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セガワブログ

小説家、瀬川深のブログ。

  非常に遅まきながら、「風立ちぬ」を観てきた。図らずも太平洋戦争開戦日である。結論から言うと、私見では、本作は宮崎駿の最高傑作だ。のみならず、アニメーションとか邦画とかいった枠組みを超えて記憶される傑作であると確信している。率直に言って、宮崎駿がこんなすごい映画を作るとは思ってもいなかった。

  幸運にも、僕の前半生は、宮崎駿が精力的にアニメーションを作ってきた時代とほぼ一致する。もっとも、その名前を意識しだしたのは「ラピュタ」あたりから。中学校一年生の夏休みの封切りだったと思うけれど、人生で最も多感な時期のとっかかりに、この傑作と邂逅してしまった幸運をご想像ください。さえない田舎町の風景に、成層圏に至る巨大な雲とかなたの地平線が重ね合わされて幻視された。この世の中にこんな面白いものがあっただなんて! 心の底からそう思った。今でもほぼそう思っている。以来、テレビアニメを観る習慣はわりと早くに失ったけど宮崎アニメはほぼ公開時に観てきた。どれにもうならされたし、ただごとならぬ高揚感を味わいもしたけれど、個人的なベストは「千と千尋の神隠し」だろうか。次点でトトロとラピュタ。そして数年前にポニョを観て、このたびの「風立ちぬ」である。思えば三十年以上にわたって、この稀代のアニメ作家の作品をリアルタイムで追いかけてきたことになる。これを幸運と言わずして、なんと言えばいいのか。

  ただし、大いに楽しまされてきた宮崎アニメだが、いつもその結末でささやかな違和感が残ったことは打ち明けておきたい。ほとんど完璧に仕上げられているのに、ほんのちょっとなにかが過剰でなにかが足りない、間尺の合わなさのような違和感。いい悪いの問題ではないのだろうが、トトロや千尋はそれを感じずに済んだ数少ない作品である。ところが、その違和感が、本作「風立ちぬ」では見事に解消されていた。時間と内容がぴたりと整合して過不足がなかった。終映後、心の底から拍手をしたくなった、初めての作品である。

  さて、その「風立ちぬ」である。率直に言って、僕は、上映中ほとんど間断なく驚いていた。これほどの大ベテランがなおこんな冒険をするとは、予想もしていなかった。僕はこの作品で、宮崎駿が初めて現実と切り結んだという印象を受けた。それは単に日本の近代を描いているとか、史実や実在の人物に取材しているとか、そんな理由ではない。宮崎駿は、人とこの世にいる限り不可避である不自由さを、初めて物語の中に押し込んできた。もっとも、それは、単に生老病死や社会の歪みを描いて達成されることではない。言ってしまえばそんなものは、これまでにも無数に描かれてきたものだし、いくらだって月並みになれる材料である。しかし、そういった理不尽を描くために、宮崎駿はおそらく意識的に表現の手法を変えたという印象を僕は受けた。まったくアニメならではのやり方だった。はっきり言えばそれは、人物描写の差違である。

  最初にそのことに気付いたのは、冒頭、少年時代の二郎がケンカをする悪童たちである。彼らは野卑な風貌もさることながら、ほとんどよくわからない言葉で二郎に絡んでくる。はて、どうしてこういったことをしたか? これまで、こういった人物は、宮崎アニメの中に出てきたか? その答えは、観進めて行くうちに明らかになった。あの悪童のような人物はそのあとにいくらだって出てきたからだ。具体的には、群衆の中に。本作は、実によく群衆が出てくるアニメである。多くは俯瞰で描かれていて、宮崎アニメの中でこれほど俯瞰が多用されたこともなかったのではなかろうかと思わされた。汽車の車内に震災後の混乱、名古屋の町の雑踏。ところが、その彼らの顔つきは、二郎や奈緒子、本庄に黒川と明らかに異なっていた。尖った、不機嫌そうな、不寛容そうな顔。会議で群がる軍人たちも、明らかに異様な顔つきと言葉遣いで描かれていた。宮崎アニメの先行作の群衆に、ついぞああいった顔は出てこなかったのではないか。例えばラピュタの炭鉱町の労働者たち、彼らは決してあんな風には描かれていなかった。もののけ姫の傷病者ですら、あんな顔はしていなかっただろう。本作で唯一の例外は、カプローニ伯爵の飛行機に乗っていた工員たちである。彼らは明らかに戯画化されて描かれ、まるでブリューゲルの農民画めいた楽しげな乱痴気騒ぎを繰り広げていた。理由は簡単である。このシーンこそは、夢だからである。

