えらく間が空いてしまいましたが、リバーダンスの感想です。
……毎日記事を書いてらっしゃるブロガーの人は偉いですね。余裕で放置プレイにしてしまう私には頭が下がります。
まあそれはそれとして。
リバーダンス、これは実に素敵な公演でしたよ。多分にショウアップされてはいますが、この舞台のベースになっているのはアイルランドの音楽や舞踊であり、そこに、アイルランド人の歴史を重ね合わせているようでもあります。
特に前半は、アイルランドを模しているらしい舞台でのダンスと音楽が中心でした。あまり上体を揺らさず、回転が動きの中心となっている踊り方です。円舞(リール)というやつなんでしょうか。これがどの程度トラディショナルな作法に則っているかは判断ができないのですが、男女の一群が輪を作り、その輪がほどけて列を組み、また大きな輪を作り、対と集団とが巧みに入れ替わるダンスは見ていて文句なく気持ちのいいものでした。
それにしても、20世紀の初頭までは風紀を乱すという理由からあまりおおっぴらに踊ることも出来なかったらしい(これはカソリック教会の圧力があったようです)アイリッシュ・ダンスが、こういったかたちで現代風の装いの元に世界の各地で上演されるというのは非常に面白いことだと思います。もっとも、舞踊や芸能が近代まである種の蔑視のもとに見られていたのは、アイルランドに限ったことではないようですが。
また、この公演では、アイリッシュ・ダンスとその他の舞踊とを積極的に混交させようという試みがなされていたようで、じっさいにタップやフラメンコ、ロシア・バレエといったさまざまな舞踊が交互に、時には同時に踊られることになりました。時にはあざといかなと思わせる瞬間がないこともなかったのですが、結果としてこれは、実に刺激的な舞台を作っていたように思います。
そもそも舞踊は、必ずそれぞれの流儀や作法を持っているものだと思います。いわば基盤とする「動きの基本」みたいなものです。とはいえそれは舞踊に内在していて、素人目にはやすやすと看破できるようなものではなくなっているのでしょうが、複数の舞踊を並列してみたときに、それぞれの舞踊が持つ「作法」が鮮やかに見えてきたように感じられました。これは、本当に興味深い経験でした。
とりわけ感動的だったのは後半、アイリッシュ・ダンスとタップダンスとを共演させた一幕です。「かかとを床に打ちならす」というよく似通った表現形が、非常に異なった動きから生み出される点に驚きました。とりわけ異なって見えたのが上体の扱いで、アイリッシュ・ダンスが体軸をほとんどブレさせないのに対し、タップはかなり自由に上体を扱っているのです(とはいえかなり意図的に崩した印象を受けましたが)。この2つの作法が舞台の上で並立し、お互いの運動を少しずつ取捨しながら混じり合ってゆくさまは、まぎれもなく本公演のハイライトの1つであったと思います。
この「動きの作法」の違いはフラメンコとの対比でも鮮やかでした。上肢の動きがきわめて禁欲的なアイリッシュ・ダンスになじんだ目で見れば、腕、手、指とはこれほど自在になめらかに動き、舞踊を彩るものかと思ったほどです。
しかし、それにも増して差異を感じたのは、ロシアのダンスでした。おそらく彼らの動きはバレエで鍛えられたものなのでしょうが、このことで生み出される身体運動はちょっと他のダンスとは質が違っていました。いい悪い、うまい下手の問題ではなく、舞踊を構成する身体運動が、ほかの舞踊とどこか異質であるように思えたのです。舞踊についてはまるで素人な人間の感想にすぎないのですが、「跳躍」「回転」といった基本的な所作の一つ一つに、非常に強い均整が感じられるのです。これはおそらく身体運動を習得する方法論の違いなのではないかと想像します。バレエという舞踊の持つ強固な方法論の現れなのかも知れないのですが。
個人的には、思いがけず、舞踊というものの多様さと広がりを実感するステージでありました。もちろんそういう小難しいリクツ抜きでも、存分に楽しめると思いますよ。
ご興味おありの方は、ぜひどうぞ。
……毎日記事を書いてらっしゃるブロガーの人は偉いですね。余裕で放置プレイにしてしまう私には頭が下がります。
まあそれはそれとして。
リバーダンス、これは実に素敵な公演でしたよ。多分にショウアップされてはいますが、この舞台のベースになっているのはアイルランドの音楽や舞踊であり、そこに、アイルランド人の歴史を重ね合わせているようでもあります。
特に前半は、アイルランドを模しているらしい舞台でのダンスと音楽が中心でした。あまり上体を揺らさず、回転が動きの中心となっている踊り方です。円舞(リール)というやつなんでしょうか。これがどの程度トラディショナルな作法に則っているかは判断ができないのですが、男女の一群が輪を作り、その輪がほどけて列を組み、また大きな輪を作り、対と集団とが巧みに入れ替わるダンスは見ていて文句なく気持ちのいいものでした。
それにしても、20世紀の初頭までは風紀を乱すという理由からあまりおおっぴらに踊ることも出来なかったらしい(これはカソリック教会の圧力があったようです)アイリッシュ・ダンスが、こういったかたちで現代風の装いの元に世界の各地で上演されるというのは非常に面白いことだと思います。もっとも、舞踊や芸能が近代まである種の蔑視のもとに見られていたのは、アイルランドに限ったことではないようですが。
また、この公演では、アイリッシュ・ダンスとその他の舞踊とを積極的に混交させようという試みがなされていたようで、じっさいにタップやフラメンコ、ロシア・バレエといったさまざまな舞踊が交互に、時には同時に踊られることになりました。時にはあざといかなと思わせる瞬間がないこともなかったのですが、結果としてこれは、実に刺激的な舞台を作っていたように思います。
そもそも舞踊は、必ずそれぞれの流儀や作法を持っているものだと思います。いわば基盤とする「動きの基本」みたいなものです。とはいえそれは舞踊に内在していて、素人目にはやすやすと看破できるようなものではなくなっているのでしょうが、複数の舞踊を並列してみたときに、それぞれの舞踊が持つ「作法」が鮮やかに見えてきたように感じられました。これは、本当に興味深い経験でした。
とりわけ感動的だったのは後半、アイリッシュ・ダンスとタップダンスとを共演させた一幕です。「かかとを床に打ちならす」というよく似通った表現形が、非常に異なった動きから生み出される点に驚きました。とりわけ異なって見えたのが上体の扱いで、アイリッシュ・ダンスが体軸をほとんどブレさせないのに対し、タップはかなり自由に上体を扱っているのです(とはいえかなり意図的に崩した印象を受けましたが)。この2つの作法が舞台の上で並立し、お互いの運動を少しずつ取捨しながら混じり合ってゆくさまは、まぎれもなく本公演のハイライトの1つであったと思います。
この「動きの作法」の違いはフラメンコとの対比でも鮮やかでした。上肢の動きがきわめて禁欲的なアイリッシュ・ダンスになじんだ目で見れば、腕、手、指とはこれほど自在になめらかに動き、舞踊を彩るものかと思ったほどです。
