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セガワブログ

小説家、瀬川深のブログ。



 三木鶏郎作詞作曲「僕は特急の機関士で」。1950年の大ヒット曲だったらしい。
 セガワは主に母親の英才教育が行き届いていたので幼児期から中尾ミエの歌だの中村八代だのの曲をみっちり聴かされてきたのだが、そこで知った曲。三木鶏郎の曲だとは当然知らなかったのだが。まさかネットで拾えるとは思わなかった。
 20年以上建って改めて聴いて驚くのは、かなりスウィング・ジャズを意識した音作りにしていることや、当時おそらくスタジオ一発録りであったであろうミュージシャンたちのすばらしい芸達者さ(間奏で一瞬曲の雰囲気をがらっと変えるあたりとか、惚れ惚れする)。そしてなにより、三木鶏郎のものすごい才人ぶり。なにが怖いかって、おそらくコレ、あんまり大した時間をかけていないんじゃないかと思われる曲なんだが、「熱海湯の町恋の町 寛一お宮の昔から 愛し恋しの二人連れ 闇のトンネル通りゃんせ」とか、とにかく巧い。
 多分この曲でいちばんの才気を感じるところはサビの部分、「トーキョー キョート オーサカ ウゥウゥウゥウゥ ポッポ」。地名を三つ連ねただけなのに、そこには四つの長母音と二つの短母音が入り、ぴたりと音楽に組み合わされる。この無造作が出来ることこそが、才能なんだと思う。
 そしてこの曲、底抜けに明るい。 敗戦からたった五年で日本の一世を風靡した音楽の明るさと来ては眩しすぎて、なにか凄みを感じるほどだ。15年の戦争というのは、本当につまんない時代だったんだろうと思う。それが、帝大の法科を出て順調にエリートコースを歩んでいた三木鶏郎にまるで違った人生を歩ませた理由になったのかどうか、今の自分の知識ではよく分からないんだけど。




 確か中学校の時に初めて聞いたレイ・チャールズの「旅立てジャック」。ウワァかっこいい、と当時思ったものだが、改めて観てみて、ガツンとやられた。
 なんていかがわしいんだろう。なんて薄暗くて、なんて格好いいんだろう。良識ある大人がまゆをひそめた理由がよく分かる。これはアレだ、昭和の御代ならば「嫁入り前の娘に見せてはいけない」といった類の音楽だ。やっぱりマトモな大人っていうのはこういう音楽におもねっちゃいかんな。ガキどもと一緒にプレスリーなんか歌っちゃいけないのですよ。それにしても、アメリカで公民権運動が盛んになる前に、こんなうさんくさくてこんな素敵な音楽は確かに生まれていたらしい。





 で、こちらはジェイミー・フォックスによるカヴァー。フォックスの芸達者ぶりと再現度の高さに惚れ惚れするんだけど、しかしここからはたった一つ、いかがわしさというものが拭い去られている印象を強く持った。






 チリのフォーク・グループQuilapayunによる、「不屈の民~El pueblo unido jamas sera vencido」。あまたあるプロテスト・ソングの中でももっとも劇的なエピソードに彩られた曲の一つであろう。この素晴らしい曲はシカラムータのアルバム"Ghost Circus"に教えられた。不勉強を恥じるが、高橋悠治のCD「不屈の民変奏曲」の原曲であることも、こののちに知った(作曲はフレデリック・ジェフスキ)。
 きわめてイデオロジックな背景を持つ曲であるのは確かだが、この曲の歌われたチリ共和国の現代史を思うに、それは遠い地球の裏側から云々することなどとても出来たことではないように思われる。アジェンデ政権がアメリカを後ろ盾にしたクーデターで倒されたとき、この曲を歌っていたビクトル・ハラは軍人に虐殺されている。そしてこの動画のキラパジュンが長い亡命生活から帰国し、民政が回復されるまでには20年近い時間がかかっているのだ。 かなり読み応えがあるが、こちらのリンク先が大変参考になる。
 余談だが、昨年学会でサンディエゴを訪れたとき、郊外のヒスパニック系が多く住む、率直に言ってあまり豊かではない地帯にホテルを取ったのだが、そこの壁に描かれた壁画には"El pueblo unido jamas sera vencido!"と書かれていて、胸を突かれる思いがした。