  ずばり言ってしまえば、本作の主要人物は誰も彼もが上流階級揃いだ。そのことをはっきり承知して宮崎駿は本作を作っていたように思う。二郎と奈緒子はもちろんのこと、あのよき理解者たる上司の黒川までが並ならぬ資産家の様子である。実はこれは、必ずしも必要な設定ではなかっただろう。にもかかわらず、本作では、そう描かれていた。突然押しかけてきた若い娘を迎え入れ、即席の婚礼を仕立てることができるぐらいの備えのある家として、描かれていた。

  このはっきりした対立が浮かび上がらせていたものは、もちろん戦前の日本社会であっただろう。貧富の差がそれほど苛烈な時代である。言ってみれば、ヒコーキ作りなどはどうやったところで有産階級の手すさびなのだ。しかしそれ以上に重要なことは、ものすごく酷なことだけれど、「世の中には話の通じる奴と通じない奴がいる」という事実の直視ではなかったかと僕は思っている。ここに描かれているものは、そういう枠組みの中でのものがたりなのだ、そのことをはっきりと自覚的に宮崎駿は提示したのではないか。あらゆる矛盾を承知のうえだときわめて周到な断りを入れたうえで、宮崎駿は飛行機と恋愛を描いた。こうすることで、いくらだって安っぽくできる題材に強靱な骨組みが備わった。浮世離れしかねない筋立てが、しっかり地面に縫い付けられた。しかも、二つのドラマはまったく齟齬なく継ぎ合わせられていた。これは、本当に、驚くべきことだ。

  告白すると、僕は観ていて至るところで泣けて泣けて仕方なかったんだけど、とりわけやばかったのはカプローニ伯爵の場面である。大志を抱く少年が夢の中で斯界の大家と語り合う、もうそれだけでもグッと来るところなのに、彼は夢を語り理想を語り、最後には地獄の釜の蓋まで開けてみせるのだった。もう一つ、二郎が設計に没入していくところの場面は、アニメーションの力を再認識させられるものだった。優れた頭脳の中で、思考は未だ観ぬ飛行機の骨組みを思い描き、モノの動きと連携して、飛行機に一片の知識すらないこちらの視線をどんどん遠くへと誘導していった。ネジ一つ、蝶番一つが生き物のように動き、気流の中で生物のように伸縮していた。もうそれだけで、泣けた。至るところで泣けた。理由はよく分からない。

  それに、これはきわめて意外だったんだけど、奈緒子さんとの恋の下りが本当に素晴らしかった。てらいなくまっすぐな、恋の物語。布団の中で腕を絡め合う二人のすがたは、愛おしかったし、艶めかしかった。宮崎駿が大人の恋愛をきっちり真っ向から描いたのってこれが初めてじゃないでしょうかね? いや、これは椿事だと思いましたよ。母でも妻でもない二十代女性が宮崎アニメに出てくるとは……。

  もっとも、奈緒子との恋に悲しい結末が暗示されているように、二郎の心血を賭した仕事にもまた悲劇が待ち構えている。どんなに美辞麗句で飾ろうが、要するに彼が傾注しているのは人殺しの道具作りだ。その野蛮は作中に暗示されていたけれど、現代の我々はその結末までを知っている。そういったことを宮崎駿は、例えばサンテグジュペリ「夜間飛行」の解説文で書いたりしていたけれど(頗る名文です)、それをはっきり作品の中で、しかもアニメならではの技法で示したことに、僕は深い感動を覚える。この不愉快な矛盾を直視することこそが、現実と切り結ぶことだと思うからだ。

