セガワブログ

小説家、瀬川深のブログ。

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瀬川にとっては比較的激動でしたが人類にとってはさほどでもないかもしれない2007年も
余すところ5時間ほどとなりましたが皆さまいかがお過ごしでしょうか。
瀬川の私的10大ニュースです。

①第23回太宰治賞受賞
やはり今年はこれがいちばん大きかった。
モノを書こうと足掻き続けてきた青二才に一つ飾られた星なのだと思う。
もちろんこれは試合に出る出場切符を貰っただけのことで、ふんばりどころはこれからなのですが。
ただ、このことで、思いがけない出会いもあれば、疎遠になっていた知人との交流復活もあった。
そのあたりの余波も含めて、本当に幸福な受賞だったと思う。
お世話になった方々に改めて申し上げます。
本当にありがとう。


②医学博士号取得
こちらはまずはマジメにやっていれば貰えるものだったとはいえ、
長い長い学業生活の一区切りになったことは確か。
だって考えてみれば俺、6+3+3+6+4で合計22年も学校通ってたんですよ奥さん。
22年って言えば女の子が生まれて大きくなってちょっと恋愛して場合によっては
出産ぐらいこなしちゃう年月ですよ。
もうなんて言うか。
つくづく教育ってのは莫大な年月と費用がかかるもんなのだと感じる。
まあそれに見合うだけの恩返しを社会に対してできるかというと、
少々自信がなくなってくるんだけど……。



(省略)


④合気道三段を允可される
12年かかったとはこの日記にも書いたけれど、
考えてみたら俺、10年以上続けてきたことって合気道のほかには
小説と旅行ぐらいしかないんだよね。
小児科医だって今年でやっと10年目だし。
ある時期は夜も日も明けずに熱中していたことが今となってはまるで興味が湧かなくなったり、
その逆にかつては嫌悪しきっていたことが今では生活のかけがえのないものになっていたり、
そんなことがいくらでもある。
そう考えると、人間って言うのは変わらないようでずいぶん変化するものだし、
柔軟なようでいてあんがいに頑固なものでもあるようだ。
そんなことも含めていろいろ考えることの多かった合気道三段。
いえ、つくづく嬉しいです。


⑤普通二輪免許取得
かなり痛々しい理由のために免許取ろうと思い立ったんだが、
これが思いのほか世界を広げてくれるのに役に立った。
つーかぶっちゃけバイクめっちゃ面白いです。
アーこんなことならばもっと早めに取っておけばよかった。
これから免許取ろうと思っている人は、ぜひ同時教習をお勧めします。


⑥ブルガリアの大学で講演してきた
まあ顛末は省略しますが、
自分がなぜか大好きな東欧の深奥、ブルガリアにまさか仕事で行けるとは思わなかった。
いやあ、生きているといろいろいいことあるなあ。
ああいうまだまだ発展途上の国の、思慮深く知識豊かなインテリの人たちと
仲良くなれたことも大いに収穫だった。
かなり反省する思いもあって。


⑦インドネシアで睡眠薬強盗に遭う
……いえ、まあ、確実に笑い話じゃないんですが。
よく無事だったなあ俺。
海外旅行慣れしてるze!とかいい気になっていると、こういう痛い目を見ます。
つくづく反省。


⑧CICALA-MVTAのライブに行って来た
まあ太宰賞のおかげとも言えるんだけど、ほぼ10年来の大ファンだったバンドの人に
拙作を読んでいただいて、書評も書いて頂いたりして、
ファンとしてこれに勝る幸福はなかったです。
もう一つ、年末のライブで相当なサプライズがあったんだけど、
これはまだオフレコだな。


⑨コミュニティFMラジオに出演した
短い経験だったけど、これはとても面白かったです。
小説のネタにもなったし。
リサイクル人生。


⑩いろんな人に出会えた
いえ、これは追従でも何でもなく。
俺、結構ネットに対する猜疑心は強いんですよ。
それが、意外にもネットを通じていろいろ面白い人と知り合えて。
これはかなり珍しがられるんだけど、俺は大学出てからできた友人の方が
圧倒的に多いんですよ。
それはまあ、学校っていうコミュニティの外でジタバタ足掻いた結果なのかもしれないけど。
でもまあ、出会いってのは本当に幸福なことだと思うのです。





