 ひさし

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国語元年 (中公文庫)国語元年 (中公文庫)
(2002/04)
井上 ひさし

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浅草鳥越あずま床 (新潮文庫 い 14-8)浅草鳥越あずま床 (新潮文庫 い 14-8)
(1981/07)
井上 ひさし

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吉里吉里人 (上巻) (新潮文庫)吉里吉里人 (上巻) (新潮文庫)
(1985/09)
井上 ひさし

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東京セブンローズ〈上〉 (文春文庫)東京セブンローズ〈上〉 (文春文庫)
(2002/04)
井上 ひさし

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 前回のエントリーではいろいろ書きましたが、ネットが普及してありがたいことの一つに本の検索がしやすくなったことがありますね。特に古書、これはもう本当にありがたいですよ。「昔読んでそれっきりになっていた本」に、どれだけ再会できたことか。
 で、先日、凄く懐かしい本を入手できました。

新潮平成三年四月号増刊「20世紀の世界文学」。

 Amazonでの取り扱いはなかったのですが、とある地方の古書店が目録に入れておりましたよ。ああ懐かしいなあ。わが青春の教科書であります。
 確か大学に入ったころ、ブンガクを読まねばならぬというなんだかよく意味の分からない義務感に取り憑かれたのですが、正直、文学という巨大な世界に徒手空拳で取り付いてゆくのは相当にしんどいことなんですよね。そんな折りに図書館で見つけたこの本は、そんな無謀な若造のかけがえのない道しるべになってくれたと思います。しかも、海外文学という、ほとんど素養のない世界への。ただ、もう書店では入手不可能だったため、何度も図書館から借りだしてこなければならなかったんですが。
 分厚い本でしたし、アンソロジーという体裁をいいことにあちこちをつまみ食いするような読み方をしていたので、あまり良い読者だったとは言い難いです。ただ、少々記憶があやしいですが、確かこの本によってセガワはゴンブロヴィチやマヤコフスキー、エズラ・パウンドなどといった名前を知ったのだと思います。当時(今でも)この人たちの作品の真価が分かったなどとはとても言えないのですが、ただ一つ、「とまれ世界には、これほどの作品を書いている人間たちが存在していた(いる)」ということを実感することができたのは、本当にかけがえのないことだったと思っています。モノ書く行為に一種の畏怖を感じることで、夜郎自大に陥ることから免れたわけですから。


 などとえらそうなことを書いては見ましたが、あらためて読み返してみれば、いや、気付いていなかったことが余りにも多くて赤面します。バーベリは今では大好きな作家ですが、この本にも収載されているとは気付いていませんでしたよ。フォークナー「納屋を焼く」も15年ぶりぐらいに再読してみれば、この作家が実に異様な方法で言語を使いのめしていたことに驚かされます。ナボコフ「チョルブの帰還」の周到な構成も、当時はまるで気付いてませんでしたね。セリーヌ「夜の果てへの旅」は今なお鮮やかでしたが、ヘミングウェイ「殺し屋」からかつて感じたような衝撃を感じることはできなくなっていました。まだ再読を初めて1/4も読んではいないのですが、こんなに楽しい、そして中身のみっしり詰まったアンソロジーだとは思わなかった。楽しめるし、なによりも勉強になりますよ。
 それにしても、アンソロジーというのはいいですね。その世界のポータルになってくれる。その点、本書はとても念入りに作品がセレクトされていると感じられますし、巻末の各国文学の概説もありがたいところです(『多国籍作家』の項があるのも素晴らしい)。読み手の一人として、こういう丁寧な仕事には敬意を払いたくなりますし、また、これからの読者のためにも、こういう良質なアンソロジーが編まれてゆくといいのですが。例えば、日本文学のこの二十年を俯瞰するようなアンソロジーが、あってもいいと思うんですけれどね。また、個人的には、この二十年に限局した海外文学のアンソロジーがあるとなお嬉しいのですが……。