  半世紀に及ぶ画業の到達点が本作であった点にも、僕は深い感動を覚えた。最後の最後で宮崎駿は、現実の大地に深々と楔を穿ったように思う。引退を口にしたことで憶測が飛び交ったけれど、本作を観た上で引退宣言を聞いて、なにか思うところがないような手合いにはなにを言っても伝わらないんじゃないでしょうかね。これは、それほどの作品です。

  なお、これはまったくの蛇足以外のなにものでもないけど、本作の前の予告編に安っぽいゼロ戦映画が出てきたのには心の底からゲンナリさせられた。「風立ちぬ」で宮崎駿が周到に避けてきたことを全部やらかしている内容と見受けられた。本作ラストシーンの苦渋に満ちた二郎の顔を忘却しきって半世紀たつと、ああいうモノができあがるんでしょうな。

  まあ、いかに不誠実なシロモノが衆生を幻惑しようとも、僕は「風立ちぬ」の痛みに満ちた複雑さの方を愛するでしょうし、ここまでの宮崎駿監督の足跡に深い感謝と敬意を表したいと思います。ありがとうございました。







追記:なお、賛否両論あったようですが、庵野の声はすごいよかったですよ!あの技術バカなキャラにぴたりと合って。まあ一緒に見に行ったおよめさんには絶不評だったので効果には個人差があります。それに、二郎さんが庵野に見えて仕方なくなるという副作用もあるんですが(笑)。


追記2:音楽がすごくよかったことは特に指摘しておきたいです。正直なところ「ポニョ」あたりでは(……久石さん枯れちゃったのかなぁ)とおもっていたのですが、本作では音が若返ったような印象を受けましたよ。メインテーマの、シンプルだけど印象深いメロディラインも大変すてきだったんですが、それ以外のところでも至るところで音は響いていて、ふと気付いたときに(あぁいい音楽だなぁ)と素直に思えるという、映画音楽として理想的なあり方だったんじゃないかと思います。心憎いことには、二郎が設計しているときのBGMなど、まさにこの時代の産物であるモダニズムの響きを連想させるものでした。一方でユーミンの飛行機雲はなぁ……。予告編観たときにはベストなはまり具合と思ったんだけど、この大作の後に流すとちょっと場違いな印象が否めなかった。むしろ冒頭に持ってきたのであれば、あるいはと思いましたが。
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 テオ・アンゲロプロス監督が死んだ。
「あ、あぁあ」
 ネットニュースを見ていて変な声が出そうになる。よりにもよって事故死とは……!!!
 まちがいなく、世界でいちばん好きな映画監督だった。その人が、つい昨日まで元気に映画を撮っていて、今日はもういなくなってしまったという事実に、胸が締め付けられるような気持ちになる。今日一日、地味に辛かった。仕事していてふと我に返ると、ああ、アンゲロプロスがいない!ということに気付く。