こうやって並べてみると、私的にはそれなりに波瀾万丈だった2007年。
いろんなことがあってハッピー!と脳天気なことを言うつもりはさらさらなくて、
というのも、これは結局それ以前に足掻いていたことが偶然今年結実したに過ぎないんですよ。
これは実はかなり恐ろしいことで、
逆に言えば今サボっているツケは数年後に必ず現れてきますからねえ。
「商いと人生は停まるない列車」とはよく言ったものです。


瀬川とここを読んでくださった皆さんの2008年がよい年でありますように。
それではみなさま、よいお年を。



BGMはベートーヴェン/リスト編曲「交響曲第9番 ピアノ独奏版」、
ピアノはシプリアン・カツァリスで。
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 最近いろいろ捨ててます。
 人生とかプライドとか将来の目標とかではなく(たぶん)、物理的にクソ汚いマイルームのがらくたを大量に。オタクな人生を反映して溜め込むだけ溜め込んだ人生の汚泥を大量排出と言った感じ。
 とりあえず本や漫画などを六箱ほど古書店やブックオフにスローアウェイ。なんとなく取っておいた服も袋一個分ぐらい捨てました。ソファーベッドも捨てたいんだけど、年内に粗大ゴミはもう間に合わないかな。揃いの雑誌はヤフオクなどで売れないものか。


 不思議なもんで、いったんスイッチが入っちゃうと捨てるのに躊躇がなくなりますな。
 なんとなく取っておいた学生時代のサークル名簿とか自主制作のCDとか授業のノートとか、そんなモノにはもはやかけらほどの思い出も残っていないことに気付いたらざっくり捨てられました。
 不思議なことに、気分的にもえらくすっきりするんですよ。
 ただただ部屋が広くなって嬉しいなあとしか思えなくて。


 もちろん無差別に捨ててるわけではなくて、活字の本はあんまり減らしていないです。これは、漫画や雑誌は衝動買いするけど活字の本はわりと選んで買うことを反映しているのかも。
資料的価値が高いこともありますしね。
 あと、旅先で買ってきたものも捨てられないので、これは二つほど箱にまとめました。
 パキスタンで作ってもらったシャルワールカミースとかイエメンのジャンビーアとか、1994年頃の中国の時刻表とかラトヴィア語の絵本とか。
 もう一つ、マーなんと表現したらよいか、アレなもののコレクションも今回は廃棄を見送りました。
 大学にばらまかれてた革マルのチラシとか、ヴァジラヤーナ・サッチャ(オウムの小冊子)とか、ミラクルくん(幸福の科学の少年向け漫画)とか、根本敬さんが紹介していたデンパ系の有名人(『トリコ仕掛けの明け暮れ』『赤軍的地下暴れ』など創案した名フレーズ多数)湊昌子さん直筆の文書とか、テレクラ全盛期の風俗チラシとか、自宅ポストに投げ込まれてた勝共連合のチラシとか。
 こんなものを二十歳前後の頃にせっせこ収集していたわけで、そのイタイさんな過去に今となってはちょっとほほえましい気分になったりもします。
 まあこういうもの、今となっては一種の風俗資料になるかも知れません。


 しかし、自分でも驚いたんですが、人間って結構変化しますよ。こんなに景気よくモノを捨てられるとは思わなかった。まあ俺のコレクター気質が薄いと言われればそれまでなんでしょうが、ここ数年、モノを溜め込むという方向にあまり注意が向かわなくなっていますね。
 いい方向なのか悪い方向なのかは分かりませんか、人間は、変化し変質し変容し続けるようです。


 中島みゆきさんが歌ってましたけど、
「五年かければ人は顔立ちも変わる」(トーキョー迷子)。
 的確すぎて、恐ろしいぐらいです。
「人は誰でも祭りの終わりを知る」(まつりばやし)とか
「ガキのくせにと頬を打たれ少年たちの目が歳をとる」(ファイト)とか
中島さんの歌詞は鋭すぎて怖いようなフレーズが多いですが、いちばんすごいと最近になって気付いたのは

「私がまだ一人旅に憧れてたころ」(遍路)

です。このフレーズのすごさは、本当に、分かるときにならないと分からないと思います。
こういう詞を二十代半ばで書いちゃうんだもんなあ。 
天才ってすごいなあ。
火は遠いところに

