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セガワブログ

小説家、瀬川深のブログ。

昨日は大変でした。
熱出したのなんて何年ぶりだろ。わあ38℃超してる。
職業柄風邪はひき「にくい」んだけど(予防接種は軒並みこなす上に
お子さまがた経由でちまちまウイルスに感作されているからだと思う)、
日曜日にパーティーがあったからかなあ……。
自分なりに診察して、まあウイルス性の上気道炎(=ただの風邪)であろうと診断を付ける。
そうとすると、これが効くと言ったような特効薬はないのよねー。


こういうときはかなり自己流に直すことにしてます。
まずは薬局に行ってスポーツドリンクと総合ビタミン剤(リポDとかでもよし)を買ってくる。
下痢や便秘がない場合はかなりがっつりメシも食う。食べたいものをたくさん。
ゆうべはカルビクッパと餃子を。
なんか濃ゆい晩飯だけど、辛くてスパイシーでスープたっぷりなので、
全身の血管が開きそうで気持ちいい。
で、あとはスポーツドリンク飲みつつ(一晩で2リッターぐらい飲む)、
ひたすら寝たおす。
ストーブもガンガンにたいて大汗かきつつ。



さて、そんな苦行みたいな状況で12時間寝倒しましたよ。
ぶじ熱は下がってました。
アー疲れた。
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 昨日の雪にはびっくりしたなぁ。あんまり天気予報見ない生活なんで。
 で、あまりの寒さにめげそうになり、久しぶりにリトアニアのカーディガンを引っ張り出してきました。なんのことはない、リトアニアの首都、ビリニュスのマーケットで買ってきた奴なんですが。 農家のおばあちゃんが売ってたやつで、多分手編み。20ドルぐらいだったんじゃないかな。
 これがべらぼうに暖かい。リトアニア自体結構キッツイ寒さの国なんで当たり前かもしれないけど、独特にフカフカしていて暖かくて、時にはこの上なく重宝してます。野暮ったいデザインも、まあ、味わいのうちです。
 買ったのは、えーと1996年の初春。
 ウワァ12年も前だ。


 ソ連から独立してまだ日の浅いころだったけど、あのときのバルト三国旅行は楽しかったなあ。三月の初めだったのでただただ寒かったけど。
 ヘルシンキからラトヴィアの首都、リーガに飛行機で入って、リトアニアへバスで移動。で、ビリニュスとカウナスを回って、夜行列車でエストニアの首都、タリンへ。どうしてこんな変則的な動き方をしたかというと、当時バルト三国の中でラトヴィアだけがビザが必要で、飛行機で到着したらその場で発給してくれるけど陸路の国境ではビザを出さない、というルールがあったため。なので、→中→下→上 という変なルートを取ったわけです。
 空港にはためく紫色のラトヴィアの国旗が印象的だったり(紫を基調にした国旗は実は珍しい)、リーガの旧市街をうろついて酒場に入って地元の若い衆と酒飲んだり、同じくリーガの旧市街でなかなか素敵なコンサートが聴けたり(※)、リトアニアの「十字架の丘」っていう強烈な印象の名所に行ってみたり、深夜のカウナスの駅で寒さに死にそうになりながら夜行列車を待ったり、端正できれいなタリンの旧市街に感動したり、エストニアの海岸に行ってみたら波打ち際がカチカチに凍っていて驚愕したり、にもかかわらずエストニアではアイスクリームが大人気だったり、至る所に印象の深い楽しい旅行でしたよ。


 気が付いてみたらバルト三国はEUに加盟していたし、旧東欧圏の中では比較的経済も堅調。観光地としてヨーロッパでは結構メジャーな存在になっているらしい。
 一方で、かつて乗った夜行列車は廃止されちゃったみたいですね。ワルシャワ発タリン行きの"Balti Ekspress"、ブルーの車体に紫色のカーテンが掛かり、厳寒のカウナスのホームで迎えた列車はこの上なく峻烈な印象を残したものだけど。
 寂しいもんだなあ。


 気が付いたら前回の訪問から干支も一回りしていたことだし、また行ってみたいものです。できれば今度はバルト海の沿岸、クライペダやリエパーヤってあたりの町にも行ってみたいな。