 初めてアンゲロプロスの映画を見たのは、1996年の春ということになるらしい。
 手元に「ユリシーズの瞳」のパンフレットが残っていて、おそらく上映館は日比谷のシャンテシネ。なんで観に行ったのか……? ということはさっぱり覚えていないのだけれど、当時自分はかなり出来の悪い医学生で、足繁く映画を観に行ってはチラシを貰ってきて、面白そうなのを見つけてはまた次の映画に行く……ということを繰り返していた。そういう経緯で、今となっては幸運だったとしか言いようがないのだが、「アリゾナ・ドリーム」とか「金日成のパレード」とか「動くな、死ね、甦れ!」とか「ティコ・ムーン」とか、そんな映画を見てきたことになる。そういった網の中に、偶然引っかかってきただけのことだったのかも知れない。
 決して分かりやすい作りになっていないアンゲロプロスの映画を観て、たちどころにその真価を見抜いた! ……などと言えたはずもないのだけれど、「なんだか凄まじいモノを観た」という印象だけは強く残った。折しも、冷戦が終わって数年という時期だった。東側諸国が開かれはしたものの、至るところに混乱と内戦が残る時代だった。自分が初めて東欧を旅行したのが1995年の春だから、かすかに個人的な体験と響き合ったのかも知れない。
 失われたフィルムを求めての遍歴というのは映画的にも物語的にも映えるものであると思うが、ハーヴェイ・カイテル演じる男"A"が目撃するのは、あの時期の混乱しきったバルカンだった。
「どこへ行く」
「フィリプポリスです」
「プロヴディフと呼べ!」
 短いやりとりに窺い知れる国と国との諍い、ドナウ川をゆっくりと流れ下る巨大なレーニン像(このシーンはあまりにも鮮烈で、思い出すたびに自分の目で直接肉視したような気分になる)、霧の中の銃声、"A"の涙……。
 繰り返すけれど、とにかく自分があそこで感じたのは、「なんだか世の中にはモノスゲエことをやっている人がいる」という漠たる感動と畏怖だった。自分の短く浅い見聞の範囲で理解していた映画というフォーマットとはずいぶん違うやり方で、しかし、おそろしく堅固な世界を作り上げている人がいることを知った。生意気でモノ知らずで自尊心が強くて、要するにありふれた若造であった時期にこういうものに触れていたのは幸運なことだったと今になってみれば思う。こんなことでもなければ、なかなか、空の高さには気がつかないものだからだ。


 この次は、アンゲロプロス作品と意識して観に行った。1999年、「永遠と一日」が公開されたときのことだ。失われたフィルムを追い求める"A"に対してこちらはアルバニア難民の少年を連れて遍歴するアレクサンドレ、厳しい風貌のハーヴェイ・カイテルに対して、ブルーノ・ガンツの温和な面持ち。前作とよく似た構造でありながら、こちらはずいぶん穏やかなものを感じさせるなと思ったことを覚えている。このときは知らなかったけれど、アンゲロプロスが晴天を撮った! という点でも滅多にないフィルムであったらしい。それでも、例えばアルバニア国境のシーンなど(多少の誇張はあるような気がするのだが)、バルカンの苛烈さはそこここに顔を出すのだけれど。
 一つのストーリーラインを負いつつも、多層的に物語を進め、結果として時間を(個人史を、あるいはギリシャそのものの歴史を)立体的に描くというアンゲロプロスのくわだてを、このときははっきり自覚したように思う。
 余談だけれど、確かこの年、週刊誌のAERAの表紙にアンゲロプロスが載っていてびっくりしたことがあったっけ。茨城県の片田舎の病院の購買で、小躍りしたことを思い出す。


 現在のところ日本で公開された最新の長編は2005年の「エレニの旅」だろう。これも、公開時に見に行った。これはもっと明瞭にギリシャの近現代史を追ったフィルムだった。
 オデッサからテサロニキへ、アメリカへ。それがどこまで流れゆくかと言えば、地球を半周して日本にまでたどり着く。終盤、"Ioh Jima"という言葉がほんの一瞬ギリシア映画に出てきたときに、僕は、二十世紀という時間に人類が移動した距離の長さ、移動することを強いられた距離の長さに思いを馳せて慄然とした。「私は難民です」と繰り返すエレニの言葉は、もちろんのこと、エレニだけのものではない。
 なおこの映画、昨夏友人の家に遊びに行ったときになんとDVDを持っていて、あらためて観る機会に恵まれた。数時間痛飲してへべれけになったあとで出してくる映画がアンゲロプロスというのは一般的にはアタマのおかしい行動なのだろうが、高校時代からの親友なのだから仕方がない。さぞやいい子守歌になるだろうと思いきや、見れば見るほどに目が冴えてしまって困った。
「すごい」
「すごいよ」
「黒い船が来た」
「羊が、羊が」
「水が来た!」
 二人して、阿呆のように断片的な言葉を呟きながら、白と黒の支配する画面に圧倒されていた。こういう映画の経験は本当に幸運なことで、たぶん、一生に何度もないことなんじゃないだろうか。


 そしてなによりも「旅芸人の記録」、このことは前に書いた。唯一無二。繰り返すけど、こういったかたちで、日本の歴史が回顧されるようなことはあったのだろうか?