 Kid Cleore and the Coconuts で"Endicott"。ジャンミシェル・バスキア主演の映画"Downtown 81"で知ったグループ。ウワァうさんくさい!大好き!
 それにしても、このセクシーダイナマイツなおねいちゃんがコーラスを入れるスタイル(上のHit the road, Jackもそうですね)には、なにかルーツとか名称とかがあるんでしょうか。大友克洋「アキラ」の5巻で、二度目に月をぶっ壊すアキラの前でネオ東京のチンピラたちがまさしくこういうステージをやっていたのが凄く印象に残ってるんだけど。
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 もうずいぶん時間が経ってしまったのですが、ファンファーレ・チォカリーアのライブに行って来ました。 10/11、三鷹市公会堂でのライヴであります。多忙にかまけてすぐにブログの記事を書かなかったことが悔やまれるのですが、本当に素晴らしいライヴでした。


 三年ぶりの生演奏に接したのですが、本当に、嬉しくなるぐらいに、ファンファーレ・チォカリーアは変わっていませんでした。もちろん、いい意味で。BBCのワールド・ミュージック賞を受賞し、いくつもの映画に音楽が使われ、ジプシー・ブラスの中でも抜群の知名度を誇るようになってからも、それでいてなんなんだろう、この嬉しくなるぐらいの揺るぎなさは。ライヴの冒頭、のっそりと現れた四本のチューバがどしんと響くファンファーレを吹き鳴らしたとき、ああ、俺はファンファーレ・チォカリーアの音楽を聴いているんだなあという嬉しさがまず押し寄せてきました。そして、早口のルーマニア語でまくし立てられるMC。こんだけ世界中を回っていても、英語をおぼえてオーディエンスにサーヴィスなどという小賢しい発想はないようです。そのやたらに楽しげな、母音を豊かに響かせるルーマニア語もまた、10年以上前に訪れたルーマニアの土臭い風景が蘇ってきて、嬉しいことこの上ありませんでした。
 それにしてもこの人たち、ちっともライブの作法が変わってないなあ。曲順決めてないんじゃないかと危惧したくなるぐらいにステージの上で喋って、それでいていきなり曲が始まる。「なにもしていないとき」と「楽器を吹き鳴らしているとき」の継ぎ目がまるで分からず、気が付くとそこには音楽の怒濤があるわけです。凄かったですよ。
 大好きな曲はいくらでも挙げられるのですが、中でもいちばん好きな"Asfalt Tango"をまた生で聴けたことは、とりわけ嬉しかったことかも知れません。タンゴといいながら全然タンゴじゃないというこのいいかげんさ。そして、このへんてこな曲名に象徴されているかのごとき、どこまでも歩き続けてゆくかのような音楽。
 残念ながら一つ一つの曲順は思い出せなかったんですが、どの一つを取っても、ファンファーレ・チォカリーアの「すごく自然なんだけど高速」、「なんてことないリズムなのにやたらにビートが効いた」サウンドで貫かれていたことを書いておきます。もちろんそこには散々アドリブが入り、CD収録よりもさらにサーヴィス精神(←重要なキーワードですコレ)効かせまくりの演奏になっているんですが。中でも、"Caravan"は凄かったなあ。あれはもうデューク・エリントンのオリジナルを超えるんじゃなかろうか。ジプシー1000年の放浪の歴史をえいやあと詰め込んだかのごとき爆音のサウンドの向こうには、確かに広大に広がるユーラシアの地平が見えた気がしました。ここでまたオーディエンスの反応が素晴らしかったんですが、下は本当に小学生から上は還暦近いんじゃないかというおじさんおばさんが、それなりに自分なりの方法で踊り出していたんですよね。なんでまたこれだけ広い幅の人間たちがチォカリーア・サウンドに興味を持っていたのかはよく分からないんですが、それだけなにか、人間の音楽に対する喜びを換気するサウンドなんでしょうね。じっさい今回のライヴに付き合ってくれた大切な友人、Izu-changはCDを含めてチォカリーア未体験だったわけですが、やけに自然にライヴの音響に入り込んでいましたもん。この敷居の低さ、包容力のでかさこそが、彼らが変に大向こうの受けを狙わずとも、世界中の人間たちに愛される理由ではないのかな、と、しみじみ思いました。
 あ、ちなみに今回コラボレーションしていたダンサー、アウレリアとクィーン・ハリシュがやたらにステキで、ステージのゴージャス感を倍増させていたことも付け加えておきます。Izu-changは日舞をやっていることもあって、興味津々で眺めておりましたし。面白いのは、似たような踊り方であっても、ルーマニアのアウレリアとインド・ラジャスタンのハリシュとでは微妙に体を動かす作法が違って、それがすぐ目の前で観てみれば鮮やかな対比として感じられることでした。そのへん、ここで書いたことと印象が似ているかも知れません。特にハリシュの「うさんくさい」雰囲気は貴重で、なんか目が引き寄せられるままに、滑らかな曲線をふんだんに含む身体運動に酔っていたことを書いておきます。ちなみに休憩ののち、一曲明らかにヒンドゥスタンに由来する音楽をやったのですが、そのときのハリシュの、水を得た魚のごとき軽やかな動きはきわめて印象深いものでした。人間、本貫の音楽に対しては、ここまで闊達になれるものか、と思わずにはいられない一曲でした。
 そんなこんなでライヴがはねて、ええ、例によってチォカリーアの面々はロビーに出てきて演奏してました。もう、本当にタフだなあ。そしてまた、このアンコールとも言うべき演奏が、やはりいちばん素晴らしいんじゃないかという出来で。ものすごい人だかりに囲まれたチューバをかなたに眺めながら、チォカリーアの生音をかたわらに効いているというのはやけに贅沢な経験だなあと思いながら新譜の"Queen and Kings"を購入。もちろんメンバーにサインして貰いましたとも。またこのへんが実に嬉しくなるぐらい非効率なことをしていて、なんとCDにメンバーのほとんどがサインしてくれるわけです。結果として列は長蛇に連なったのですが、ま、それはどうでもいいことですね。
 セガワはルーマニア語はまったく分からないのですが、唯一知っているルーマニア語で"multmesc!"(ありがとう!)と言うと、びっくりするぐらい喜んでくれました。バーッとルーマニア語で話しかけてくるので、「ゴメンこれしかわからないんだ」というしかなかったんですが。