 最後に一篇、本書から詩を引用します。当時読んだときの衝撃は今なお鮮やかで、どこかノートに書き写して飽きることなく読み返したものでした。訳文の素晴らしさは勿論のこと、言葉が、これほどの力を持つということをセガワに教えてくれた詩です。






「ぼくらの行進曲」 ヴラジーミル・ヴラジミロヴィチ・マヤコフスキー  小笠原豊樹訳

広場に鳴らせ、暴動の足音を!
聳えろ、誇らしい頭の山脈!
ぼくらは二度目のノアの洪水で
全宇宙の町々を洗い清めよう。

日常の牛は斑だ。
歳月の馬車は緩慢だ。
ぼくらの神は駆け足だ。
ぼくらの心は太鼓だ。

ぼくらの黄金より魅惑的なものがあるか。
弾丸の蜂どもにぼくらが刺されてたまるか。
ぼくらの武器はぼくらの唄だ。
ぼくらの黄金は鳴り響く声だ。

牧場よ、緑に横たわれ、
日常の底を敷きつめろ。
虹よ、軛(くびき)をかけろ、
早飛びの歳月の馬どもに。

見えるか、天のやつ、星に飽きている!
あいつ抜きでぼくらの唄を編もう。
おおい、大熊座! 要求しろ、
生きたままぼくらを天に迎えろと。

喜びを飲め! 歌え!
春が血管に一杯だ。
心よ、太鼓をたたけ!
ぼくらの胸はティンパニの銅だ。








新版 マヤコフスキイ・ノート (平凡社ライブラリー)新版 マヤコフスキイ・ノート (平凡社ライブラリー)
(2006/12/12)
水野 忠夫

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 年末年始にかけて、トマス・ピンチョン「ヴァインランド」を読んでおりました。去る大晦日、仙台までの帰省に特急スーパーひたちを使ってみたのですが(東京近郊に残された数少ない在来線特急であります。高速バスなどではまず味わえない、酔狂かつ優雅な小旅行が楽しめますよ)、この車中で読み始めて、おととい読了。いや、ピンチョンとは思えない読みやすさでありました。びっくりしましたよ。「V.」「競売ナンバー49の叫び」とはずいぶん雰囲気が変わったなあ。
 もちろんピンチョン一流の饒舌さに変化が生じたわけではないんですが、物語を媒介するものがずいぶん変化した印象です。もともとポップカルチャーへの偏愛を隠さない作者ではありましたが、それがもっとあからさまで盛大になりましたね。なんと言ってもまずテレビ、映画、ポップス、コンピューター、ゲーム、そしてドラッグ。こういったものどもに物語はどっぷりと浸されて進行してゆくわけですが、考えてみればこれこそが大量消費の本格化した80年代という時代なんでしょう。「重力の虹」(残念ながら未読。古書価がえらく高騰してますね……)から17年の歳月が開いていたようですが、その間のピンチョンの人生が垣間見えたようにも思った、というのは勘ぐり過ぎでしょうか。
 以下、ネタばれを含む感想です。多分に誤読や読みの浅さもふくまれているでしょうが、ご容赦を。