しかし、それにも増して差異を感じたのは、ロシアのダンスでした。おそらく彼らの動きはバレエで鍛えられたものなのでしょうが、このことで生み出される身体運動はちょっと他のダンスとは質が違っていました。いい悪い、うまい下手の問題ではなく、舞踊を構成する身体運動が、ほかの舞踊とどこか異質であるように思えたのです。舞踊についてはまるで素人な人間の感想にすぎないのですが、「跳躍」「回転」といった基本的な所作の一つ一つに、非常に強い均整が感じられるのです。これはおそらく身体運動を習得する方法論の違いなのではないかと想像します。バレエという舞踊の持つ強固な方法論の現れなのかも知れないのですが。
個人的には、思いがけず、舞踊というものの多様さと広がりを実感するステージでありました。もちろんそういう小難しいリクツ抜きでも、存分に楽しめると思いますよ。
ご興味おありの方は、ぜひどうぞ。
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リバー・ダンスの公演を見てきました。
アイリッシュ・ダンスをベースにした舞台作品と言うことで、率直に言って期待半分、不安半分だったんですよ。ハンパにショウアップした、派手派手しいだけのものを見せられたらいやだなあと思って。
大当たりでした。
なんか見ていたら、泣けて泣けて仕方なくて、なんか意味も分からずにボロ泣きしてしまって困りました。ダメだ、どうも俺、アイルランド好きすぎる。まあ同行した人も何故か分からないけど泣けてきて困ったって言っていたので、素晴らしい力を持った舞台であるには間違いないんですが。
そんなわけで、まず舞台の感想よりも先に、アイルランドについての個人的な思い出を書いてしまおうと思います。アイルランドにとっても、こんな極東の片隅で勝手に片思いされるのはどうだろうかと思いますが。
アイルランドに行ったのは19歳の時です。初めてのヨーロッパ旅行でした。
最初に行く欧州としてはかなり珍奇な選択だと思うのですが、これはたしか、中学校の時に読んだ深代淳郎さんのエッセイの影響だと思います。朝日新聞の記者にして素晴らしい名文家であった深代さんが世界の文学作品の舞台を訪ねる趣向のエッセイが載っていたのですが、その中の一つがジョン・ミリングトン・シングの「海へ騎りゆく人々」でした。
ヨーロッパの西のはしっこの、更に西の果てのアラン諸島です。なんでそんなところにそこまで心惹かれたのかよく憶えていませんが、大学に入ってシングの戯曲を読んで、ついでにジェイムズ・ジョイスの短編集なども読んで、心から期待に満ちあふれてでアイルランド渡航を決めた覚えがあります。
もう一つ、渡航に前後して泥縄式にアイルランドの歴史や文化を勉強したのですが、ここでようやく無知な東洋人はアイルランドという国の奥深さの一端に触れました。それまではなんとなく「イギリスのオマケ」と言ったような非常に失礼な印象しかない国でしたが、実はケルト文明というヨーロッパ最古の文明の一つを擁し、少数になってはしまったけれどゲール語というケルト系の言語が話し、イングランドというでかい文明を抱えた国のかたわらでアイルランドはひっそりと独自性の高い文化を守ってきたようです。
これは最近知ったことですが、例えばアイルランドはローマ帝国が崩壊してからの欧州大陸の暗黒期、ケルト語に翻訳した教典でカソリックの伝統を保持し「詩人と学僧の島」と呼ばれていたことなど、今日からは想像しにくい歴史かも知れません。もっともこのことは、サンスクリットの仏典をチベット語に翻訳して仏教の信仰を輸出したチベットの吐蕃王朝に似たものがあり、世界史の中ではこのような人間の営みが実は文明を連鎖させているのかも知れませんが。
もちろん現在でもアイルランドの、特に音楽と文学のレベルの高さはちょっと驚くべきものがあります。人口400万人足らずの国でこれだけ世界水準の仕事をした人間が続出した国というのは珍しいんじゃないでしょうか。なにしろ、ノーベル文学賞だけでもイェイツ、ショウ、ベケット、ヒーニーと4人もの受賞者を輩出しているのですから。受賞には至らなかったにせよ、ジョイスというとんでもない怪物も居るし。
そうして訪れたアイルランドは、羊とジャガイモとビールに満ちあふれた、実にのどかな国でありました。特にかの地のジャガイモ原理主義と来たら瞠目すべきものがあって、どんな料理を頼んでも
"Boiled? Mashed? Baked? Or fried?"と、必ずジャガイモが付くことを前提にジャガイモの食い方を聞いてくるのでした。「要らない」という選択肢はないようです。
ジャガイモ好きの自分としては大変嬉しかったのですが。そしてギネスは言うまでもなくうまい。当然のごとく、魚や牡蠣は大変に美味しい。
あの破滅的な味覚を誇るイギリスのすぐお隣とは思えないほど料理の美味しい国でした。
ろくすっぽ英語も喋れなかった当時(まあ今でも大して巧くはないのですが)、観光シーズンも外れた初春のアイルランドを半月ほどもうろつき回ったのは、本当にかけがえのない経験だったと思います。
思いきり雨に降られながらアラン諸島を自転車で巡り、ゲール語の会話を耳にする幸運に恵まれました。ガルウェイのユースホステルのベッドに寝転がりながら中上健次「千年の愉楽」を読んでいたら熱心な電設マンにカソリックの布教をされ、高貴なる血の淀みとヨーロッパ二千年の宗教的伝統とが一瞬交錯する幻惑されるような体験をしました。ダブリンのレコード屋でアイリッシュミュージックのCDを買い、CLANNADという素晴らしいアーティストを知りました。
しかし、結局のところ、このアイルランド旅行のいちばんの収穫というのは、ドミナントな文化の辺縁にある文化に興味を抱く眼差しだったのだな、と、今になってみれば思います。
そもそも、いちばん最初の海外旅行先だった新彊ウイグル自治区は中国とチュルクの二重の文化的辺縁であったわけだし、そういういわばエッジに生成する文化というものに惹かれてその後の旅行を繰り返したと言ってもまあ間違いではないでしょう。東欧諸国や中央アジア、東南アジア、沖縄、こういった巨大な文化圏の周辺に位置するところで、あんがい人間はしぶとく自らの文化を育てようとするようです。
沖縄やバルト諸国に芳醇で独自な音楽が生まれ、ポーランドやチェコやセルビアに深い文学的伝統が息づき、中央アジアやカフカスに独特な都市建築が生まれるみたいに。
余談ながら、アイルランドは九〇年代からの投資を呼び込む政策が見事に功を奏して「ケルトの虎」と形容されるほどのめざましい経済発展を遂げ(これは英語話者の人材が潤沢だったことも大きいらしい)、かつてはポルトガル、ギリシャと西側諸国のドンケツ争いをしていたのが嘘のような立派な国になっちゃった、らしいです。
嬉しいような悲しいような。
じめじめ降る雨に濡れる羊羊また羊を眺めながらどこまでも続くアイルランドの丘陵をバスで走った、あの風景が残っているといいんですけど。