 それで、結局、拙作「チューバはうたう」は、……マネージャーのヘルムート・ノイマンさんにお渡ししてきました!英文で内容を要約した手紙を作って、「彼らにインスパイアされて小説を書きました」といってお渡ししてきました。とても喜んでくださったようで、嬉しかったです。まあ、つまりは、蛮勇なのですが、後悔はしていないです。
 シカラムータに続き、ファンファーレ・チォカリーアにもお渡しすることができ、本当におこがましいのですが、セガワはこの小説を書いて良かったと思いました。自分を心から喜ばせてくれたアーティストたちに、ささやかな恩返しが出来たという点で。


 その意味では、自分の中でも一区切りが出来たという気分です。
 さあ次の作品だ。長編書いてます。あと一息です。11月中には脱稿の予定です!こう書いとかないとサボるからな!俺は!

 J.M.G.ル・クレジオがノーベル文学賞を取りましたね。めでたや。すでに大御所の作家だけあって、かえって意外な感じがしましたけど、嬉しいことです。好きな作家なんですけど、これまで3、4冊を読んだだけで、決して熱心な読者とは言い難いんですが……。
 それにしても恥ずかしながら、読んだことのある作家が取ったのは1999年のギュンター・グラス以来かも知れません。昨年のドリス・レッシングは、古書店で見かけてなんの気なしに買ったらその一週間後に受賞が決まってえらく驚いたという偶然を経験してはいるんですけどね。今年は旧ソ連圏の作家かなあとか、個人的には大好きなイスマイル・カダレが取ってくれると嬉しいなあとか、そんなことも考えていたんですが。