 まず驚いたのは、実に今日的な物語であると感じられたということ。「1990年に刊行された1984年の物語」という前提がついつい頭から抜けてしまい、あァそういやこれはまだネットと携帯のない世界の物語なんだということに気付いて、そのたびに軽い驚きを感じました。べつだん予言の書として優れていることを褒めそやすつもりはないんだけれど、1980年代の初頭に萌芽していた社会の変容を巧みにすくい取って物語の骨組みに援用した点、つくづく感嘆したくなります。それがもっともドラスティックに現れていたであろう、アメリカという社会で書かれたことを差し引いても。
 その変容の正体とは、膨らむ一方の大量消費の隊列に情報がどんどん繰り込まれて社会を密に覆ってゆく過程だったんじゃないかな、とセガワは予想します。ここで留意すべきは、その情報が抽象的な概念ではなくて、電子データに変換可能な情報として具体的に描かれている点でしょう。増大する一方の情報が、アメリカを(ひょっとすると世界を)くまなく覆うケーブルでやりとりされ、それは密やかに各々の生活を絡め取ってゆく、寓意に満ちたビジョン。今日ならばまさしくネットと携帯がその役を果たしているんだろうけれど、さすがに物語の舞台は1984年、この役割を担う……、というよりは暗示しているのは、テレビでありました。時に、コンピューターやキャッシュ・ディスペンサーなんかも。そう書くといかにもディストピアな物語のように感じられるんだけれど(そういえばピンチョンが『1984年』の序文を書いていましたね、びっくりしました)、結局のところその延長上に2010年の世界はきれいに乗っかっているわけですからね。ピンチョンの描く世界に気色悪さを感じたとしても、ビッグ・ブラザーのように所詮は他人事なのだと笑い飛ばせないだけ、何とも居心地の悪い気分になるわけです。
 それが小説を織る一つの横糸だとすれば、縦糸にも感嘆しました。すなわち歴史というものです。卑近なものがたりに歴史をインポーズしてゆくのは、ピンチョンの真骨頂なんでしょうね。このインポーズというのは必ずしも比喩ではなくて、主人公(でいいのかな)の少女プレーリィが女忍者(苦笑)のDLとフィルムに映写された若き日の母の姿をたどるシーン、まさしくここでは過去と現在とがヴィデオ・クリップのエフェクトみたいに行きつ戻りつしておりました(終盤、このフィルムが焼き捨てられてしまうところ、何とも暗示的に感じられたのは少々穿ちすぎですかね。フィルムからテレビへ、60年代から80年代へ)。本作では、アメリカの歴史が、体制の埒外にいるものと体制との対立を通じて描かれます。20年代は西海岸の森林労働者と労組潰し、50年代は映画産業の組合と赤狩り、60年代はヒッピー・ムーヴメントや学生運動に対立するケネディ・ニクソン・フーヴァーといったアメリカの統治者たち。この対立は結局のところ、80年代のレーガン政権のアメリカにまで持ち越され、プレーリィやゾイドの物語に容喙してくるわけです(もっとも、80年代にいたっては作中に何度か言及されるレーガノミクスのアメリカに対立する軸が存在しない点は厄介ですね。かつてのヒッピー、ゾイドも尾羽打ち枯らして、女装しての窓破りに精を出す有様ですから)。ざっくりと理解すれば、この対立とは、アメリカの社会に存在する寛容と非寛容の歴史なのかも知れないです。教科書ていどの記述であっても、自由を標榜するアメリカという国家が時に苛烈なまでの非寛容さをむき出しにしてきたことは間違いないですから。最近では、イラク戦争の前後の、狂気めいた愛国的言説が記憶に新しいですね(あのフリーダムフライというばかげた呼称を、たぶんセガワは一生忘れないと思います)。
 これは、すごく面白い趣向でしたよ。ある一族の年代記にアメリカの近現代史を重ね、母探しというモチーフを物語のベクトルに設定した上で、そこに社会の変容をにおわせる。いやあ、面白かった。そして、この趣向が面白すぎて、少々残念な気分になったこともちょっと付け加えておきたいと思います。これが自分の読みの浅さのせいなのかどうかは、わからないのですが。