かなたに盛る火を畏れることだ
すぐかたわらの炎と熱ならば
子供でも犬でもおびえる
遠い火をあなどってはならない
地平の向こうにひるがえる炎を
軽んじてはならない
あくせく歩き回り
大いにめしを食い
つつましやかに眠りに落ちる
そのせつな
まぶたの奥に火が見えはしないか
脳の奥底をちりちりと炙る
熱を感じとりはしないか
たしかに
火はあるのだ
視認できぬかなたの平野に
火は煌々と盛っているのだ
慌てなくてよい
忘れるな
敬わなくてよい
嘲るな
いずれ火は荒野を走り
足下に迫るかもしれない
迫らないかもしれない
そのときのために
われらは
あくせく歩き回り
大いにめしを食い
深く長い眠りに落ちるのだ
そして脳裏に映る
遠い火は
時を刻むかのごとくに
刻々とひるがえる




----------☆----------

久しぶりに詩を書いたので、試みにブログにあげてみました。
高校時代からずるずると詩を書き続けているのですが、
いっときユリイカに投稿していた以外、なかなか発表のチャンスがないですね。

「もしもしセガワでーす。起きてたー?」
「うん起きてた」
「あっあのねあのね、俺、携帯変えたんだよ」
「えーそうなのー、どんなやつ?」
「えーとね、東芝ので、畳まないやつで、画面でかくて。すげー速い」
「ふーん。色は?」
「うーん……とねえ、緑って言うか青っぽい感じでー、メタリックな色でー、結構きれいで人気あるらしくってー、わざわざ他のショップから取り寄せてもらったんだけどー」
「えー見たい見たーい」
「アーちょっと待ってて、写メ送るから」


……とここまで脳内彼女とのキャッキャウフフ会話を妄想していたら
携帯では携帯自身の写真が撮れないことに気付いた瀬川です。
なんだか世も師走って感じな今日この頃ですがみなさまお元気でしょうか。


携帯は本当に変えたんですが、実にいいですね。
実質3年ぶりぐらいの機種変更となるので、なんていうかその、
これまでWin95にメモリ128Kbのダイヤルアップでちまちまネットやってたのが
Xp(Vistaに非ず)にメモリ2Gに光回線の環境にいきなりレベルアーップな感じで。
ウワァ快適だ。
そっかあ、メール打つのにストレス感じてたのは携帯がアホ子さんなせいだったんだなあ。
うまいメシを食うためには長めに断食するのがいちばんだという世界の原則を思い出しました。



というか携帯ショップと言えば、
大昔に渋谷センター街のショップで(よりにもよってまた…)機種変したとき
「えっ3年も機種変してないってマジッすか俺知ってる範囲で最長ッスよ」
と茶髪ピアスの店員にかなり屈辱的なポイントで大いに驚かれたあげく
「なんでもいいからメールが使えるやつを下さい」
「いや、今どれでも使えますから(クスクス」
みたいな反応をされて、そのなんというか

うるせーバーカバーカおまえの母ちゃんでべそー!

といったような偏見に満ちた職業的憎悪を抱いていたのですが、
今回のショップの兄ちゃんは優秀でしたよ。
「変換が賢いのがいいんですけど」
と言うや、ざっとカタログを取り出してビシバシ印を付けはじめ、
「このへんはATOKが入ってますからベストです」
「こっちはATOKなしですけど予測変換がかなり使えますよ」
と、俺が女なら惚れてしまうんじゃなかろうかと言うぐらいに完璧な対応をしてくれて
自分内携帯ショップ店員の評価が急上昇しました。



ありがとうアニキ、俺、またこの店で買うよ。
……確実に2年以上経ってからですけど。
12年かかりました。
長かったというかあっというまだったというか……。
よく続いたなあと言うのが正直な実感。