 ル・クレジオについての忘れがたい思い出は、大学1年か2年のころに「愛する大地」を読んだことです。なんで当時読もうと思ったのかさっぱり覚えていないんですけどね。寺山修司の本に紹介があったか、はたまた徒手空拳で海外文学を読んでいたときフランスの現代作家と言うことでフィリップ・ソレルスなどと一緒に紹介されていたのだか(*)。まあともかく、文学の素養が皆無に等しい若造が読んでなにかが分かるような作品ではなかったんですが、とにかくその型破りな小説の形態に驚いたことは今でもはっきり覚えています。自伝的な語り口を取っているんですが、あまり自意識過剰になる出もなく、短い章立てがどんどん連なっていく、文体もいろいろ実験している。こういう小説もあるんだなあ、と、当時かなり新鮮に感じたものです。じゃあ俺も真似してみるべえ、と考えて下手くそなフラグメントをいくつも積み重ねたあげくに挫折したのも少々甘酸っぱい思い出ですがw。当時「調書」も古書店で発見して買ったはいいんですが、こちらは途中で挫折しちゃったんだったかな。
 それからずいぶん時間が経って、10年ぐらい前に「海を見たことがなかった少年」を読み、これはずいぶんすっきりした美しい短編集で、今でもお気に入りの作品集です。のちになって、表題作を原作にした"MONDO"という映画が作られましたが、これも素晴らしい出来映えだったことを覚えています。そしてまた時間が流れ下って、5年ぐらい前に「偶然」を読みました。老いた映画監督に混血の少女の航海。これはどこか切ないぐらいに美しくて感傷的で、それでいて生老病死がきちんと詰め込まれている、端正な味わいの小説でした。
 お粗末ながら、自分にとってのル・クレジオの経験と来てはこの程度のものです。そんなわけなので、ル・クレジオについて云々するような素養は自分にはないのですが、一つだけ言えるとすれば、この人の小説にはどこか語りかけようとする意思みたいなものを感じるということです。さまざまな問題意識を持っていることは感じられるのですが、問題に対して中立的であろうとするポーズを取るあまり、どこか冷笑的で他人事みたいな物語ばかりが綴られてゆく現代作家にありがちな印象をこの人の作品から受けたことは(自分の狭い範囲の経験では)なかったように思います。そこが時には少々感傷的にも感じられ、そして非常に人間的な態度にも感じられる理由なのだろうなと個人的には思っています。
 ともあれ、受賞を機会に旧作が復刊されることがあるかも知れませんので、なにかまた読んでみようかなという気になっています。幸いなことに、邦訳には恵まれている作家ですし。

(*) こう書いたあとに気になって調べてみたんですが、どうも寺山修司「地平線のパロール」に感化されて読んだようです。15年ぶりぐらいに書棚から引っ張り出して再読してみたんですが、寺山修司の説明してるんだかしてないんだかよく分からないんだけど無闇にこちらの気分を駆り立てる、あの独特の文体にずいぶん感化されたことを少々の含羞とともに思い出しました。ああもう、なんか甘酸っぱい気分になるなあもう。


 なお、まったく個人的なことなのですが、昨年太宰治賞を頂いたあと、一週間ほどして短い小説を書きました。小冊子にして受賞に際してお世話になった友人知人に配ったきりにしていたのですが、中にちょっぴりル・クレジオの作品をリスペクトする箇所がありましたので、これを機会にネットでお披露目しようかと思います。
 ご興味おありの方は、こちらからどうぞ。「未発表作品『Cape Cod』をこちらで公開します」のリンクからpdfファイルがダウンロードできます。


 追記。ル・クレジオがある時期からメキシコの荒野を何度も訪れるようになったという趣旨の記述をどこかで読んだ記憶があるんですが、どうも引用元が思い出せません。真木悠介「気流の鳴る音」かなと思ったけど違うようです。今福龍太の本だったかな……。なんか気になるので、ご存知の方がいらっしゃいましたらご教示下さいませ。


愛する大地―テラ・アマータ (1969年)愛する大地―テラ・アマータ (1969年)
(1969)
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海を見たことがなかった少年―モンドほか少年たちの物語 (集英社文庫)海を見たことがなかった少年―モンドほか少年たちの物語 (集英社文庫)
(1995/06)
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偶然―帆船アザールの冒険偶然―帆船アザールの冒険
(2002/03)
J.M.G. ル・クレジオ

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ファンファーレ・チォカリーア Fanfare Ciocarliaが来日しますよー!
イヤサカーーーーーーーーーーー!