夕方ッからギネスビールでイイ感じに煮染められてフィドルに合わせて大声で歌ってサッカー中継に熱くなってるおっちゃんたちが元気でいるといいんですけど。
日曜日になれば泣きそうなぐらい開いている店がないかわりに言葉通り町中の人が教会に集まって来てて、女子高生が教会建設のために街頭募金してる地味で熱心なカソリックの国が毒されてないといいんですけど。
あああやっぱりアイルランドの話だけで長大になってしまった。
リバーダンスの感想は次回書きます。
アイリッシュ・ダンスをベースにした舞台作品と言うことで、率直に言って期待半分、不安半分だったんですよ。ハンパにショウアップした、派手派手しいだけのものを見せられたらいやだなあと思って。
大当たりでした。
なんか見ていたら、泣けて泣けて仕方なくて、なんか意味も分からずにボロ泣きしてしまって困りました。ダメだ、どうも俺、アイルランド好きすぎる。まあ同行した人も何故か分からないけど泣けてきて困ったって言っていたので、素晴らしい力を持った舞台であるには間違いないんですが。
そんなわけで、まず舞台の感想よりも先に、アイルランドについての個人的な思い出を書いてしまおうと思います。アイルランドにとっても、こんな極東の片隅で勝手に片思いされるのはどうだろうかと思いますが。
アイルランドに行ったのは19歳の時です。初めてのヨーロッパ旅行でした。
最初に行く欧州としてはかなり珍奇な選択だと思うのですが、これはたしか、中学校の時に読んだ深代淳郎さんのエッセイの影響だと思います。朝日新聞の記者にして素晴らしい名文家であった深代さんが世界の文学作品の舞台を訪ねる趣向のエッセイが載っていたのですが、その中の一つがジョン・ミリングトン・シングの「海へ騎りゆく人々」でした。
ヨーロッパの西のはしっこの、更に西の果てのアラン諸島です。なんでそんなところにそこまで心惹かれたのかよく憶えていませんが、大学に入ってシングの戯曲を読んで、ついでにジェイムズ・ジョイスの短編集なども読んで、心から期待に満ちあふれてでアイルランド渡航を決めた覚えがあります。
もう一つ、渡航に前後して泥縄式にアイルランドの歴史や文化を勉強したのですが、ここでようやく無知な東洋人はアイルランドという国の奥深さの一端に触れました。それまではなんとなく「イギリスのオマケ」と言ったような非常に失礼な印象しかない国でしたが、実はケルト文明というヨーロッパ最古の文明の一つを擁し、少数になってはしまったけれどゲール語というケルト系の言語が話し、イングランドというでかい文明を抱えた国のかたわらでアイルランドはひっそりと独自性の高い文化を守ってきたようです。
これは最近知ったことですが、例えばアイルランドはローマ帝国が崩壊してからの欧州大陸の暗黒期、ケルト語に翻訳した教典でカソリックの伝統を保持し「詩人と学僧の島」と呼ばれていたことなど、今日からは想像しにくい歴史かも知れません。もっともこのことは、サンスクリットの仏典をチベット語に翻訳して仏教の信仰を輸出したチベットの吐蕃王朝に似たものがあり、世界史の中ではこのような人間の営みが実は文明を連鎖させているのかも知れませんが。
もちろん現在でもアイルランドの、特に音楽と文学のレベルの高さはちょっと驚くべきものがあります。人口400万人足らずの国でこれだけ世界水準の仕事をした人間が続出した国というのは珍しいんじゃないでしょうか。なにしろ、ノーベル文学賞だけでもイェイツ、ショウ、ベケット、ヒーニーと4人もの受賞者を輩出しているのですから。受賞には至らなかったにせよ、ジョイスというとんでもない怪物も居るし。
そうして訪れたアイルランドは、羊とジャガイモとビールに満ちあふれた、実にのどかな国でありました。特にかの地のジャガイモ原理主義と来たら瞠目すべきものがあって、どんな料理を頼んでも
"Boiled? Mashed? Baked? Or fried?"と、必ずジャガイモが付くことを前提にジャガイモの食い方を聞いてくるのでした。「要らない」という選択肢はないようです。
ジャガイモ好きの自分としては大変嬉しかったのですが。そしてギネスは言うまでもなくうまい。当然のごとく、魚や牡蠣は大変に美味しい。
あの破滅的な味覚を誇るイギリスのすぐお隣とは思えないほど料理の美味しい国でした。
ろくすっぽ英語も喋れなかった当時(まあ今でも大して巧くはないのですが)、観光シーズンも外れた初春のアイルランドを半月ほどもうろつき回ったのは、本当にかけがえのない経験だったと思います。
思いきり雨に降られながらアラン諸島を自転車で巡り、ゲール語の会話を耳にする幸運に恵まれました。ガルウェイのユースホステルのベッドに寝転がりながら中上健次「千年の愉楽」を読んでいたら熱心な電設マンにカソリックの布教をされ、高貴なる血の淀みとヨーロッパ二千年の宗教的伝統とが一瞬交錯する幻惑されるような体験をしました。ダブリンのレコード屋でアイリッシュミュージックのCDを買い、CLANNADという素晴らしいアーティストを知りました。
しかし、結局のところ、このアイルランド旅行のいちばんの収穫というのは、ドミナントな文化の辺縁にある文化に興味を抱く眼差しだったのだな、と、今になってみれば思います。
そもそも、いちばん最初の海外旅行先だった新彊ウイグル自治区は中国とチュルクの二重の文化的辺縁であったわけだし、そういういわばエッジに生成する文化というものに惹かれてその後の旅行を繰り返したと言ってもまあ間違いではないでしょう。東欧諸国や中央アジア、東南アジア、沖縄、こういった巨大な文化圏の周辺に位置するところで、あんがい人間はしぶとく自らの文化を育てようとするようです。
沖縄やバルト諸国に芳醇で独自な音楽が生まれ、ポーランドやチェコやセルビアに深い文学的伝統が息づき、中央アジアやカフカスに独特な都市建築が生まれるみたいに。
余談ながら、アイルランドは九〇年代からの投資を呼び込む政策が見事に功を奏して「ケルトの虎」と形容されるほどのめざましい経済発展を遂げ(これは英語話者の人材が潤沢だったことも大きいらしい)、かつてはポルトガル、ギリシャと西側諸国のドンケツ争いをしていたのが嘘のような立派な国になっちゃった、らしいです。
嬉しいような悲しいような。
じめじめ降る雨に濡れる羊羊また羊を眺めながらどこまでも続くアイルランドの丘陵をバスで走った、あの風景が残っているといいんですけど。
夕方ッからギネスビールでイイ感じに煮染められてフィドルに合わせて大声で歌ってサッカー中継に熱くなってるおっちゃんたちが元気でいるといいんですけど。
日曜日になれば泣きそうなぐらい開いている店がないかわりに言葉通り町中の人が教会に集まって来てて、女子高生が教会建設のために街頭募金してる地味で熱心なカソリックの国が毒されてないといいんですけど。
あああやっぱりアイルランドの話だけで長大になってしまった。
リバーダンスの感想は次回書きます。
ものすごく面白い本が発売になりました。