 まったく私的にアンゲロプロスの映画を思い返すならば、だいたいこういうことになる。乏しい経験を総じての感想は、自分にとってアンゲロプロスの映画は、表現することのいちばんの外ッかわにある。物事を表現するときに、いちばんみっしりと中身の詰まった、棒でひっぱたこうが体当たりしようが爆弾を炸裂させようが微動だにしない強固なものを築こうとするのであって、そのことがほかのすべてに優先するようなやり方である。
 表現する者の末席を汚すようになって思うのだが、とても、そこまでできない。このへん多少ご意見もございましょうがマー昨今の事情を鑑みて何卒穏便に、なんぞという気分を、なによりも自分に向けていることを否定できない。言わずとも分かるんでしょうけれど利便性を勘案しましたらマァこのあたりはお力添えしておいた方が無難でしょうね、なんぞという気分を、なによりも自分に向けていることを否定できない。
 アンゲロプロスは、そうしなかったらしい。だからこそ、ギリシャという今なお混乱渦巻く大地に爪を立てることができた。「旅芸人の記録」が撮れた。あの映画は異常だ。比類ない。



 そのアンゲロプロスが、もう、いない。
 アンゲロプロスはまるで、自分の映画の中で唐突に起こる悲劇とそっくりなやり方で、突然この世からいなくなってしまった。
 悲しくて仕方がない。
 残された仕事の高みを思うに目が眩む思いがするけれど、生きながらえているからには、自分もできるだけの仕事をしなければなるまいと思う。









さようなら。
ありがとうございました。
ほんとうにありがとうございました。
 テオ・アンゲロプロス監督の映画「旅芸人の記録」を観てきた。
 公開当時、「ユリシーズの瞳」を見て以来、観たい、観たいと思い続けてきた作品。13年目にしてようやく願いが叶う。僥倖だ。
 手元になんの資料もなく、一度観ただけの記憶を頼りに書く文章なので人名やシチュエーションに多少思い違いがあるかもしれませんが、その点はご容赦。


 つくづく自分は現代ギリシャのことを知らないと痛感する。古代ギリシャの文明、アテネやスパルタの都市国家、ギリシャ神話やホメロスの叙事詩といった歴史のかなたの出来事から大きく跳躍して、近現代に到ってみれば、近代オリンピック発祥の地、海運王オナシス、その男ゾルバ、クセナキスやテオドラキスの音楽、そういったことを断片的に知ってはいても、ギリシャがどのような歴史をたどって現代に到ったのかということは、ほとんど知識がない。
 しかしこのフィルムは、ギリシャの現代史を太い支柱にして進行する。いちいち教科書めいた説明はされないが、主役に据えられた旅芸人の一座の背景に、過酷なギリシャの近現代が見え隠れする。トルコとの戦争、イタリアの侵攻、ナチスの侵攻、レジスタンス、イギリスの占領、アメリカの占領、コミュニストと王党派の対立。観ながら、そのいちいちに驚く。その都度の流血。ヨーロッパと括られる国々の中でも、この現代史の苛烈さはなかなか類例がないかも知れない。そのことをこのフィルムは、無知な極東の人間にも教えてくれる。