 ファンファーレ・チォカリーアのことを知ったのは、今からかれこれ10年ぐらい前のことです。
 クストリッツァ監督の「黒猫・白猫」に感化されたか、渋谷HMVの棚でジャケ買いしたか、なにかラジオを聴いたか、今となってはきっかけをよく覚えていないんですが。まあともかく当時出たばかりのアルバム"Baro Biao"には度肝を抜かれました。ボロ車から顔を出してトランペットを吹いている、超濃い口な面構えのオッサンたち。もうジャケットからすでにガツンとやられるオーラが出ています。そしてCDを再生すると始まる重低音の(!)ファンファーレ、「ツィガーニィーーーーーー!」のシャウト。
 もう、すべてが驚きでした。まるで聞いたことのない種類の音楽なのに、なんなんだろうこの説得力は。「勢いさえあれば洗練なんか要らない(*)」と言わんばかりの疾走感。打楽器だけではなく、メロディからもベースラインからも立ち上がるリズム。なんの説明もされない、いかなる宣伝文句もくっつけられない音楽が、ここまで面白いと思うことはまれでした。当時住んでいた茨城県の南部というのがまたイイ感じの田舎町で、ちょっと郊外に出れば利根川沿いに天の果てまで伸びるかと思われる(たぶん北海道以外で地平線が見える国内唯一の地点ではないでしょうか)道路を走りながらファンファーレ・チォカリーアを聞くのは、当時けっこう忙しい研修医生活を送っていた自分の、まぎれもない至福のひとときでありました。
 なお、当時のことを書いた詩をこちらにあげておきましたよ。

(*)もちろん彼らの音楽を野卑でピュアなものと言うつもりは毛頭なく(これは日本人が非先進国の文化を受容するときに使いたがる形容なので注意が必要ですね)、むしろアルバム毎にその音楽をぐんぐん変容させていることに驚きます。


 その後ファンファーレ・チォカリーアは「炎のジプシーブラス」という映画に出演し、「ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習」の音楽を担当し(しかしこのチョイスは最高)、日本での知名度もずいぶん上がってきたのではないかと思います。最近では「ジプシー・キャラバン」という映画にも出ていましたね。これは素晴らしいドキュメンタリーでしたよ。
 これらの映画の中で印象的だったのは「炎のジプシーブラス」中、新しい曲を作るときのシーンです。当然のごとく、彼らは楽譜を使わないんですよね。トランペットの人がタララッタータタララッタ、てな感じになにかフレーズを吹く。するともう一人が「いやこっちがいいんじゃないの」みたいなことを言ってフレーズを変形させる。このやりとりが続くうちに、曲が出来上がってゆくわけです。
 なにが嬉しかったかって、これとそっくりな情景を新彊ウイグル自治区のカシュガルという町で見ているんですよね。あちらはウイグルの民族楽器、太鼓の練習中のようでしたが。じいちゃんが太鼓を叩く、するとかたわらの若いのが叩く。いやそうじゃねえだろとかじいちゃんが言って若衆の頭をどつく、若いのがまた叩き直して、次第にリズムが練り上げられていく。なんか、どっちも、音楽の原初みたいなものに立ち会っている気分でした。とりわけアマチュアで音楽をやっている人は、あの映画は是非みてみるといいですよ。いわゆるクラシック音楽のような、厳密なメソドロジーで出来上がっている音楽ももちろん好きなのですが、その枠の外にもまだずいぶん音楽の海は広がっているように思うからです。


 なおこのファンファーレ・チォカリーア、お気づきの方はいらっしゃるかと思いますが、拙作「チューバはうたう mit Tuba」に出てくるMuzicanti Auriiのモデルになったバンド(の一つ)であります。もちろんそのままではないのですが、ファンファーレ・チォカリーアがなければ絶対に生み出せなかったキャラクターであることは間違いありません。あんまり作品のネタばらしは好きじゃないんだけど、これはもう太宰治賞受賞時に書いちゃったことだから構わないですね。見る人が見ればすぐ分かるし(笑)。
 ただ、あの作品中では「バルカン半島」とだけ書いて彼らの住む場所を特定していないのですが、これはどこか特定の国に限らずヨーロッパのあちこちに広く住みなし、多種多様な音楽を作り上げているジプシー・ミュージシャンへの敬意のつもりでそう書いたわけです。でもまあ、まず間違いなく最大のリスペクトを捧げたいファンファーレ・チォカリーアにちなみ、バンド名をルーマニア語でつけてみました。(この作業は結構苦労して、身辺に当然ルーマニア語話者などいるはずもないので手持ちのルーマニア語の文法書をにらみつつなんとか訳したのですが。間違いなどありましたら、どうぞご指摘くださいませ。)