漫画家・イラストレーターの速水螺旋人さんの作品集です。以前から大好きな作家さんだったのですが、最近チューバのアレとかをご縁にお知り合いになりまして(ちょっと自慢)。キャリアの長さを考えるにちょっと意外なのですが、これが記念すべき初単行本だそうです。
軍事ものの漫画を中心にファンタジーものやロシアネタ、イラスト、フリートークと三百ページに及ぶ堂々たるテンコ盛りな内容なのですが、なんといってもタイトルの元ネタ「馬車馬戦記」がめっぽう面白いですよ。要するに架空戦記と言ってしまえば話が早いのですが、驚くべきはそのホラの完成度にあります。おそろしく凝ったディティールにあちこちに挿入される遊び心、そしてそれらを丸ごとえいやあと納得させてしまう絵の力。これらを存分に駆使して、いくつもの歴史の物語が語られるわけです。
戦車のかわりに戦象を導入してしまったインドシナ半島の王国の物語。一つの沼を巡って延々としょうもない戦争を続けた南米の小国の物語。アフリカの革命勢力に派遣されて現地人の作ったポンコツ飛行機を操縦することになってしまったスラブ娘の物語。西洋かぶれの殿様が巨大な大砲を据え付けてしまった幕末の下北半島の物語。
あれれ?そういえばこんな史実があったような?なかったような?と思いつつ読み進めていけば、半分は作者の術中にはまったようなもんです。多くは戦争をモチーフにしてはいるのですが、そこにあるのは、どうにもばかばかしい事態にやけに熱心にかぶりついてゆく人間たちのシチュエーションです。戦記と銘打ちつつも、単なる勝った負けたの国取り合戦の物語と一線を画す点は、そこにあるのではないかと思います。率直に言って戦争物にはあまりなじめないセガワが、ものすごい勢いで読破してしまったぐらいですから。
これらを次々と展開させる速水さんの妄想力は、ただごとではありません。ここでは想像力ではなく、敢えて妄想力と言ってみたいんですが。……失礼でしょうか、スミマセン。
絵の魅力についても、ぜひ書いておきたいところです。
速水さんの絵というのは大変に独特で、その独特のデフォルメというのはあんまり類例がないんじゃないかと思います。なんというか、当方は絵のシロウトなので的外れを覚悟で書いてみますが、どんなものを描くにしても、それは速水流のデフォルメの中に落とし込まれるのですよ。やたらに骨張った兵器や車でも、さまざまな人種でも、歴史上の人物でも、それがいったん作者の描線に取り込まれながらその本体を失っていない点は、見事としかいいようがありません。ほかの作者を引き合いに出すのは失礼に当たるかも知れませんが、鳥山明さんとか竹本泉さんなんかのやり方にちょっと似たものを感じるのですが。
特に人物の描写はセガワのお気に入りで、マレー半島あたりの戦争マニアの軍人とか、ウズベク出身のソ連兵とか、南米の小国の独裁者とか(どことなくイタリア系っぽいなあ、などと想像させるところがまたすごい)、「あーこんな感じの人がいそうだなあ」と思わせてしまう説得力がやけに強いのです。デフォルメと説得力というのは、実は両立する概念だと言うことに気付かされましたね。逆に言えば、いかに「リアルな」絵柄であっても、それが対象の特徴を巧みにすくい上げるものでなければ、写実的であるという以上の説得力は出ないのでしょう。
また、これも絵の魅力としては少々伝えづらいのですが、絵の細部が素晴らしいのですね。描き込んでいる、と言えばその通りなのですが、そのディティールがとことん生き生きしている。一個一個の小物に、なにか物語を想像させるものがあるわけです。雑然とした部屋とか、食堂にたむろする群衆とか、へんてこな建物とか、こういうのをやけに楽しげに、しかもものすごく説得力を持って描いてしまうあたり、作者の真骨頂だと思います。モブ(群衆)シーンをこんなに楽しげに描ける漫画家さんって、なかなか希有ではないでしょうか。
セガワは海外旅行マニアであるので、まあ世界のあちゃこちゃでいろんな風景を目にしているわけですが、例えばルーマニアの田舎のバスターミナルと来てはチャウシェスク時代の豪壮趣味を反映しているのか、やたらにだだっ広くて天井が高くて、真ん中にぽつんと一個達磨ストーブが置いてあるばかりの寒々しいところにスカーフかぶった大ぶとりのおばちゃんたちがひしめいていたりするわけです。また、アンダルシア山中の村と来ては山の斜面にひしめく白壁の家々を見上げるところに一本のオレンジの木が植わっていて、その木陰にちっちゃなバーが昼間からサングリアを出していたりします。そんな風景が、この本を読んでいるとまざまざと蘇ってきます。絵の描けないセガワの、視覚的な感興を思いきり呼び覚ましてくれる、そんな作用が速水さんの絵にはあるようです。
ちょっとだけ書く側の視点で話をしますと、セガワもいろいろとウソ話をこしらえるのが大好きで、そういう話をずいぶん書いてきました。以前は小説の丸ごとがウソ話で、独立間もない中央アジアの小国で医者とハンガリー人の青年医師が延々と語る話とか、ロシアと思しき片田舎で収容所から帰ってきたチェロ弾きの話とか、東南アジアと思しき屋台の料理の話とか、なんというかその、分類に困るし説明もしづらいような話ばかりなのですが、これは面白くて仕方ない作業でした。
さすがに今はちょっとそういう色合いが薄まったものの、ホラ吹きの血は拙作にちょっとずつ顔を覗かせています。まあ野暮だからいちいち書きませんが、「チューバはうたう」のアレとかコレとか、「飛天の瞳」のアソコとかアノアタリとか。ウソとホントを適度にブレンドするのがコツですね。
やっぱり、ウソを書くのって本当に楽しいことです。本書を読んで、しみじみとそう感じました。
……変ですかね。
なお、本書でお気に入りの話は、メキシコで飛行教官になってしまったイタリア軍将校の話「バトル・オブ・テキサス」、東南アジアの貧乏国家が三輪トラックを改造して一個師団を形成し、あげくイラクにまで出陣してしまう話「装甲三輪車伝説」あたりです。
ちょっとファンタジーの色合いが混じりますが、「海底戦艦パンタグリュエル」も実にいい話ですよ。おデブで狡猾な捕虜の潜水艦長と、貴族の娘にしていろいろと無茶をなさる海底戦艦艦長のラファリエール大佐の掛け合いが楽しい一作です。最後のオチがまた素敵で。ラファリエール大佐萌え(笑)。
ともあれ、この素敵な本が世に出たことを、心から喜びたいと思います。
面白いですよ。
![]() | 速水螺旋人の馬車馬大作戦 (2008/05/12) 速水螺旋人 商品詳細を見る |
漫画家・イラストレーターの速水螺旋人さんの作品集です。以前から大好きな作家さんだったのですが、最近チューバのアレとかをご縁にお知り合いになりまして(ちょっと自慢)。キャリアの長さを考えるにちょっと意外なのですが、これが記念すべき初単行本だそうです。
軍事ものの漫画を中心にファンタジーものやロシアネタ、イラスト、フリートークと三百ページに及ぶ堂々たるテンコ盛りな内容なのですが、なんといってもタイトルの元ネタ「馬車馬戦記」がめっぽう面白いですよ。要するに架空戦記と言ってしまえば話が早いのですが、驚くべきはそのホラの完成度にあります。おそろしく凝ったディティールにあちこちに挿入される遊び心、そしてそれらを丸ごとえいやあと納得させてしまう絵の力。これらを存分に駆使して、いくつもの歴史の物語が語られるわけです。