 しばしば難解と言われがちなアンゲロプロスの作品だが、必ずしもそういう印象は受けなかった。シンボリックな事象は繰り返し出てくるし、劇中で三回、登場人物が前後の状況を語ってくれる。ただし、物語の語られ方が通常の映画とはずいぶん異なるので、ちょっと特殊な忍耐と集中を必要とするだろうけど。
 作中の人物は、ほとんど語らない。多くの場合、感情の表出も最小限に抑えられる。見え透いた笑みを漏らさず、押しつけがましい涙を浮かべない(例えば登場人物がはっきり意図的に笑ったと気付いたのは、捕らえられてゆくレジスタンスのオレステスが突然浮かべた満面の笑み、その一箇所だけだった。はっきり慟哭が聞かれたのは、エレクトラがオレステスの骸に対面した一瞬だけだった)。
 その代わり、人物は実によく歌う。歌がその人間の立ち位置や思想、内面を暗示する。歌詞を伴わない音楽もまた、その場の状況を雄弁に語る。エレクトラがレジスタンスの一行と再会したときにほんの一節口笛で吹かれるインターナショナルなど、その好例だった。また、しばしば音楽は唐突に中断され、強烈な逆説的な効果をもたらす。このフィルムでは、明るい音楽がしばしば悲劇と隣り合う。雪模様の山村で、客寄せのために歌い踊る旅芸人の一行を突然沈黙させたのは、ナチスに処刑されたレジスタンスの遺骸である。ダンスホールで王党派とコミュニストたちは歌合戦をするが、優勢なコミュニストたちの歌声は一発の銃弾で中断される。いかにもギリシャ風の、変拍子の陽気な音楽に導かれてきたのは、軍人たち?の掲げるレジスタンスの生首である。この複雑なアイロニーに満ちた音楽の使われかたが、この映画のなによりも雄弁な語り手になっている。たとえばイギリス人と内通し、アメリカ人と結婚した旅芸人の一人の女が海辺で結婚式を挙げるとき、老婆の歌うギリシャの民謡は軽薄なダンスミュージックにかき消され、そこに女の息子が無言でテーブルクロスを薙ぎ払って抗議する。ここにはほとんど一つの言葉も語られないのだが、ギリシャの1946年頃?の状況が鮮やかに暗示されている。
 また、他のアンゲロプロス作品でも経験したことだが、この作品でも群衆というものが一つの語り手になっている。多くの場合、群衆は一人一人の顔が見えてこない。ただし、衆愚という印象は受けない。彼らはおそらく、一人一人がはっきりした意思の下に群れなして動き、叫び、歌う。それゆえ、群衆同士は時に強烈な衝突や対立を生む。これは、一群れではあるけれど一人一人の人格がはっきり見えている旅芸人の一座としばしば対比される。文字通り彼らは群衆に翻弄される。レジスタンスと警察の銃撃戦の中、闇夜の街を逃げまどう彼らの姿に暗示されるように。


 これらがギリシャの現代史を骨組みとした大きなものがたりであるならば、旅芸人の一座の中にもまた小さなものがたりがある。中でも、母の姦通と間男の裏切り、逃げる息子と復讐する娘といったエピソードは、まるでギリシャ悲劇のようなものがたりである。平たく言えば欲望に駆られた人間たちの矮小な小競り合いなのだが、それがギリシャの現代史や芸人一座の演じる作中劇と重ね合わせられれば、その行動にはどこか神話的な象徴性が感じられる。秘密警察に強姦されるエレクトラや、一本のワインをダシに女に服を脱がせてマスターベーションに耽る男、目を背けたくなるぐらいに醜悪なエピソードも含めて。
 ただし率直に言って、こちらは少々流れを追うのに苦労した。これは、作中人物の名前がほとんど語られない、暗いシーンが多くて人物の判別がしづらい、ナレーションが存在しないなどといった極端に禁欲的な映画の作りのせいだと思うんだけれど。