 それは、おそらくは、ブロック・ヴォンドに代表される敵役(というのも矮小な言い方ですが)に、「はっきりと見定められないなにごとか」を感じることが少なかったせいなのではないかと思います。少なくとも「競売ナンバー49の叫び」のザ・トライステロのような、最後の最後までそれがいかなるものなのかすら分からず、善意とも悪意とも見定められないものが我々のかたわらに存在している、そういう薄気味の悪さを感じることがなかった。先にちょっと言及したごとく、歴史的な対立の因果もすっかり薄れてきて、反共も反戦もアンチ・ドラッグもどこか抽象的な概念としか感じられなくなる1984年という時代の不幸なのでしょうか。もっとも、そもそも権力対反権力という対立じたいが、結構「わかりやすい」構図ではあるのですが。結局のところブロック・ヴォンドやヘクタ・スニーガは妄執から逃れられない小官吏、と言えばその通りなのでしょうが、彼らに例えばエイハブやクエンティン・コンプソンのような、米文学に伝統的な奇怪な人物を演じさせるには、1984年という時代は明るすぎるし我々に近すぎるのかもしれません。
 それともう一つ、これは以前もちょっと感じたことなんですが、ピンチョンという人の小説作法の独特のぎこちなさが、ことによっては、各人物の内面を掘り下げてゆくには不向きなのかもしれません。もちろんここで、心理小説を期待しているわけではないんです。歴史的状況や政治的構図、地誌的状況やパラダイム、文化的乱雑さ、そういうものを描くに当たってはピンチョンの筆を疑う必要はないでしょう。しかし、その構図にはめ込まれている各人物にカメラが寄っていったとき、(果たしてこの人はここでこういうことをしなくてはならないのだろうか?)という非常に基本的な疑念が浮かんでしまうことが折に触れてあったことを白状しておきたいと思います。そしてそれは、フレネシとヴォンドという作中の最重要人物において、特に顕著であったということも。


 しかし、まあ、それにしても、大変な小説であることは間違いがないです。こういう企ての小説が、いったい、日本で書かれたかと問われると少々心許なくなる。果たして五十歳になったベテラン小説家がどっぷりサブカルチャーに浸り、その上で日本の歴史を編もうとする、そんな状況はちょっと想像しにくいですね。セガワの狭い見聞の範囲で連想したのは、実は、獅子文六「てんやわんや」と井上ひさし「吉里吉里人」なんですが。井上ひさしさんの作話にピンチョンと似たものを感じる、というのは、少々大胆すぎる感想でしょうか。


 以下、感想の落ち穂拾いを箇条書きで。

・つくづく翻訳のご苦労が忍ばれる小説でした。だけど、どうしても違和感が感じられて仕方なかったのは、若者の崩れた言い回し。12年前の刊行であることを勘案しても、ちょっと、ええと、その、まあ、なんというか、ちょっとナウくてトレンディな感じが過ぎると言いましょうか……。チョットヨンデテツラカッタデス。

・同じくヘクタ・スニーガの関西弁もなんとなく違和感を感じたんだけど、トーホグ出身の東えびすのセガワが文句いえる部分じゃないと思います。

・物語の冒頭、ゾイドとプレーリィの別れの場面で、「行き先を未来にセットしたタイムマシン」のくだりはバック・トゥ・ザ・フューチャーのオチの部分のパロディかなと思った。

・DLが連れ込まれた銀座の「春のデパート」って、有楽町プランタンからの連想なんでしょうか。原文でどう書かれていたのか分からないけど。

・重箱の隅ですが訳注に一ヶ所ミスを発見(笑)。注103、マリオブラザーズは1983年のゲームです。

・271ページ、ティ・アン・トランと言うベトナム人女性が出てきますが、Tranはベトナム語読みではチャンになるんじゃないかな。アメリカではトランと読ませているのかもしれませんが。

・後半、ばっちり成り上がったウェンデル”ムーチョ”マースとザ・パラノイドが出てきたときには思わず微笑が浮かびました。パラノイドの面々は思惑通りロリータ少女と結婚できたんでしょうか。エディパさんはどこでなにをやっているのやら。

・最後まで、今一つ文茂田武さんの存在理由が分からなかったなあ。それにしても妙な苗字だけれど、実在するのかしら。画家の茂田井武さんを連想してしまう字面ですが、たぶん関係ないでしょうね。そういやゴジラの足跡テロも、最後まで謎は明かされなかったな。「ニンジャ・デス・タッチ」とか「ゴジラの怒り」とか、なんていうかその、「ゴーゴー夕張」と完全にセンスがつながりますね。


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segawashin

Author:segawashin
2007年、「mit Tuba」で
第23回太宰治賞受賞。
ホームページはこちら。
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