戦車のかわりに戦象を導入してしまったインドシナ半島の王国の物語。一つの沼を巡って延々としょうもない戦争を続けた南米の小国の物語。アフリカの革命勢力に派遣されて現地人の作ったポンコツ飛行機を操縦することになってしまったスラブ娘の物語。西洋かぶれの殿様が巨大な大砲を据え付けてしまった幕末の下北半島の物語。
あれれ?そういえばこんな史実があったような?なかったような?と思いつつ読み進めていけば、半分は作者の術中にはまったようなもんです。多くは戦争をモチーフにしてはいるのですが、そこにあるのは、どうにもばかばかしい事態にやけに熱心にかぶりついてゆく人間たちのシチュエーションです。戦記と銘打ちつつも、単なる勝った負けたの国取り合戦の物語と一線を画す点は、そこにあるのではないかと思います。率直に言って戦争物にはあまりなじめないセガワが、ものすごい勢いで読破してしまったぐらいですから。
これらを次々と展開させる速水さんの妄想力は、ただごとではありません。ここでは想像力ではなく、敢えて妄想力と言ってみたいんですが。……失礼でしょうか、スミマセン。
絵の魅力についても、ぜひ書いておきたいところです。
速水さんの絵というのは大変に独特で、その独特のデフォルメというのはあんまり類例がないんじゃないかと思います。なんというか、当方は絵のシロウトなので的外れを覚悟で書いてみますが、どんなものを描くにしても、それは速水流のデフォルメの中に落とし込まれるのですよ。やたらに骨張った兵器や車でも、さまざまな人種でも、歴史上の人物でも、それがいったん作者の描線に取り込まれながらその本体を失っていない点は、見事としかいいようがありません。ほかの作者を引き合いに出すのは失礼に当たるかも知れませんが、鳥山明さんとか竹本泉さんなんかのやり方にちょっと似たものを感じるのですが。
特に人物の描写はセガワのお気に入りで、マレー半島あたりの戦争マニアの軍人とか、ウズベク出身のソ連兵とか、南米の小国の独裁者とか(どことなくイタリア系っぽいなあ、などと想像させるところがまたすごい)、「あーこんな感じの人がいそうだなあ」と思わせてしまう説得力がやけに強いのです。デフォルメと説得力というのは、実は両立する概念だと言うことに気付かされましたね。逆に言えば、いかに「リアルな」絵柄であっても、それが対象の特徴を巧みにすくい上げるものでなければ、写実的であるという以上の説得力は出ないのでしょう。
また、これも絵の魅力としては少々伝えづらいのですが、絵の細部が素晴らしいのですね。描き込んでいる、と言えばその通りなのですが、そのディティールがとことん生き生きしている。一個一個の小物に、なにか物語を想像させるものがあるわけです。雑然とした部屋とか、食堂にたむろする群衆とか、へんてこな建物とか、こういうのをやけに楽しげに、しかもものすごく説得力を持って描いてしまうあたり、作者の真骨頂だと思います。モブ(群衆)シーンをこんなに楽しげに描ける漫画家さんって、なかなか希有ではないでしょうか。
セガワは海外旅行マニアであるので、まあ世界のあちゃこちゃでいろんな風景を目にしているわけですが、例えばルーマニアの田舎のバスターミナルと来てはチャウシェスク時代の豪壮趣味を反映しているのか、やたらにだだっ広くて天井が高くて、真ん中にぽつんと一個達磨ストーブが置いてあるばかりの寒々しいところにスカーフかぶった大ぶとりのおばちゃんたちがひしめいていたりするわけです。また、アンダルシア山中の村と来ては山の斜面にひしめく白壁の家々を見上げるところに一本のオレンジの木が植わっていて、その木陰にちっちゃなバーが昼間からサングリアを出していたりします。そんな風景が、この本を読んでいるとまざまざと蘇ってきます。絵の描けないセガワの、視覚的な感興を思いきり呼び覚ましてくれる、そんな作用が速水さんの絵にはあるようです。
ちょっとだけ書く側の視点で話をしますと、セガワもいろいろとウソ話をこしらえるのが大好きで、そういう話をずいぶん書いてきました。以前は小説の丸ごとがウソ話で、独立間もない中央アジアの小国で医者とハンガリー人の青年医師が延々と語る話とか、ロシアと思しき片田舎で収容所から帰ってきたチェロ弾きの話とか、東南アジアと思しき屋台の料理の話とか、なんというかその、分類に困るし説明もしづらいような話ばかりなのですが、これは面白くて仕方ない作業でした。
さすがに今はちょっとそういう色合いが薄まったものの、ホラ吹きの血は拙作にちょっとずつ顔を覗かせています。まあ野暮だからいちいち書きませんが、「チューバはうたう」のアレとかコレとか、「飛天の瞳」のアソコとかアノアタリとか。ウソとホントを適度にブレンドするのがコツですね。
やっぱり、ウソを書くのって本当に楽しいことです。本書を読んで、しみじみとそう感じました。
……変ですかね。
なお、本書でお気に入りの話は、メキシコで飛行教官になってしまったイタリア軍将校の話「バトル・オブ・テキサス」、東南アジアの貧乏国家が三輪トラックを改造して一個師団を形成し、あげくイラクにまで出陣してしまう話「装甲三輪車伝説」あたりです。
ちょっとファンタジーの色合いが混じりますが、「海底戦艦パンタグリュエル」も実にいい話ですよ。おデブで狡猾な捕虜の潜水艦長と、貴族の娘にしていろいろと無茶をなさる海底戦艦艦長のラファリエール大佐の掛け合いが楽しい一作です。最後のオチがまた素敵で。ラファリエール大佐萌え(笑)。
ともあれ、この素敵な本が世に出たことを、心から喜びたいと思います。
面白いですよ。
いろいろ書きたいことはあるんですが(ラ・フォル・ジュルネとかアックスとか群像とか)、どれも文章長くなりそうだしなー小説書くとブログまで手が回らないなーとか自分を思いきり甘やかしておりましたら、
シカラムータのみわぞうさんより、
先日のライブのお写真を送って頂きました。
わぁい!

なんかもう、
セガワの面構えはさておくとしてもとっても素敵な写真ですわ。まさしく春の祭りのあとといった感じで。皆さんがカメラ目線ばかりじゃないところもいいですね。
改めて見ると、関島さん、ギデオンさんという偉大なチューバプレイヤーに挟まれていることに気付きました。強力な低音の磁場が発生しているに違いない。
あ、ハンチングかぶってる人が三人もいるなw
改めてシカラムータのみなさま、ありがとうございました。
今ちょいとばかり長めの小説を書いているんですが、こういう祝祭の感覚ってのは重要だなと思います。「文学における祝祭」みたいな研究はまず間違いなくなされているでしょうから、なにか本を漁ってみようかしら。
少なくとも三ヶ所に挿入される三つのパーティーをどんなふうに書くか、今から知恵を絞っております。
シカラムータのみわぞうさんより、
先日のライブのお写真を送って頂きました。
わぁい!