それに見合う実力がついてるのかと訊かれればはなはだ心許ないし。
長く歩いたことに対して一つ頂戴したご褒美、と考えておくことにします。


ただ、続けられた理由をちょっと考えてみると、
「しゃにむにやりすぎない」というのがよかったのかな、と。
ここで思い出すのは自分の叔父のことです。
叔父はスピードスケートで何度も国体に出ていたような地元の名選手だったんですが、
体を鍛えるコツを訊いたら、
「毎日ノルマ決めてやるとしんどいので、やりたいときにやりたいだけやる」
だそうです。
まあもちろん、もともと身体能力が高い上にあるていどの経験や方法論が定まった人の言葉ですから
そのまま鵜呑みにするのは危険なんですが、何となく分かるところはあります。
合気道に限らないんですが、最初に猛然と取り組んで、いつのまにかやめてしまう人って
結構目にしているんですよね。
あの極端ながんばりぶりを、もう少し均等に分散した方が、
長い意味では力になるんじゃないかと思ったりします。
合気道の師匠がしばしば口にする言葉は「継続は力なり」で、
まあこれだけならば実に使い古されたフレーズなんですが、
合気道を40年以上やってきた師匠が発して
自分も何とか10年ちょっと合気道を続けてくると、
ようやくこの言葉の意味の一端がちょっとだけ理解できるように思います。



でも、心の底から嬉しいです。
合気道って面白いなあ。
 非常に恐縮なのですが、ネットの話題です。
 昨日あたりから(たぶんきわめて局地的に)話題になっていることなのですが、とある高校生の少年がゴキブリを唐揚げにする実験をしていたようです。それをよせばいいのにmixiの日記に書いてしまったもんだから、騒ぎが大きくなってしまったようで。まあ当然といえば当然です。どうも、バイト先のファーストフード店でそれやってたみたいなので。なんか、またこんな話かぁ、という気にはなります。ついこないだ、テラ盛り牛丼とやらでバイトをクビになった人が出たばっかりですし。
 正直なところ、この少年をあげつらう気にはなれないんですが、それにしてもよくわからない。なんで、こんなことしたんだろ。ゴキブリの耐熱実験じゃなくて、わざわざmixiに書くところが、です。
 これまた最近よく聞く話で、ちょいと彼女と奇抜なセックスなどを嗜んだ上に写真に撮影してパソコンに保存しておいたらウイルス感染して全世界に公開してしまいましたぁといったようなアクシデントがありますが、これとは全然話が違うような気がします。こちらはまあ不運としかいいようがない話ですが(はめ撮り写真などの是非はさておき)、この少年は、わざわざ自分から全世界に向けて発信してますから。いまさらアカウントが1000万超えしてしまったmixiをつかまえて、閉鎖されたネットワークといったようなのどかなことを言う人はいないと思います。
 じゃあなんでだろう、と愚考するに、おそらく三つぐらい原因があるんじゃないかという結論に至りました。一つは年齢、一つは少年の資質、一つは今の時流です。で、この三つは、たぶん「無邪気な全能感」というあたりに像を結ぶように思います。