 率直に言って、四時間に渡るこの極度に禁欲的なフィルムに集中するのは結構な忍耐が要った。とてもじゃないが、軽い気晴らしとして観るような映画ではない。しかしながら、これは、大いに報われる努力だった。途方もない作品に向き合うときに、当然払ってしかるべき努力だった。
 こういう映画を見ると、いかに自分が現代の映画作法に慣らされているかを痛感する。わかりやすく、説明が行き届き、人物の内面を描写するために過剰な感情の露出や派手な身体運動さえもいとわない映像。そういう映画は確かに「わかりやすい」のだが、では、自分が何を「わかった」のかと考え直すと、妙に心許なくなる。監督やシナリオライターの誘導するストーリーをそのまま自分の記憶に移し替えることは、本当に何かを「わかった」ことになるのだろうか?アンゲロプロスの極度にストイックな映像に浸りながら旅芸人の一座の歴史を辿るとき、そんなことが考えられて仕方なかった。
 そして、こういう力のこもった方法で近現代を描こうとした作者を、自分は強く尊敬する。例えばこのような方法で、日本の近現代史は、果たして回顧されただろうか?
 そしてこれは物書きのハシクレとして強く感じたことだけど、若いうちに、体力のあるうちに、こういう大きなものがたりを書く努力を払うべきだと思った。ある種の無謀さや不敵さを押し通すことの出来る、体力のあるうちに。


 テオ・アンゲロプロス監督作品、「旅芸人の記録」。1975年公開。
 このときアンゲロプロス、40歳。






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 早稲田松竹にて観劇。こういう試みには強く感謝したい。1/9まで。
 下北沢シネマアートン映画「眠り姫」を観てきました。
 ユーロスペースでやってた本放映時に見逃していたのですが、4/25までアンコール上映だそうです。4/18の記事でご紹介した、侘美さんが音楽を担当なさっています。
 なお、この映画の原作は山本直樹の漫画、更にそれは内田百間の小説に取材しているようなのですが、どちらも未見です。以下の記述、その点ご了承下さい。


 非常に野心的な試みの映画でした。
 なにしろ、画面にほとんど人間が出てきません。最初と最後、主人公らしき女性の姿が(ほとんどシルエットで)見える他は、画面のほとんどは風景で構成されます。例えば学校のシーン、職員室の映像に生徒たちのざわめきや先生どうしの会話が聞こえますが、その話し手はどこにも写っていません。この手法は徹底していて、街中やファミレス、電車の中といった、本来ならばまず人間がいるであろう場面でも、人間の姿は周到に排除されています。
 見始めて数分、この意図に気付いたときは、これで一時間半観るのは少々しんどいぞと身構えたのですが、幸いそういうことにはなりませんでした。不思議なのですが、非常に印象的な風景の連続と、時に曖昧なセリフを追っているだけなのに、ほとんど中だるみすることなく観ることができました。
 これは、映画の途中に挿入される、きわめて抽象的な数カ所のシーンがうまく作用していたからかも知れません。主人公の夢を象徴しているのでしょうか、朝ぼらけの街路、あるいはどこかの川端、そういった風景に、音楽が被さります。それが、どこか不安をかき立てるフラジョレットやグリッサンドを多用した音響から、画面の移ろうにつれて柔らかい木管のハーモニーに流れていったりもします。これは本当に秀逸な、きわめて印象深いカットでした。この夢と思しきシーンだけでも、この映画は充分に観る価値があると思ったほどです。
 しかし、そうであっても、観るのに少々の疲労を感じたことは事実なのです。
 それはこの映画の採った手法のせいではないということは、先に強調しておきます。


 こういうストーリーの映画です。
 主人公は、おそらく20代の女性です。友人が24歳ということなので、その前後の年齢でしょう。中学校の非常勤講師をしています。はっきりとした理由は示されないのですが、主人公は自分の生活に違和感を抱いています。「部屋の中に誰かがいるような」といった言葉や、同僚教師の顔立ちへの言及に、そのことが端的に暗示されます。
 そのせいなのかどうか、主人公は非常に長く眠ります。「眠っても疲れが取れない」という趣旨のことを言い、起きるとたくさん水を飲みます。この眠りは、先に述べたような、非常に効果的な映像で暗示されているようです。そのほかにも、落下するピンポン玉や流れる雲と言った抽象的な映像が、主人公の独白を修飾します。
 主人公には高校時代からのつきあいの彼がいるらしく、その男はちょくちょく主人公宅に立ち寄ります。当然セックスなどもこなします。男は結婚する気も満々なようなのですが、主人公は今ひとつ乗り気ではありません。男はだまし討ちで母親に主人公を引き合わせますが、主人公はそのことに苛立ち、のちにはその母親が自室を無断で来訪したという妄想を抱いたりもします。
 結局、主人公は男と喧嘩します。はっきり別れたかどうかは、示されませんが。
 そののち、主人公は同僚教師の野口とちょくちょく二人きりで会うようになります。恋愛関係ではなさそうですが。野口は睡眠薬に溺れているらしく、しだいに痩せてゆきます。ここで、主人公は、眠る側から眠る野口を見守る側に逆転しているようです。主人公は最後に、男と別れて結婚を辞めることを野口に相談しますが、野口は辛辣な言葉を返します。
 そして、数日後、野口は自殺します。
 おおむね、こういった話の流れだと思います。