なんかもう、
セガワの面構えはさておくとしてもとっても素敵な写真ですわ。まさしく春の祭りのあとといった感じで。皆さんがカメラ目線ばかりじゃないところもいいですね。
改めて見ると、関島さん、ギデオンさんという偉大なチューバプレイヤーに挟まれていることに気付きました。強力な低音の磁場が発生しているに違いない。
あ、ハンチングかぶってる人が三人もいるなw
改めてシカラムータのみなさま、ありがとうございました。
今ちょいとばかり長めの小説を書いているんですが、こういう祝祭の感覚ってのは重要だなと思います。「文学における祝祭」みたいな研究はまず間違いなくなされているでしょうから、なにか本を漁ってみようかしら。
少なくとも三ヶ所に挿入される三つのパーティーをどんなふうに書くか、今から知恵を絞っております。
連休中のことを書こうかと思ったけど長くなりそうなので、本日買った漫画のことを先に。
(本項は敬称略です、失礼)
-------- ☆ --------
島本和彦「アオイホノオ」が素晴らしく良かった。
漫画家の書いた漫画モノにハズレはずれなしという言い方があるみたいだけど、身近な題材であることもさることながら、漫画という実はおそろしく手間のかかる表現技法に没入した記憶を誰しも持つからなんだろうなと思う。基本的に個人作業である表現手段の中でも、漫画の孤独さと手間のかかり方というのは群を抜いているんじゃないだろうか。
確かに藤子不二雄Aの「漫画道」も、吉田忠「ハムサラダくん」も、山本おさむ「ペンだこパラダイス」もみんな素晴らしかった。タイトルが思い出せないけどさいとうたかをの少年期を書いた話とか、comic新現実に載ってた吾妻ひでおの漫画もすごく良かった。(でもなぜか永島慎二のだけは微妙に苦手だ)
で、「アオイホノオ」、80年代初頭という日本の漫画の転換期を舞台に島本和彦の青春時代が書かれているわけだが、例によっての「熱い」画面が、なぜか異常に切なく伝わってくる。もともと作者はギャグの一環として少々意図的にあの「熱い」描法を取っている節があるようなんだけど、ここではその「熱さ」が実に見事に空回りしている。もちろん悪い意味ではなくて、それは主人公焔燃(ホノオ・モユル)の立場がどうやったって空回りせざるを得ないところにいるからなんだと思う。
完成させた漫画は一本もなく、金も地位も彼女もないけれど、漫画やアニメへの情熱は人一倍強い。周囲に群れをなして集まる異才秀才天才たちに圧倒されつつも、どこか焔は無闇な自己肯定にあふれ、1本の映画をオールナイトで4回も鑑賞し、インチキくさい筋力トレーニングマシンを通販で購入して筋トレにいそしむ。
なんか、もう、読んでいて嬉しくてたまらなかった。
焔燃はやたらに悩み、逡巡するものの、つまらない自己否定や自己憐憫には陥らない。他者の才能を認め、驚き、恐れるが、嫉妬はしない。「俺ならこうしてみせる」という根拠があるんだかないんだか分からないモチベーションに転化される(一本も作品を完成していないにもかかわらず!)。
この無闇な情熱が、無性に心地よかった。漫画ゆえの誇張を大いに含むと承知しつつも、嬉しくて仕方なかった。こういう闇雲さが許されるところに、まだ、焔燃は居るからなのだろう。
(批判を承知で書くけれど、対置して思い出されるのがちょっと前にヤンマガでやっていた『G戦場ヘブンズドア』という作品。これが自分はどうも苦手だったのだが、それは漫画を書くという行為に才能や確執という要素をふんだんに盛り込んでいたからなのだと思う。もちろん才能は必要なものだしそれを否定はしないが、高校生前後の人間たちがそんなことにこだわっていてどうなるものかというのが自分の意見。誰もがおしなべて出来ることを当たり前のように出来るようになってから、改めて度考え直したってまるで遅くはないことなのだから。この作品の意図を否定する意見ではないけれど、残念ながら自分にはどうしてもなじめない内容の作品ではあった。)
ちなみにこれは単行本の1巻だが、明らかにインチキな筋トレマシーンを繰り返した結果、焔燃にうっすらと腹筋がつき始めたところでこの巻は終わる。鈍重で執念深い鍛錬が、かすかに結実したことを示唆するラストだと思う。
いい漫画を読んだ。
(本項は敬称略です、失礼)
-------- ☆ --------
島本和彦「アオイホノオ」が素晴らしく良かった。
漫画家の書いた漫画モノにハズレはずれなしという言い方があるみたいだけど、身近な題材であることもさることながら、漫画という実はおそろしく手間のかかる表現技法に没入した記憶を誰しも持つからなんだろうなと思う。基本的に個人作業である表現手段の中でも、漫画の孤独さと手間のかかり方というのは群を抜いているんじゃないだろうか。
確かに藤子不二雄Aの「漫画道」も、吉田忠「ハムサラダくん」も、山本おさむ「ペンだこパラダイス」もみんな素晴らしかった。タイトルが思い出せないけどさいとうたかをの少年期を書いた話とか、comic新現実に載ってた吾妻ひでおの漫画もすごく良かった。(でもなぜか永島慎二のだけは微妙に苦手だ)
で、「アオイホノオ」、80年代初頭という日本の漫画の転換期を舞台に島本和彦の青春時代が書かれているわけだが、例によっての「熱い」画面が、なぜか異常に切なく伝わってくる。もともと作者はギャグの一環として少々意図的にあの「熱い」描法を取っている節があるようなんだけど、ここではその「熱さ」が実に見事に空回りしている。もちろん悪い意味ではなくて、それは主人公焔燃(ホノオ・モユル)の立場がどうやったって空回りせざるを得ないところにいるからなんだと思う。
完成させた漫画は一本もなく、金も地位も彼女もないけれど、漫画やアニメへの情熱は人一倍強い。周囲に群れをなして集まる異才秀才天才たちに圧倒されつつも、どこか焔は無闇な自己肯定にあふれ、1本の映画をオールナイトで4回も鑑賞し、インチキくさい筋力トレーニングマシンを通販で購入して筋トレにいそしむ。
なんか、もう、読んでいて嬉しくてたまらなかった。
焔燃はやたらに悩み、逡巡するものの、つまらない自己否定や自己憐憫には陥らない。他者の才能を認め、驚き、恐れるが、嫉妬はしない。「俺ならこうしてみせる」という根拠があるんだかないんだか分からないモチベーションに転化される(一本も作品を完成していないにもかかわらず!)。
この無闇な情熱が、無性に心地よかった。漫画ゆえの誇張を大いに含むと承知しつつも、嬉しくて仕方なかった。こういう闇雲さが許されるところに、まだ、焔燃は居るからなのだろう。
(批判を承知で書くけれど、対置して思い出されるのがちょっと前にヤンマガでやっていた『G戦場ヘブンズドア』という作品。これが自分はどうも苦手だったのだが、それは漫画を書くという行為に才能や確執という要素をふんだんに盛り込んでいたからなのだと思う。もちろん才能は必要なものだしそれを否定はしないが、高校生前後の人間たちがそんなことにこだわっていてどうなるものかというのが自分の意見。誰もがおしなべて出来ることを当たり前のように出来るようになってから、改めて度考え直したってまるで遅くはないことなのだから。この作品の意図を否定する意見ではないけれど、残念ながら自分にはどうしてもなじめない内容の作品ではあった。)
ちなみにこれは単行本の1巻だが、明らかにインチキな筋トレマシーンを繰り返した結果、焔燃にうっすらと腹筋がつき始めたところでこの巻は終わる。鈍重で執念深い鍛錬が、かすかに結実したことを示唆するラストだと思う。
いい漫画を読んだ。
ちょっと告知が遅れてしまったんですが、
筑摩書房のPR誌「ちくま」に、拙著「チューバはうたう」の紹介文が掲載されました。
お願いしたのは、ご存知シカラムータの大熊ワタルさんです。
なんかもう、いろいろと、ほんとうに、ありがとうございます。