※一つは教会で聞いたハイドンのカンタータ。地元有志のアマチュアオーケストラっぽかったけど、演奏は実に巧かった。
 もう一つは、地元の音楽学校の発表会……らしい。小学生から高校生ぐらいまでの歳の子が、バッハの「インベンションとシンフォニア」を一曲ずつ弾いていくのだ。これはしゃれた趣向だなあと思った。
 かの地の音楽レベルの高さを痛感したコンサートでもあったけど、こういう中からのちのハイフェッツやクレーメル、アルヴォ・ペルトが出てくるのかしら。
世間では連休最後の成人の日、皆様いかがお過ごしでしょうか。
式典などにおける新成人の不必要なはっちゃけぶりも
ぼちぼち日本の年中行事に定着してきた感がありますけど今年はどうだったんでしょう。
もう16進数でも二十歳といえなくなってしまったセガワは連でも休でもなく、
昨晩は当直でインフルエンザとか急性胃腸炎とかいろいろ診て
1.5時間程度仮眠したのちに大学に移動してきて実験したり論文書いたりしております。


久しぶりにホームページを更新してみました。
紀州熊野灘をトップにしてみましたよ。


そちらにも書きましたけど、初の単行本が三月に刊行予定です。
とある漫画家さんに表紙を描いてもらうことも決まり、瀬川はたいへんシヤワセです。
デビュー作「mit Tuba」のほか、短篇も二本書き下ろして
総ページ数はmit Tubaの二倍ていどに増量しました。
ええなんというか、お買い得と思っていただければ幸いであります。
詳細など、後ほど詳しく告知しますね。


小説もいろいろ書いております。
これも後ほど正式に告知いたします。
一月の水


一月の水は地球の寒気に研がれ、
乾ききっているのに
かすかに甘い。
雪ともなれば霧ともなり
枝をたわめ土を濡らすが、
雪のした芽は固く熱を持ち、
泥の中で仔虫の死骸は息をする。
おしまいでありはじまりであり、
だから木々は幹に、
鳥たちは羽毛に、
人間は暦に、
あらたな楔を打つ。








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久しぶりに詩を。
そういえば巻頭詩とcantosって似ていることに気付いたんですが、これ以上発展させようがないです。
エズラ・パウンド!
 一月三日、新宮を再訪してきた。
 知識よりも血気、分別よりも生意気ばかりが勝っていた十年前、研修医のころ、たった三日貰った夏の休暇を利用して新宮を訪れたのだった。紀伊半島の深奥、熊野古道の要衝というよりも、なによりもここは、作家中上健次の故地として、自分の中にある。東京より電車を乗り継いで六時間、まさしく地の果てであることよとひとりごちたくなる時間を費やして新宮駅に降り立ち、自転車を借り、夏の盛りの八月にひとり新宮を回った。
 花一本手向けるでもなく中上健次の墓を訪れ、ただ一心に手を合わせていたのは、自分にも確かに若さの盛る時分があったのだとしか、今となっては言いようがない。俺が書きます、書いて見せますとだけ唱えることのできぬ念仏のように繰り返し、ただ、中上健次の遺した巨大な足跡を脳裏に反芻することだけが、あのとき自分のできる唯一つの追悼であったのだとは思う。
 帰りしなに海まで自転車を漕ぎ、この先にはフィリピンまで島影のあるはずもない熊野灘の広大を目の当たりにし、見返って紀州の山がすぐそこにまで迫ると気付いたとき、余所者に過ぎぬ者の目には何が分かるわけでもなかったが、まぎれもなく海と山とがぶつかり合う紀州新宮の土地であり、こここそが路地の原風景だったのだとひとり合点し、夏芙蓉の花を見、瑠璃を張るような声で啼く鳥の声を聞いたように思った。


 それから、十年が経っていた。
 中上健次が今なお自分の中でかけがえのない文学の巨人であることに代わりはないが、自分が腹周りに脂を蓄え、体も固くなってきた三十男になっており、中上健次が『岬』も『枯木灘』も上梓した歳を超えていることに気付き、うろたえる。かつての来訪が夏の盛りであり、再訪が冬のさなかであることもあるが、新宮の駅に降り立った時、ただ、流れた時間の長さを思った。駅前の喫茶店で紀州弁の会話を聞きながら、小説を直す。
 車で来た両親と落ち合う。いずれも、還暦間近いか、超えている。倅の酔狂に付き合ってくれることに感謝しつつも、両親の立ち姿にもまた、流れた月日の長さを思う。
 松の内の新宮の町は、静かであった。元日より初売りの声かまびすしい東京と違い、ここには、まだ、ハレの日としての正月がある。辛うじて開いていたスーパーで花束を買い、車で中上健次の墓所に向かう。
 真新しい菊の花が手向けてある。まだ線香のにおいが残る。誰ともわからないが、確かにこの新年、先に中上健次を偲んだ人がいたのだと知り、うれしくなる。水を打ち、花を供える。結局のところこの十年、身に付いたものは墓前に花を供えるという、ヒトリマエの人間ならば水を飲むように当然のこととするふるまいを学んだだけなのではないかと考える。何か胸を張って霊前に報せることの一つでもあっただろうかと考えるととたんに心許なくなり、ようやく物書きのハシクレとして歩き始めた頼りない若造をお見守り下さいとただ手を合わせる。
 墓前で一様写真を撮って貰う。どこか畏まった、気の弱い笑みは、十年前の自分とどれほどの違いがあろうかと、つくづく液晶の中を見入った。