 と考えたのも、少年のやったことがあまりにもしょうもないからです。露悪趣味というにしては、いじましすぎる。ケンカの武勇伝とか性的な逸脱とかとは同列に語れるようなものではないですね。さりとて、ネタとしてもあんまり面白くない。
 そうしてみると、どうもこの少年、「本当になんの気なしに書いてしまった」というあたりが真実なんでしょう。ここでそれを押しとどめるべき、「バイト先の鍋でゴキブリの唐揚げを作ったようなことを書くべきではない」というブレーキが恐ろしく甘かったんじゃないかと思います。
 そのブレーキの正体っていうのは、実は結構ささやかなものだと思うんですよ。といっても、こういう常識破りのことをしてしまった人に「常識」という言葉を振りかざして説教しようとするのもむなしいけど。倫理観とか公共心とか言うにもちょっとおこがましい、「そういうことはやらないでおきましょ」という行動規範みたいなもんです。
 それが十分に働かなかったということは、どうもこの少年、「自分のやっていることにブレーキをかける/られる」という経験が乏しかったのではないかと推察します。「無邪気な全能感」と述べたものの正体は、これであります。「自分の行動が否定される」という経験を経れば、人間、それなりに行動には慎重になるはずですから。言ってみれば、赤ん坊の全能感に近い。赤ん坊は、ほとんど自分ではなにもできない生き物ですが、行動を否定されることはありませんから。泣きわめいてもゲロを吐いても、それに文句を言う人はいない。いるかも知れないけど、それは言う方が間違っています。
 まあその赤ん坊も、長じるに従って、自分の行動に対する様々な制限に気付くんですね。まあ2~3歳ぐらいからでしょうか。特に下のきょうだいが生まれたりすると、それは覿面です。集団生活に放り込まれればやってはならないことの数も増えますし、さらに成長して人間の個体差がはっきりしてくる思春期あたりになれば、いっそう制限の数は増加します。目に見えるかたちで序列もつけられる。これは、平たく言えば、「世の中俺の思い通りにならねえことが多いなぁ」という実感です。そうとなれば多少は鬱屈もするし内省的にもなるし、自分の環境を多少はよくするためにあがこうともするでしょう。そういう陰気な時代を通過して、どうにか人間、社会に出てゆくための心理的な備えを身につけるんじゃないかと思うんですね。
 さて、そうしてみると、この少年の無邪気さがへんに際だって見える。伝え聞くところによると、この少年、mixiには自分の素顔も晒してたし、学歴も事細かに書いてたらしいです。名門私立大の付属高校だったらしいですね。この時期までバイトしていたことから類推するに、推薦でそのまま大学に上がれる可能性が高い。別にmixiのプロフィールで人格すべてを図ろうとは思っちゃいませんが、これ、つくづく、無邪気だと思うんですよ。ネット社会での危機管理などをどうこう言いたいんじゃなくて、「今の自分」に対する疑問の少なさに驚くんです。確かに学歴は立派なもんだし、素顔晒してたってことは、思春期にありがちな醜貌への恐怖も少なかったんでしょう。そうとなると、この少年、今の自分は実に安泰な存在であると思っていたんではないかと想像します。
 もし仮に、周囲の家族なり友人なり先輩なり彼女なりに、口うるさい人とか、少年を遙かに凌駕するような資質の持ち主とか、この少年に敵対するような存在があったとすれば、もう少し自分の行動を顧みる契機があったでしょうね。しかし当世、自分と波長の合わない人を排除する傾向があるようですし(KYとやらいう概念ですね)、結果として人間関係がイエスマンばかりで固まるという少々気色悪い自分の社会ができあがる。こうなると、「無邪気な全能感」はほとんど完成型に至ります。この少年がほかにどんな日記を書いていたのかは知りませんが、おそらく、学校のことも友人のことも成績のこともゴキブリの唐揚げのことも、少年の中ではおおむね同一の平面にあったのではないかと思うのです。
 不運にも、世間はそう見てくれなかったわけですが。


 もちろん社会というのは複雑きわまりないものなので、どんな人間でも社会に放り出されれば、大いに罵倒もされれば理不尽な目にも遭います。その辺で、自分の行動をちょっとずつ矯正してゆく機械に恵まれるわけですが、残念なことに少年はそうするにはまだ若すぎた。行動を矯正してくれるような人間関係にも恵まれなかったようだし、それは、KYな人を排除してはばからない今の時流が後押ししたことでしょう。そしてなにより、こういう粗雑な行動に対して疑問を感じる、妥当な慎重さが少年には欠けていたようでもあります。この、若さ、時流、そして資質が実に不運にブレンドされてこういう気の毒な事件が起こってしまったのではないか、というのが自分の推論です。
 まあその時流とやら、おそろしく飽きっぽいものでもあるので、一週間ほども騒げば収束する話だろうなという気もします。これをきっかけに、少年には、「ゴキブリの唐揚げを作るべきではない」「それをmixiなどで不用意に発言してはいけない」という二つのことを学んでくれたらと思います。






 ……もう18になる人間の学ぶことだとすれば、ひどく空しい気分にはなりますが。








 こないだの日曜日、三鷹市のジブリ美術館に行ってきましたよ。
 井の頭公園の隅っこというなかなかいいロケーションにあって、お散歩するには最適であります。三鷹からも吉祥寺からも、ダラダラ歩いて15分ぐらい。で、本当にジブリの映画にそのまんま出てきそうな(イメージで言うと魔女宅のキキの実家みたいな雰囲気の)不思議な建物が見えてくるんですね。