この「ちくま」という冊子、ご存じない方も多いかも知れませんが(筑摩書房のみなさまごめんなさい)、
実は結構面白いんですよ。
セガワも毎号送っていただくようになって改めてその面白さを認識したので他人のことは言えないんですが、
豪華かつ面白い人選の執筆陣で、記事に読み応えのあることこの上ないです。
まあもちろんPR誌なんでメインは筑摩書房の新刊を紹介する記事なんでしょうが、
これがまた面白い。
牧野富太郎の本をいとうせいこうさんが、華恵さんのエッセイを谷川俊太郎さんが紹介するなんて、
なかなか思いつかない組み合わせじゃないですかね。
表紙が奈良美智さんというのもひっそりとすごい。
鈴木理生さんが戦前の、菅野昭正さんや沖浦和光さんが戦後の日本を回想する文章も素晴らしいですし
(失礼ながら、おじいちゃんの繰り言になっていない回想記というのは本当に面白いものなのだと再認識しました)、
四方田犬彦さんの大島渚論とか竹熊健太郎さんのオタク論とか伊藤剛さんの漫画論とか、
連載の顔ぶれも微妙に尖っていて面白いです。
PR誌ということでなのか、あんまり大々的に売っている印象もないんですが、なんか勿体ないですね。
今どき一般記事を装った提灯記事満載の雑誌なんか世間にいくらだってあるのに。
まあそれはそれとして。
大熊さんの紹介文、本当にありがたい内容でしたよ。
もともと大熊さんは異常に文章が達者なんですが、特に音楽小説や映画に言及した部分は相当に鋭いです。
成功の上昇曲線は、見るものを高揚させるが、ひとつ間違えると、支配的な文化の論理に回収されてしまう危険性をはらんでいるように思う。
吹奏楽は、軍楽をルーツとして、集団演奏を主眼に発達してきた。集団には、個々の限られた力を、足し算以上のものにする可能性がある半面、とかく排他的になったり、同質化圧力が先走ったりしがちだ。吹奏楽は、かつてフーコーが指摘したような、規律社会としての近代社会の縮図と見ることもできる。
こういう指摘は拙作についてなかなか受けなかったものなので、本当に嬉しかったです。
だいたい自分は、集団競技というものがいまいち苦手なんですが、
それはどうしてもそこから外れてしまう人の方に興味が向いてしまうからなんですよね。
自分も明らかにそこから外れてしまう側の人間でしたし。
テレビなんかで散見する集団競技の感動モノ、マー例えばクラス丸ごとで仮装大賞とか30人31脚とか、
あれ、絶対あそこからあぶれてる子が居るはずですよ。
そういう子がクラス内から向けられる視線を考えるに、胸が痛みます。
自分の興味はどうしてもそちらに向いてしまうんですよねー。
まあ別に感動しちゃいかんというわけじゃないんですが、
「僕にはその感動を保留する猶予が欲しい」というのが偽らざる気持ちです。
感動っていうのは、もう少し内面に存するものではないのかなあ。
筑摩書房のPR誌「ちくま」に、拙著「チューバはうたう」の紹介文が掲載されました。
お願いしたのは、ご存知シカラムータの大熊ワタルさんです。
なんかもう、いろいろと、ほんとうに、ありがとうございます。
この「ちくま」という冊子、ご存じない方も多いかも知れませんが(筑摩書房のみなさまごめんなさい)、
実は結構面白いんですよ。
セガワも毎号送っていただくようになって改めてその面白さを認識したので他人のことは言えないんですが、
豪華かつ面白い人選の執筆陣で、記事に読み応えのあることこの上ないです。
まあもちろんPR誌なんでメインは筑摩書房の新刊を紹介する記事なんでしょうが、
これがまた面白い。
牧野富太郎の本をいとうせいこうさんが、華恵さんのエッセイを谷川俊太郎さんが紹介するなんて、
なかなか思いつかない組み合わせじゃないですかね。
表紙が奈良美智さんというのもひっそりとすごい。
鈴木理生さんが戦前の、菅野昭正さんや沖浦和光さんが戦後の日本を回想する文章も素晴らしいですし
(失礼ながら、おじいちゃんの繰り言になっていない回想記というのは本当に面白いものなのだと再認識しました)、
四方田犬彦さんの大島渚論とか竹熊健太郎さんのオタク論とか伊藤剛さんの漫画論とか、
連載の顔ぶれも微妙に尖っていて面白いです。
PR誌ということでなのか、あんまり大々的に売っている印象もないんですが、なんか勿体ないですね。
今どき一般記事を装った提灯記事満載の雑誌なんか世間にいくらだってあるのに。
まあそれはそれとして。
大熊さんの紹介文、本当にありがたい内容でしたよ。
もともと大熊さんは異常に文章が達者なんですが、特に音楽小説や映画に言及した部分は相当に鋭いです。
成功の上昇曲線は、見るものを高揚させるが、ひとつ間違えると、支配的な文化の論理に回収されてしまう危険性をはらんでいるように思う。
吹奏楽は、軍楽をルーツとして、集団演奏を主眼に発達してきた。集団には、個々の限られた力を、足し算以上のものにする可能性がある半面、とかく排他的になったり、同質化圧力が先走ったりしがちだ。吹奏楽は、かつてフーコーが指摘したような、規律社会としての近代社会の縮図と見ることもできる。
こういう指摘は拙作についてなかなか受けなかったものなので、本当に嬉しかったです。
だいたい自分は、集団競技というものがいまいち苦手なんですが、
それはどうしてもそこから外れてしまう人の方に興味が向いてしまうからなんですよね。
自分も明らかにそこから外れてしまう側の人間でしたし。
テレビなんかで散見する集団競技の感動モノ、マー例えばクラス丸ごとで仮装大賞とか30人31脚とか、
あれ、絶対あそこからあぶれてる子が居るはずですよ。
そういう子がクラス内から向けられる視線を考えるに、胸が痛みます。
自分の興味はどうしてもそちらに向いてしまうんですよねー。
まあ別に感動しちゃいかんというわけじゃないんですが、
「僕にはその感動を保留する猶予が欲しい」というのが偽らざる気持ちです。
感動っていうのは、もう少し内面に存するものではないのかなあ。
竹熊健太郎さんのブログに面白い記事がありました。
携帯コミック、要するに携帯に配信されて読む漫画についてなんですが、これが従来漫画をあまり読まなかった層の需要を掘り起こしているんではないかというもの。これ自体とても興味深い問題提起だし、個人的な心情としてはかなり頷けるところがあります。
自分や友人たちは大概ビブリオマニアなので、部屋にごっそり本が積んであるという状況に慣れきっているわけですが、実は本って読まない人はほとんど読まないんですよね。読むのかもしれないけど、手元に置いておかない。そういう人たちでも、携帯という端末にコンテンツが配信されてくれば事情は違うのではないかと思うわけです。いちいち本を持ち歩く必要もないですし、飽きたらデータを消去すれば済むわけですし。
で、このことでちょっと考えたのは、同じことが小説で出来るかな、ということ。
もちろん、携帯小説というものはすでに存在し、かなりの人気を誇っています。自分はほとんど読んだことがないのでこれについて云々することはできないんですが、最初から携帯で読まれることを意識した小説でなければ、正直なところ、携帯の画面で長い文章を読むのはちょっと骨が折れるんじゃないかと想像します。まあ画面のサイズや解像度、携帯への慣れにも依存するんでしょうが、例えばすでに書かれた長編小説をそのまんま携帯に配信しても、喜んで読まれるかというとちょっと微妙な気がします。そもそもがA4や文庫本サイズの版組を意識して書かれた文章でしょうし。
ただ、携帯で小説を読むとするならば、短篇小説はあんがい相性のいいジャンルではないかと思ったのです。
これは以前から思っていたことなんですが、短篇小説というのは現在の日本であまり優遇されていないジャンルのように思うんですね。要するに、発表の場が非常に少ない。