 初めてファンファーレ・チォカリーアの実演に接したのは前々回の来日時(2004年)、すみだトリフォニーと渋谷VUENOSの両公演です。あれも素晴らしかったなあ。とりわけ印象深かったのはすみだトリフォニーでのことで、正直なところクラシックのコンサート向けに作られたこのホールでは少々残響が多すぎ、ファンファーレ・チォカリーアでは響きすぎる印象があったんですよね。
 ところが公演が終了してロビーに出たあと、なんと団員のおっちゃんたちもぞろぞろ出てきてアンコールをやったわけです。これが、すごかった。全然音の響きかたが違うんですよ。ああやっぱりモルダヴィア平原の空の下でラッパを吹いていた人たちはすごいな、と思いましたね。考えてみれば残響ゼロの屋外ですから。しかもわざわざ演奏を聴きに来たわけじゃない、パーティーやら結婚式やらの会場で吹いていた人たちです。そこに、彼らのルーツである放浪芸の一端が垣間見られた気がして、柄にもなくひどく感動してしまいました。当然聴衆もえらい感動して盛り上がって、警備員の人が制止するのに苦労していましたが、チォカリーアのおっちゃんたちはすかさずおひねりなどを集めておりましたw。このあたりの経験も、あの小説に生きているんでしょうね。


 というわけで、今週土曜日、10/11、三鷹で久しぶりにチォカリーアのビートに酔いしれてまいります。ああどうしよう、拙作をプレゼントしてしまおうかしら。日本語で書かれた小説なんて、もらっても困るでしょうが。



 ファンファーレ・チォカリーアのCDもご紹介。未聴の方にはまずこちらをおススメ。2枚目のアルバムです。

Baro Biao: World Wide WeddingBaro Biao: World Wide Wedding
(2000/02/15)
Fanfare Ciocarlia

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 これが記念すべき初アルバム。

ラジオ・パシュカニラジオ・パシュカニ
(2005/09/14)
ファンファーレ・チォカリーア

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 ぐぐっと洗練の度合いが強まる3枚目、4枚目のアルバムもお勧めですよ。

Iag BariIag Bari
(2001/10/09)
Fanfare Ciocarlia

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Gili GarabdiGili Garabdi
(2005/04/04)
Fanfare Ciocarlia

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どうせ効きもしないクーラーを止めてしまい
窓をいっぱいに開けると
熱い風がとたんに吹き込んでくる
時に仔虫や土埃をまじえ
車の中が夏に満ちる
地の果てまで続く田んぼに
まっすぐの道がのびる
イバラキ県はツクバ郡の片隅を車は走り
カーステレオからは
ヒバリたちの囀りが響きわたる
かわいらしさともあどけなさとも縁のない
どことなくふてぶてしく臆面なく
この地上でいちばんの力に満ちたヒバリたちの歌だ
道は続き車はうなりをあげ
ヒバリたちは歌い続ける
そうだヒバリたちよ歌ってくれ
ドナウのほとりの沃野から舞い上がり
かるがると成層圏をこえユーラシアを渡り
極東の島ぐにに舞い降りてくれ
クラリネットよ舞え
トランペットよ叫べ
サキソフォンよ身を震わせろ
テューバよ大地を揺るがせよ
ここはイバラキ県ツクバ郡の
田んぼのさなかを果てしなくつづく一本道だ
ただ暑いばかりの夏風をものともせず
おまえたちの歌はかるがると大気の中を舞うだろう
俺はもう少しアクセルをふかそう
十年落ちのオンボロ車に鞭をあてよう
だからヒバリたちよ
歌ってくれ
はてしなく暑くどこまでも長い
夏のさなかの一本道を
それでも車を走らせる俺のかたわらに
きらきらとまぶされる光りのような
かけがえのないいろどりとなってくれ