 入場のときに、中のシアター「土星座」の鑑賞券が貰えます。これが嬉しいことに、ジブリ作品のフィルムをカットしたもの。ちょうど三コマ分。
 前回来たときは、(多分ハウルかなにかの)荒野のシーンだったのでかなりがっかりしたのだが、今回は耳すまの月島雫(&おっさん)でしたよyahoooooooo。またいらんところでスパークしそうになる。
 ここで上映するフィルムは、ジブリ美術館でしか観られないらしく、かなり出来もよかったのですが、感想は後述。
 同じフロアに、アニメーションの歴史をいろんな方法で体感できるかなり出来のいい展示があって、これもじっくり見ていると結構はまりこみます。面白いですよ。


 さて、ここから二階に上がると、アニメーションの制作の現場を際限という体裁を取りつつ、その実は宮崎駿のイマジネーションの源を具現化したようなちょっと不思議な展示室があります。
 まあ一応、ストーリーを練ってコンテを切って下絵を描いて動画を描いて、なんていう博物館的な体裁は取っているんだけど、展示の主眼はそんなアニメーション制作の過程をおさらいするところにはないようで。
 なにしろ、おいているモノの数がものすごい。雑多に積まれた資料、美術集から歴史の本から建築図鑑から飛行機の模型から懐中時計までが並べてあって、壁や机の上にはジブリのスタッフが書いた絵が大量に貼り付けてあるんですよ。それもきちんと完成された絵ばかりではなくて、明らかに構想段階のラフな絵まで。
 あーこれはナウシカだけどちょっと服の感じが違うなあとか、ロングヘアのキキだから原作に近い感じでキャラデザしてたときのかなあとか、いろいろ見ている間にぐぐっとこみ上げてくるものがあって、恥を忍んで言えばほとんど泣きそうになってしまったので、同行の人にばれないように苦労しましたよ。
 なにか感動的な場面があったからではないんです。ただ、通りを疾走するキキとか、パズーがフラップターに乗ってるところとか、そんな他愛もない場面のラフを見て、どうしようもなく感動するものがあったんですね。


 ああ、俺、ジブリのアニメが好きなんだなあとしみじみ思いました。どの作品がどうだとか言うのではなくて、ほとんど原体験に近い。
 そもそも自分の思春期が、ジブリ黄金期に重なってるんですね。
 小五の時に公開されたのがナウシカ、中一のときにラピュタ、中三のときにトトロ、高一のときに魔女宅ですよ。ナウシカ以外はほとんどリアルタイムで観ているんだけど、人生でいちばん多感な時期にこんなやたらに完成度の高いアニメが怒濤のごとく押し寄せてくるわけです。これに中二のときの「オネアミスの翼」と、単行本の「シュナの旅」を加えれば、自分が強烈な影響を受けたアニメはほとんど出揃いますね。
 なんて贅沢な時代だったんだろうと思います。


 その影響の理由はなんだったんだろうと考えてみたんですが、それは、ストーリーが面白いとかキャラが魅力的だとかそういうことだけではなくて、なんというか、やたらに存在感の強い、押しても引いてもびくともしない作品世界の存在感みたいなものを感じ取ったからなんだろうなと思います。
 大体にして、ラピュタは何度観たか分からないぐらい好きな作品なんだけど、中学校のころからいちばん好きなシーンは、冒頭のパズーの住んでいた鉱山町でした。ちょっと中学生の感性としてはアレですが。
 ちっちゃな町があって、渓谷があって、山の中に縦横にトロッコが走って、底知れない炭坑の穴があって、どうやったらこんなに濃密な空間を作り出すことができるんだろう、と、しみじみ感動したことを覚えています。パズーの住んでいた掘っ建て小屋すら、魅力的に写りましたから。
 魔女宅のコリコの町にも同じことが言えて、ひょっとするとキキが家を出てからオソノさんちに落ち着いて、ジジを身代わりに配達するあたりまでは、今でもジブリの作品の中でいちばん好きなシークエンスかも知れません。
 この、どの家のドアを開けても人が住んでいそうな存在感というのは、本当にすごいことだと思います。これはさっきも書いたけど、オネアミスにも同じことを感じていて(これもこれだけで文章書けちゃうぐらい好きな作品なんだけど)、そうやって回顧してみると、自分は当時から物語の最終的な落としどころ、つまりはラピュタだったらラピュタが崩壊するとか魔女宅だったらキキが飛行船からトンボを救うとかオネアミスだったら無事人工衛星の打ち上げに成功するとか、そこにはさほどの関心を払っていなかったですね。物語を内包する世界の丸ごとに興味があって、それをゼロから作り上げることのできるアニメってのは本当にすごいモノなんだなあ、と思っていたんだと思います。
 結果として、中学校のころの自分は、そういう世界を創造するためにはどうしたらいいか、そんなことにばっかり頭を悩ませていたようです。たぶん、キャラクターよりも舞台設定を、ストーリーよりも細部を重視する自分のやり方は、このころに端を発しています。そういう意味で、自分が物語をひねくり出すことを始めたとき、ジブリのアニメ(とオネアミス)から得た影響はとてつもなく大きいんでしょうね。
 そういえば、恥をかきついでに、当時考えていたストーリーをご紹介。
 ルナンという名前の冒険者が、年を取って六〇歳ぐらいになって孫も産まれて、最後の冒険に出ることを思い立つ。生命が生まれ出るところだと伝えられる大河の源流をたどる旅に出るのだ。結果としてルナンは大河の源流にたどり着くのだが、そこにそびえている「生命の樹」を目撃して、発狂する。そして数ヶ月の後、小舟に乗って、「まるで赤子のように無邪気な、なにも記憶していない姿の」狂者となったルナンが故郷に流れ着く。
 ……なんだかなー。中学生が考えるにしては枯れすぎた話ですが。