 はろばろとした熊野灘だけは、変わらずにあった。路地がどれほどの変貌を遂げたものだか知るよしもないが、この海だけは、中上健次が目にしたものと大きな違いもなかろうと考える。秋幸が車に乗って疾走したときに目にしものもまた、この海であったはずだと思った。
 開いている料理屋に入り、名物というめはり寿司というものを食べてみる。かつて訪れた時には、名物を食べて回るなどと言ったことは作法としても思想としても自分の中になく、辛うじてサンマの押し寿司一折を買うのがせいぜいであった。寿司とはいうものの青菜で巻いた巨大なメシの塊は、まぎれもなく肉体を使って生きてきたニンゲンたちの生活から産み落とされたもので、中上健次が丸太担ぎや木馬曳きと幾度となく書いた男衆たちもまた滋養としたものであろうと想像し、おかしくなる。中上健次は食のことを嬉々として書き散らすような作家ではなかったが、食物の記憶だけは、存外なふてぶてしさをもって、土地に根を張って生き続けるのだろうと思った。


 熊野速玉大社に立ち寄り、八咫烏をあしらった護符である熊野牛王を買って帰る。紀州山中の道を長々と抜け、視界が開けたと感じたとき、松阪近郊の多気の町並みがあった。
 どこか、現世に帰ってきたような気がしたのだった。


中上健次墓所
 妙な縁で、松阪に帰省していました。
 まあ親父が単身赴任しているので、せっかくだから家族がそちらに集まろうということになったんだけど、まさか親類縁者友人知人が一人もいない三重県に帰ることになるとは思わなんだ。
 そのときの旅行記をアップします。
 松阪に行くために、東京→豊橋→田原→伊良湖→鳥羽→松阪という少々アタマのおかしいルートで行ってみました。



2008年1月1日

 11時36分東京発のひかり号に乗る。新横浜の次は豊橋に停まるのできわめて好都合。
 せっかく海側の窓際に座れたのに他愛なく眠りこけ、気が付くと豊橋が近づいていた。ひどく寒い。風も強い。雪雲が北の空から張り出しているような空だ。豊橋は所々に工場の見えるどこか陰気な町に見え、かつて書いた、途方もなく甘い、現実にはあり得そうもないラブストーリーの大団円の舞台にこの町を据えたのは正しかったなと考えた。


 メシを食うところを探したが、ほとんど店が開いていない。豊橋鉄道の駅の脇では、小さなサンドイッチスタンドが店を開けているが、なぜかおいているうどんを、おそらく南米の労働者がひとりで啜っている。
 少し市電の通りを歩いてみるが、派手な格好をした若いのが、所在なさげにふらふら歩いているばかりだ。焼肉屋でカルビクッパを食う。くたびれた中年がやけに多い店で、頬骨の張った、巨大な腫瘤を左頬にくっつけた目の細い男の容貌が目に付く。


 豊橋鉄道に乗る。人は少ない。次の駅、柳生橋では、寒そうな格好をした若いカップルが、風の吹きすさぶベンチで豊橋行きの電車を待っていた。
 電車は市街地とも住宅地とも言いづらい中途半端な町中を行く。この、町とも農地とも商業地とも宅地とも付かない奇妙な土地は、実のところ、日本のかなりの部分を占めている土地のありようなのだろうなと考える。
 駅ごとに地元の病院やらマーケットやらの広告看板があるが、どれもどことなく古びている。バスターミナルの看板など、さらに念入りに古びている。こういうものを見ると、むしろ、東京でのインフラの更新の早さを感じる。バスターミナルや切符売り場の案内看板が多少古びていても、実のところはなんの支障もない。それをいつしか真新しく、次々に今様にしてしまう東京という街の方が、実は一つの特殊なのだ。