-------- ☆ --------


研修医のころ、イバラキ県の片田舎の病院に勤務していました。
まあ休日になるとやることがないので車でフラフラ徘徊したりしたんですが、
その当時にFanfare Ciocarliaというバンドを知りました。
ルーマニアの、ジプシー・ブラスのバンドです。
そのへんの経緯はこちらのエントリーをご覧いただくとして、
まあおそらく北海道を覗けばいちばん日本でだだっ広い風景が楽しめるイバラキ県の水郷地帯を、
Fanfare CiocarliaをBGMにオンボロ車ですっ飛ばしていたあの夏は
自分の人生の中でも最上の記憶の一つだったと今になっても思います。
そのFanfare Ciocarliaがこのたび来日するということなので、その記念に当時の詩を再掲。
 学会に行って来ました。
 なんか学会というとあまりイメージが湧かないかも知れませんが、まあ同種の研究をなさっている研究者の方々が一堂に会して研究発表をする会であります。まあ大まかなイメージとしては、スライドにレーザーポインターを駆使して発表している最中からざわざわとざわめきが起きて終わった瞬間にスタンディングオベーション、満面の笑みを浮かべた議長から固い握手を求められる……といったようなメリケン謹製の映画のようなことは普通はまずありえなくて、まあたいていは粛々と発表と質疑応答が続いてゆくきわめて穏やかな空間であります。マーたまに質疑応答で揉めて、ウキウキハラハラするような展開になることもあるんですが。
 というわけで、セガワも地味に発表して参りました。これで一仕事終了であります。