 この部屋以外にも、ロシア民話の「三匹の熊」の特別展示があったり、実物大ネコバスのぬいぐるみに群がったお子さまがほとんど半狂乱になってはしゃいでいたり、建物のあちこちに奇妙なギミックがたくさん仕掛けられていたりと、いろいろ見どころがあるんだけれど、そのへんは割愛。
 ただ、屋上にひっそりと経っているロボット兵と空中庭園は見ものです。
 本当にかっこいい。そして、ちょっと寂しげで。


 思いがけず長文になってしまってびっくりしているんだけど、それだけ、自分の中でジブリの作品はでかい位置を占めているんだなあと再認識しました。書こうと思えば、この三倍ぐらいの分量になっちゃうでしょうし。
 ただ、それだけに、先に述べた「土星座」で上映されたフィルムにちょっとした違和感を感じたことは書いておきます。
 「星をかった日」という短篇で、これもやたらに出来がいい作品です。。ちょっと宮沢賢治を思わせるようなファンタジックな話で、まあそれはいいんですが、非常に些細なところに違和感を感じたんですね。CGの使い方が相変わらず微妙だなあ、ということとは別に。
 キャラクターの些細な動きが、どうも気になってしかたない。それも、ほとんど動いていないようなところ。少年とお姉さんがメシ食いながら会話しているとか、少年が歩いているとか、どうでもいいような場面が。そういうシーンのささやかな動きが、ほんのちょっとだけ過剰だと感じたんですよ。平たく言えば、なんとなく立ち姿が不自然だとか、そういう印象に近いか。
 これは奇妙な印象でした、べつだん作画や動きにはなんの問題もないのに。ただ、人間がほとんど無意識のうちに取っているような行動、それをすくい上げるのが、かつてのジブリはものすごく巧かったのだと思います。椅子に座ってぼさっとしているときのような、そういうどうでもいいような場面が。
 それを結果としてアニメのキャラクターの動きにまで持って来られたのは、一つには宮崎駿の鋭敏な感性があったからだと思うし、もう一つには、熟練のアニメーターの阿吽の呼吸みたいなものがあったのだと思います。
 この作品は、宮崎駿の監督作ではあるが、スタッフの多くはジブリの若手だったようです。それだからだ、とは、思いたくないのだけれど。かつてジブリの傑作を支えた練達の、有名無名のアニメーターたちの技が、どこかで世代交代に失敗しているのだとは思いたくないけれど。
 しかし、明らかにあり得ない動きであるのに、まるで違和感なく観ることのできたかつてのジブリ作品に出てきたキャラクターと、どこにもおかしいところはないのに、かすかな違和感を残す本作品のキャラクターとの間には、案外深い断絶があるような気もします。
 しょせん素人の取り越し苦労であればいいんですが。


 画像はロボット兵。それから中庭の噴水です。

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Author:segawashin
2007年、「mit Tuba」で
第23回太宰治賞受賞。
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