 自分がこの映画を観ていて少々の疲労を感じたのは、おそらく三つの理由があると思います。
 それは、一つ、この内容に象徴されるような問題を、今の自分はあまり痛切に感じられないことです。「今現在の自分に対する違和感」というのは、現代の日本人ならば多少なりとも抱える精神病理なのでしょうが、それはおそらく、(作中最後の野口のセリフに示されるように)どのように言い立てたところで解決の見える問題ではないのでしょう。傷一つない生活など、存在するはずがないからです。自分も確かに、二十歳のころならば自分に対する不安と不満と不充足に灼けるような苛立ちを感じてはいましたが、それは、残念なことに今の自分にはそれほど切実に感じることのできない問題です。
 もう一つ、この内容に象徴されるような問題に、ちょっとした懐かしさを感じてしまうことです。「今のワタシに対する不安」とは、誰しも抱く心理でしょうが、そこには確実に過多の差があります。それをすくい上げ、誰しもが抱く「甘やかな自己否定」と共鳴させるような作話手法が、確かに一時期の流行りであったな、と、今の自分は懐かしく思い出します。自己否定に到るほど、自己と向かい合っている人間が現在どれほど居るのか、自分には判断が付けられません。おそらく、携帯やらネットやらSNSやらといった、お手軽に自我を垂れ流せるツールがこれほどの隆盛を迎えたことで、自己に延々と向き合ってゆくことを多くの人間は放棄したのではないかと、自分には思われます。
 最後の一つは、自分が書き手のハシクレであるということで、自分ならばこう表現するであろうということをいちいち考え込んでしまうことです。もちろんこれは、この映画に限ったことではないので、ここでは詳述しません。


 もちろん、このような映画の「ストーリー」を逐一追いかけて云々するのは、少々野暮な行為かも知れません。しかし、これほど周到に仕上げられた映像を前に、その印象や雰囲気ばかりを追いかけるのはもったいないことだと自分には思われます。
 眠りゆく女性に不満の心理を象徴させるのならば、ぜひ、その女性が目覚めるところまで踏み込んで欲しかった、というのが、率直な自分の感想です。それは、とてもではありませんが、同僚教師の自死やカレシとの別れで解決されるような問題ではないだろうからです。
 それでなくとも、今どき、眠りたがる手合いが多すぎるのですから。


 なお、上映後に、七里圭監督と宮沢章夫さんのトークセッションが行われました。宮沢さんの質問が大変面白く、特に、こういう抽象的な映画でどのように時間の配分を行っているのか、という趣旨の問いかけは、まさしく舞台の人ならではだと思わされました。また、1995年という年を一つの節目とするかどうか、という問題提起は少々すれ違った感もあるのですが、お二人の世代差や世界観も相まって、非常に興味深い対話となったように思います。


 4/25まで上映は続くようです。連日20:30からのレイトショーです。見逃した方は、お早めにどうぞ。

segawashin

Author:segawashin
2007年、「mit Tuba」で
第23回太宰治賞受賞。
ホームページはこちら。
www.segawashin.com
ツイッターはこちら。
http://twitter.com/#!/segawashin

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