 で、こっからが本題なんですが、帰り道に久々に本屋に寄っていろいろ買ってきました。ちょっと現代美術の現場について資料が欲しかったんで新書を買ったんですが、……これがなんというかその。大まかに想像していた以上に、現代美術の世界というのは魑魅魍魎跋扈する場であるという思いを強くしましたよ。それに、セガワはもちろん美術について正当な教育を受けたこともない単なる一ディレッタントに過ぎないんですが、それでも、この本の内容についてはいろいろと思うところがありましたね。
 現代美術の現場というのは、予想通り、非常に生々しいものでした。才能のある作家を求めて関係者が動き回る、アートフェアやオークションハウスで次々に作品に値段が付いてゆく。実際にそういった現場に深く容喙している著者は、そういった構図を実に明快に解説してゆきます。それはあくまでも苛烈な市場原理の作用する場です。そのことの善し悪しを今さら云々することは、ほとんど無意味なんでしょうね。余剰な資産をどんなふうに活用しようが、それは余人のあずかり知るところではありませんし、国債を買おうが株券に変えようが土地建物やヨットに変えようが、それはもちろん自由です。その中には名の知れた作家の油彩やオブジェを購入するという選択肢もあるのでしょうし、あるいは名の囁かれはじめた作家のドローイングに投資してみるという賭に出てみることもありなのでしょう。しかし、まあ、それでもこういう「現実」を懇切丁寧に解説されるというのは、想像以上に精神的な余裕が必要なことのようで、正直なところ読んでいてセガワはすっかりくたびれ果てました。
 もちろん、中世以降芸術とパトロンもしくはパトロネスの関係は切っても切れないものですし、それが一種の貴族趣味からだぶついたお金を手にした一般市民のラインにまで引き下ろされたのだとすればそれはまことに結構なことなのでしょう。アメリカ人ならば満面の笑みを浮かべて「民主的」「市場原理」といった形容をしそうな気がします。
 しかし、本書の全編を通じて、とりわけ後段にいたって著書が繰り返し述べる「日本人とアートとの距離感」がこの問題とどう関わるのか、どうもセガワには気になるところです。こういう苛烈な、はっきり言ってしまえばマネーゲームの場に身を投じることで現代美術への貢献をしているという考え方が成り立つのならば、少なくともセガワはそこからは何歩も引いたところにいて、そっと古今の名画を眺めていれば充分だという気分になります。例えばセガワはフリーダ・カーロの絵が大好きですが、それを所有して自宅の居間にでも飾っておきたいという気分にはあまりなれませんし、ジョアン・ミロの鳥のオブジェは死ぬまでにもう一度バルセロナに行って、カタロニアの空の下で対峙すればそれで充分だと思っています。
 もちろんこういうしみったれた小市民的感覚の持ち主ばかりとなれば回らないのが現代美術の世界というもののようですので、この考え方はあんまり敷衍しない方がいいのでしょう。しかし、どうも著者の考え方と一つだけ埋めがたい齟齬を感じているのは現代美術の受容のされた方という点で、それだけはびた一文現代美術には投じるつもりのない吝嗇家であっても考えをまとめておきたいところです。
 どうも著者は、現代美術が難解であるがゆえに(とりわけ日本では)受容されないという考えを持っているようです。特に第3章以降、そのことを根拠に話を進めているようなのですが、そこがちょっとセガワの考えと違うところで、これは私見ですが、現代美術というのはむしろ過剰にわかりやすすぎるのではないかとセガワは思っています。殊にコンテンポラリー・アートやコンセプチュアル・アートといわれる作品群にはそれが著明で、「作者の言わんとすること」が余りにもあけすけなのだから時にとまどいを覚えるほどです。
 このジャンルについてのセガワの見聞は非常に狭いものですから、どのていど一般化できることなのかは自信がありませんし、個別の作品を挙げて云々する資格などはないのですが、一つだけ例を挙げますと、ついこのあいだ行って来た森美術館のアネット・メサジェという人の個展ですが、そこで見た作品群からは実に明快な意図を感じ取ることができました。ぬいぐるみをつぎはぎして作られた人体の一部(内臓を含む)、ゴミ袋で作られた人体の一部、滑車でつり下げられて回るオブジェ、どこを取ってみても明瞭なグロテスクさに貫かれていて、その源流はキッチンと子供部屋にあるのだろうなと容易に想像させることに成功していました。このことと、作者が女性であること、そして時に執拗に繰り返される身体モチーフ(写真を含む、外性器を含む)を考え合わせれば、作者の意図したいものはほとんど数個のキーワードに収束させられるのではないかと思われます。不安な気分をかきたてられはするのですが、それはむしろある種のあけすけさから目を反らしたいという感情に近いものではないかとセガワは想像しました。これは以前実物を目にして驚愕した、草間弥生の作品とは正反対の印象で、あちらはどれほど凝視しても全体像を把握したという気分にならない、まるで段階の違う不安をかきたてられる作品でした。
 思うに、現代美術の難解さというのは、作品じたいの指し示すものを解き明かそうとするときに生じるパズルの解法探しめいた作業とはまるで違っていて、その創作行為の全貌がどのていど複雑なものをはらむかに依るような気がします。すれっからしの現代人が今さらなにか新規な技術を喜ぶこと、倫理的義憤に駆られたり異化効果に驚いたりすることは、残念ながらないであろうからです。例えばアルベルト・ジャコメッティの描く「矢内原の肖像」、幸運にも一度現物を見たことがあるのですが、これは実に難解な作品だとセガワには思われました。しかもこれが繰り返し繰り返し何度となく描かれた肖像の一枚であると知ったとき、この日本人男性の肖像がどういう作品であるのかまるで想像が付かなくなったことを覚えています。これは例えば、ジャンミシェル・バスキアがニューヨークのあちこちにタイポグラフィを量産していたこととはまるで次元の違った難解さで、前者が結局は人間の肖像画であるから「わかりやすく」、後者が抽象的なドローイングであるから「難解」であるという構図は、ここでは明らかに破綻しているのではないかと思います。
 その意味で、著者の「現代美術は難解であるから受容されない」という問題提起は、杞憂ではないかとセガワは思います。おそらくはクロウト筋が心配するほど、モダンアートというのは難解ではないでしょう。むしろ、そのやけに明瞭なあけすけさを自分の手元に置いておきたい、時にそっと眺めては自分の人生の彩りにしたいと人間たちが考えるかどうかの問題だと思われます。残念なことにセガワは、そのような作者の決意表明を愛玩する感情には乏しいようです。むしろ、ある種の謎や理不尽な感情が塗り込められている作品の方が好きなようですので、若いころのパウル・クレーが反古紙の裏に描いていた神経症的な、とっても下手くそな、ある種の憤りに満ちたドローイングの一枚でも所有できればそれに勝る幸福はないと思っています。なにかの間違いで大金持ちにでもなったら、期待することにしましょう。近世の日本画にアニメキャラクターをコラボレートして率直な異化効果を期待するような作品などを物色して、現代美術に貢献するよりも。


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吉井仁実

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Author:segawashin
2007年、「mit Tuba」で
第23回太宰治賞受賞。
ホームページはこちら。
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ツイッターはこちら。
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