自分はもともと短篇小説が好きで、デビュー前から結構な数の小説を書いていたのですが、その9割方が短篇小説です。しかしこれは、本当に持って行きようのない原稿なんですよ。小説を書き始めてから実際に新人賞に投稿するまでに異常に時間がかかっていたのには、実はこういう事情も反映しています。まあ確かに、アマチュア作家の力量を図るのに10数枚の短篇だけではどうにもならないでしょうし、仮にどこかに載せたところでよっぽどの数が溜まらなければ書籍化は難しいでしょうし。ニューヨーカーとかコスモポリタンみたいに、短篇小説を載っける雑誌が少ないことも事情としては大きいでしょう。
しかし、そのへんの事情を勘案するとしても、短篇小説があまり読まれないのはもったいないなあと思います。サキとかバーベリとかボルヘスの短篇は本当に面白いですし、日本でも横光利一や三木卓みたいに実に優れた短篇を書いた人がいますし。ただ、俺も同じようなことをやってみたいなあと思った作家がいたとして、今の日本でその発表の場が極端に限られるのはどうにも残念です。
そこで、携帯ってのがうまいこと使える道具にならないかなあ、と思うわけです。
最低でも1行20文字ぐらいのサイズで表示してくれれば、小説を読むフォーマットとしては充分だと思います。新聞の連載小説がおおむね20文字×40行ぐらいで組んでありますので、極端に読みづらいことはないでしょう。画面2つ分で新聞の連載小説1回分、原稿用紙にして2枚分です。これだったら、原稿用紙15枚ぐらいまでのサイズの小説ならば1回でダウンロードしても極端に長いスクロールを強いることもないでしょう。
こんなかたちで、短篇を読みたい作家の原稿を募って定期的に配信する、と。短篇ならば、その時々の気分で読みたいモノを選べますし、続きを気にする必要もないですから、きわめて携帯向きだと思います。時間つぶしや、寝る前の一読であって一向に構わないんですよ。ちょっとした空き時間に一つ、なにか面白いものがたりが読めるってなかなか素敵じゃないですかね。本がちっとも売れないとはよく聞くことですが、ブログに掲示板にSNSなど、ネットを介して充分に文章は読まれているわけですから、「読む」ことへの需要はまだまだ尽きないと思います。少々都合のいい希望を述べるならば、冒頭の携帯コミックの話じゃないですが、こういうかたちで「へえ、短篇小説って面白いじゃん」と思ってくれる人が増えたらしめたものです(笑)。
そんなわけで、携帯で短篇小説、ご興味をお持ちの出版社や携帯コンテンツ作製会社の方はいらっしゃいませんか(笑)。もし実現するようなことがあるならば、その節には全面的に協力させていただく所存です。
(追記)この本だけは宣伝させてくださいな。
今世紀初頭のウクライナはオデッサで活躍したユダヤ系の天才作家、イサーク・バーベリの短篇集です。
簡潔で引き締まった文体、どす黒いユーモア、どこかノスタルジックな物語、どれを取っても一級品です。
個人的にはルルフォ、ボルヘスと並ぶ短篇小説の神様。
携帯コミック、要するに携帯に配信されて読む漫画についてなんですが、これが従来漫画をあまり読まなかった層の需要を掘り起こしているんではないかというもの。これ自体とても興味深い問題提起だし、個人的な心情としてはかなり頷けるところがあります。
自分や友人たちは大概ビブリオマニアなので、部屋にごっそり本が積んであるという状況に慣れきっているわけですが、実は本って読まない人はほとんど読まないんですよね。読むのかもしれないけど、手元に置いておかない。そういう人たちでも、携帯という端末にコンテンツが配信されてくれば事情は違うのではないかと思うわけです。いちいち本を持ち歩く必要もないですし、飽きたらデータを消去すれば済むわけですし。
で、このことでちょっと考えたのは、同じことが小説で出来るかな、ということ。
もちろん、携帯小説というものはすでに存在し、かなりの人気を誇っています。自分はほとんど読んだことがないのでこれについて云々することはできないんですが、最初から携帯で読まれることを意識した小説でなければ、正直なところ、携帯の画面で長い文章を読むのはちょっと骨が折れるんじゃないかと想像します。まあ画面のサイズや解像度、携帯への慣れにも依存するんでしょうが、例えばすでに書かれた長編小説をそのまんま携帯に配信しても、喜んで読まれるかというとちょっと微妙な気がします。そもそもがA4や文庫本サイズの版組を意識して書かれた文章でしょうし。
ただ、携帯で小説を読むとするならば、短篇小説はあんがい相性のいいジャンルではないかと思ったのです。
これは以前から思っていたことなんですが、短篇小説というのは現在の日本であまり優遇されていないジャンルのように思うんですね。要するに、発表の場が非常に少ない。
自分はもともと短篇小説が好きで、デビュー前から結構な数の小説を書いていたのですが、その9割方が短篇小説です。しかしこれは、本当に持って行きようのない原稿なんですよ。小説を書き始めてから実際に新人賞に投稿するまでに異常に時間がかかっていたのには、実はこういう事情も反映しています。まあ確かに、アマチュア作家の力量を図るのに10数枚の短篇だけではどうにもならないでしょうし、仮にどこかに載せたところでよっぽどの数が溜まらなければ書籍化は難しいでしょうし。ニューヨーカーとかコスモポリタンみたいに、短篇小説を載っける雑誌が少ないことも事情としては大きいでしょう。
しかし、そのへんの事情を勘案するとしても、短篇小説があまり読まれないのはもったいないなあと思います。サキとかバーベリとかボルヘスの短篇は本当に面白いですし、日本でも横光利一や三木卓みたいに実に優れた短篇を書いた人がいますし。ただ、俺も同じようなことをやってみたいなあと思った作家がいたとして、今の日本でその発表の場が極端に限られるのはどうにも残念です。
そこで、携帯ってのがうまいこと使える道具にならないかなあ、と思うわけです。
最低でも1行20文字ぐらいのサイズで表示してくれれば、小説を読むフォーマットとしては充分だと思います。新聞の連載小説がおおむね20文字×40行ぐらいで組んでありますので、極端に読みづらいことはないでしょう。画面2つ分で新聞の連載小説1回分、原稿用紙にして2枚分です。これだったら、原稿用紙15枚ぐらいまでのサイズの小説ならば1回でダウンロードしても極端に長いスクロールを強いることもないでしょう。
こんなかたちで、短篇を読みたい作家の原稿を募って定期的に配信する、と。短篇ならば、その時々の気分で読みたいモノを選べますし、続きを気にする必要もないですから、きわめて携帯向きだと思います。時間つぶしや、寝る前の一読であって一向に構わないんですよ。ちょっとした空き時間に一つ、なにか面白いものがたりが読めるってなかなか素敵じゃないですかね。本がちっとも売れないとはよく聞くことですが、ブログに掲示板にSNSなど、ネットを介して充分に文章は読まれているわけですから、「読む」ことへの需要はまだまだ尽きないと思います。少々都合のいい希望を述べるならば、冒頭の携帯コミックの話じゃないですが、こういうかたちで「へえ、短篇小説って面白いじゃん」と思ってくれる人が増えたらしめたものです(笑)。
そんなわけで、携帯で短篇小説、ご興味をお持ちの出版社や携帯コンテンツ作製会社の方はいらっしゃいませんか(笑)。もし実現するようなことがあるならば、その節には全面的に協力させていただく所存です。
(追記)この本だけは宣伝させてくださいな。
今世紀初頭のウクライナはオデッサで活躍したユダヤ系の天才作家、イサーク・バーベリの短篇集です。
簡潔で引き締まった文体、どす黒いユーモア、どこかノスタルジックな物語、どれを取っても一級品です。
個人的にはルルフォ、ボルヘスと並ぶ短篇小説の神様。
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