 今年の聴き初め、リヒャルト・シュトラウスのオーボエ協奏曲を選ぶ。このアルカイックなようでいておそろしく複雑な、それでいて甘く懐古の雰囲気に満ちた音楽は、しかし比類なく美しい。
 栄えあるドイツ文化の教養をふんだんに身にまとい、図抜けた天分を惜しみなく発揮し、ドイツ音楽世界の頂点に君臨しつつ、第三帝国の瓦解を目の当たりにした天才は、いったいなにを思ってこの音楽を書いたものだか、最近非常に興味をそそられる。メタモルフォーゼン、オーボエ協奏曲、四つの最後の歌、作品から見る限り、どうもその才覚だけは死の直前まで衰えなかったようだ。そしてこれはひょっとすると、かつての栄光をただ延命させられているだけではないのかという現代日本、そして高度消費社会に生きる人間の感じる淡い危惧に、なにか一つの視点をもたらすのではないかと考える。
 それにしてもこの音楽を背景に愛知県は知多半島のきわめてテイストレスな風景を眺めるのは、なかなか皮肉の効いた逆説ではないかとも思う。


 顔の細く眉の濃く目のくぼんだ、まるでベルナール・ビュッフェの絵さながらの駅員が駅舎からちょっと顔を出す。反対のホームで、『男はつらいよ』に出てくるテキ屋みたいな風貌のジャージ男が柔軟体操をしながら電車を待っている。豊橋方面の電車とすれ違うので覗いてみると、こちらにはずいぶん若いのが多い。太ももをむき出しにした若い娘が一心に携帯をいじっている。
 駅前すら閑散としていた豊橋になにがあるのかは分からないが、この土地には、この土地の正月がある。


 三河田原に着く。果たして駅前にはなにもない。ここで時間を潰すとなればえらいことだったが、幸い伊良湖行きのバスはすぐに来る。乗客は10人弱と言ったところ。
 だんだんと農地が増えてくる、右手に見えるのは蔵王山なのだろうが、どことなく風景は寒々しくて冴えない。愛知用水、電照菊、そんな遠い昔に社会科で習った単語をふと思い出す。今が夏の盛り、強い太陽の下だったらどのように見えるかと想像し、しばし目を閉じてみる。いっとき、道路が海沿いを走ったときだけ、一面の海が右手に広がる。
 途中、小さな集落でバスが停まり、老婆がひとりよちよちと降りていったが、明らかに地元の人間はこの一人だけだった。一時間あまりで伊良湖に着く。道の駅とフェリーターミナルを兼ねたような終着点で、中は暖かく、人の息がこもっていた。
 むしろ、心地よかった。この猥雑さは、土地を息づかせる。
 風は強く波は荒いと見えたが、フェリーは定刻通り運行。客は三十人程度と言ったところ。バイカーの連中も五人ほどいて、疲れ果てて広間にごろりと横になるなり眠りをむさぼり始める。後は家族、これから伊勢に行くのか、賢島に行くのか。船内であまりおいしくないココアを啜りつつ、しばし小説を直す。


 一時間弱で鳥羽に着く。閉園間近い鳥羽水族館のかたわらを抜けて近鉄の駅へ。勘違いしていたのだが、これは鳥羽の駅ではなく一つとなりの中之郷という駅であることに気付く。
 ひどく寒い。駅ではスーツに鍔広帽という一時代前といった装いの初老の男、その息子とおぼしき頼りなさげな若衆、そしてその奥方であるらしい、ひどく派手な化粧をした中国人の女。大阪までの特急を訊ねているところから見ると鳥羽あたりで遊んだ帰りのようだけれど、ここに至るまでにいろいろしょうもないドラマがあったのだろうなと考える。


 各駅停車で松阪まで四十五分。伊勢の駅から急に乗客が増える。
 乗客が意外なぐらいに雑多であることに驚く。老若男女。ここで気付かされるのは、東京が機能的・時間的に高度に分業化された街であるということだ。それがここでは、元日という日にちのことも相まって、もう少し緩やかに混淆されている。その雰囲気が心地よかった。世界というものの持つ曖昧さの一端だと思った。


 十七時五十分、松阪市着。両親と落ち合う。
2008年年賀


新年おめでとうございます。
2008年がみなさまにとって、そして瀬川にとってよい年になりますように。


それでは初詣に行って来ます。
毎年恒例、ご近所のお稲荷さんです。
昨年のお礼もしなければ。

segawashin

Author:segawashin
2007年、「mit Tuba」で
第23回太宰治賞受賞。
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ツイッターはこちら。
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