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セガワブログ

小説家、瀬川深のブログ。

中編小説を一つ書き上げました。
まあこれから愉快な推敲タイムが待っているわけですが。
お披露目できること、詳しく決まりましたらまたお知らせいたします。


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 モノ書く人間の末席を汚すようになってふと思ったことですが、文章を書く人々がなにを使って書いているということは、あんまり公にならないですね。セガワのアンテナが低いだけかも知れませんが。
 たとえばワープロ派なのか肉筆派なのか、肉筆ならばどんな筆記用具を使っているのか、ワープロならばどんなシステムなのか、知る機会は案外少ないのかなと思ったのです。まあ漫画や音楽と違ってどんな方法で書かれても最終的には文字は文字情報として扱われてしまいますから、あんまり意味のない興味なのかも知れませんが。


 ということを考えたのも、最近新しい日本語入力ソフトを導入してみたからなんですが。ATOKのいちばん新しいバージョンであります。
 自分はどんなシステムでもいちばん最初に『奥の細道』の冒頭をタイプしてみる癖があるんですが、「つきひははくたいのかかくにして」が「月日は百代の過客にして」と一発変換されたのには驚きましたね。「はくたい」が「百代」に変換されるのはまあ稀な例と言っていいでしょうから、これは収められているコーパスが豊富なんだろうなと思います。
 セガワは一太郎のver.3から続く執念深いATOK信者なんですが、少なくとも日本語変換システムとしての優秀さで考えるならば、IME(Windowsのおまけで付いているアレです)なんぞは使う気にもなれない悲劇的なシステムだと思います。IMEの開発者の方がもしここを見ていらっしゃるのならばこれは侮蔑ではなく奮起の材料として下さればありがたいのですが、たとえば最も同音異義語の多い「コウ」という音、これに対する変換候補が項、高、功……と続くところから見ても、このシステムがいかに日本語の実用からかけ離れたところにあるか判るのではないかと思います。IMEの悪口を書きだしたらキリがないんで自重しますが、一億人規模の言語話者を誇る日本語に対してこんな珍奇な変換システムを押しつける持ってくるマイクロソフトについてはちょっと一言もの申したくはなりますね。ヒトもカネも余っていないはずがないんだから、なんとかなりませんかビルゲイツ様。
 ついでに言うならばWordも、あれほどの普及を誇るわりには日本語の文書を作成するにあたっては不自由極まりないものとしか言いようがないのですが、それはWordがそもそも欧文の文書を作成するためのもの、つまりはレターペーパーにタイプする文化に原点があるからではないかと推察します。日本語というのは原稿用紙のマス目を埋める文化ですからね。単語ごとに字間の調整をされるよりは、一行ごとの文字数を決めておいてくれたほうがありがたいわけです。
 まあそんなわけで、このご時世にあってもセガワはかたくなにATOKで文章を打っております。下書きの段階ではテキストエディタがもっぱらですが、ここではシグマリオンⅡという素晴らしいPDAにVzEditorというこれまた優れもののEditorを導入して文章を打っています。シグマリオンをリスペクトしたらこれまた異常に長い文章になりそうですので、これは別項に譲りますが。ルビや特殊文字などの仕上げは一太郎です。
 ただこのATOKにも弱点があって、それは音便を含む変化にあまり巧く対応していないなという点です。たとえば「寝んのか」とか「構やしない」とか「放っとけ」とか、そういう口語的な変化にはあまり巧く変換できず、このへんはこまごまと変換しながらの文章作成になります。関西弁とかに対応する余裕があるのならば、こちらもなんとかしていただきたいところですが。
 まあそんなわけで、このへんがセガワの紙と筆と硯ということになりそうです。校正はもっぱら紙の上でやりますんで、しばしご縁が途切れますが。


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ま、とは言え、ごく稀に手書きで小説を書いたりするのですが、あれはあれでとても楽しい作業ですね。
「飛天の瞳」の前半部分は旅先でノートに書いたものです。
文章のリズムもちょっと変わってくる感じがします。
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行進曲

夏が近付くと
日が伸びると人は言うものだが
それは正しくない。
夜が昼へと入りこむのである。
夜の中に淡い光は暮れきらず、
空は蒼く濃い。
だから人びとは
光の中では恥じ入ることに
そっと踏みこむのである、
若い男はかたわらを歩く人に小指を絡め、
子供たちはまだ許されていない路地の暗がりに興奮し、
つとめびとは机のうえを片付けて
いそいそと早い帰宅の途につく。


そうだ夏のはじまる日ぐらいは、
誰もが外に出てよい。
夜と昼とがせめぎあう長いたそがれに迷い、
大気に満ち肺腑を濡らす水をむしろ愉しんでよい。
酒精に依らず酔い、
やくたいもなく街をめぐってよい。
顔を火照らせ胸を高鳴らせ、
ときに熱い息を吐き、
しだいに濃くなる闇の底を歩くとよい。


やがて人びとは、
知らなかった道のことを思い出すだろう、
かつて聳えていた家々を思い出すだろう、
土の下に眠る者たちの
強い眼差しと確かな言葉とを思い出すだろう。
奇妙なことではない。
土地の上にうずたかく積まれ
息をひそめている記憶の莫大が
夜と昼とのあわいには
ひといきによみがえるからである。


高ぶってよい、
驚いてよい、
畏れてよい。
今日は夏のはじまる日である、
円環を描く時間と
直線を描く時間とが
ひととき交わるせつなの奇蹟である。








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お暑うございますがみなさまお元気でしょうか。
何年か前の夏至の日に書いた詩をあげてみました。
着想は夏至の日のお散歩と、それからグスタフ・マーラーの交響曲第3番です。
マーラーの交響曲ときてはどれもこれもやや分裂気味ではあるのですが、
とりわけこの曲のとっちらかりかたと来たら尋常ではないような気がします。
中でも一楽章、何度聞いても曲がどっちの方向に向かって行くのか分からず、
ところによってはおそろしく陰気、ところによってはひどく猥雑、ところによってはやけに快活、
最後にはこの分裂気質の作曲家の後追いを諦めた時点で妙に楽しくこの曲を聴くことができました。
突然闖入してくる粗雑で陽気な響きは、ひょっとすると19世紀末ウィーンの
マーラーが耳にした辻音楽の模倣だったのかも知れません。
なんの根拠もない空想ですが。
そんなわけでここ数年、夏になるとこの頭のおかしい交響曲をしょっちゅう聴いています。
困ったもんです。


マーラー:交響曲第3番「夏の交響曲」マーラー:交響曲第3番「夏の交響曲」
(2002/10/25)
ラトル(サイモン)レンメルト(ビルギット)

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ついでにもう一曲、夏をテーマにしたとびきり素敵な曲を。
アルテュール・オネゲル「夏の牧歌」。
アントン・ヴェーベルン「夏風の中で」と並んで、セガワの大好きな曲です。


オネゲル:交響曲全集オネゲル:交響曲全集
(2004/03/24)
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団

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ちなみに関連記事はこちら。

segawashin

Author:segawashin
2007年、「mit Tuba」で
第23回太宰治賞受賞。
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http://twitter.com/#!/segawashin

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