セガワブログ

小説家、瀬川深のブログ。

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いつのまにやら母は
耕す人になっていた
産む人であり育てる人だと思っていたが
月がめぐり水がながれ
干支がひとまわりもすれば
家の前の一反にもならない土地は
いつしか苗床となって
実りへと身を大きく伸ばしつつあるようだ
思えば赤ん坊は海の中で生まれ
這って陸に上がり
肌の上の塩水(えんすい)を拭われてからは
間近く海に臨みつつも
土の上に両足をつけて育ち
土の中に殖えるものを喰らい
土の下に眠るのだから
母もまたその作法に倣ったものらしい
このせつなにもまた
赤ん坊は水の中で産声を上げ
月夜の浜へと這い上がってくる
だから耕しておかねばなるまい
波間に母がいるのならば
石ころのあいだ畝のあいだにも母がいる




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母親の誕生日に詩を贈りました。
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 長編小説のゲラが出来上がりまして、受け取りがてら編集さんと打ち合わせをして参りました。もちろんこれからもう一仕事待ちかまえてはいるのですが、長々と書き連ねてきた文章が形になったのを見るのは感無量です。
 というわけで、というかこれを口実に、帰り際にスーパーに寄って酒と肴を物色して参りました。普段は滅多に晩酌しないんですが、まあ、前祝いと言うことで。編集のYさんがこの文章を目にしていないことを祈ります。


 さてなにを飲もうかなと考えて、『膳』の瓶に決めました。普段酒を飲むときに好むのは圧倒的にビールでして、飲み会の最初から最後までビールで押し切ることもあるほどです。そうでなければホッピー。そうでないとなると、セガワの好みは穀物の蒸留酒に偏るようです。日本酒よりは焼酎、ワインよりはウイスキーかラム。分けてもウイスキーは大好物です。濃くて、熱くて、深くて。聞くところによれば年々日本人のウイスキー離れは進んでいるようですが、まことに嘆かわしいことです。こんなに旨いのに。
 一昔前の漫画を読みますと、ウイスキー、分けてもジョニ黒あたりが宝石のように崇められていて、『花の係長』や『サザエさん』などを読むとなんともほほえましい気分になります。それが今ではそこいらの量販店で5000円を切るというのに、ウイスキー離れとは。嘆かわしい、まったくッ。
 ちなみに本日の肴は、刺身、生牡蠣、ボルシチというなんだかまとまりのない取り合わせだったのですが(ええほらタイムセールとかそういう関係で)、生ものとウイスキーの相性の良さには驚かされましたね。ことに生牡蠣、三陸は気仙沼産、今がまさに時の盛り、たっぷりと漲る肝臓を噛みつぶして舌の上に広がる濃厚なアミノ酸の味をいったんウイスキーが焼き払い、そののちに麦の芳香がのどの奥から鼻の上へと立ち上がって来るという塩梅です。いや、すばらしい。気取ってワインなんぞ飲むよりもよっぽど旨いですよ。ジンよりも香り深い、コニャックよりも慎ましい。まことにウイスキー、痛快な酒であります。
 確かに酒としては少々主張が強すぎて、食事のお供にするには不向きなのかも知れませんが、メシを食うために酒を飲むんじゃなくて酒を飲むために酒を飲むわけですからね。このへんまでおフランスの作法に倣う必要もないでしょう。
 さて、ウイスキーを余り嗜まれない方には是非ともお勧めしたいところですが、飲み方としてはロックかソーダ割りでいかがでしょうか。ウイスキーが苦手な方にはこのソーダ割り、つまりはハイボールはお勧めです。学生時代にバイトしていた先の女社長に飲みに連れて行って頂いた際、ハイボールを頼むとあらあら若い飲み方ねェと失笑されて身のすくむ思いをしたことがあるのですが、今でもハイボールは大好きですよ。軽くて、胃袋から脳天にすっと炭酸が立ち上って、なんとも幸福な気分になれます。
 それでもやはりウイスキーの味を楽しむならば、そのまんまストレートでお飲み下さればと思います。少々キツイとお思いならば、水で割るよりは、チェイサーをお供に。食道から胃壁までを瞬時に火が走り抜ける感覚、鼻に立ち上る色濃いにおい、唯一無二であって、ウイスキーでしか味わえない悪徳です。頭蓋の後ろにかかる霧、耳から遅れて届く音の反響、鈍くなりゆく肌の感覚、腹の底に熾きる焔。酔いという名の混沌を恐れてはいけないでしょうね。毎夜のならいとすべきことではないでしょうが、ときおりそっと手招きしてもいい。これを完全に生活から追い出してしまうのは、どこかやせ細った貧しいものを想像してしまいます。しかるのち、一眠りして、反省がやってくるのですが。
 飲みましょう、ウイスキー。薬くさいとか、キツイとか、強いとか、そんなけちくさいことを言わず。濃い酒とは、単純と複雑が同居した恐るべきシロモノですよ。


 嬉しいことには、最近は国産ウイスキーにもたいそう美味しいレーベルがあります。セガワは『膳』か『北杜』あたりを好みます。なんぞのお祝い事があれば『山崎』に手を出してみたりもします。太宰治賞受賞の報せを聞いた夜、一人きり祝った『山崎』の味は格別でした。


 すでにウイスキーが三杯ほど進んだのちの文章なので、まとまりに欠ける点、修辞が過剰な点、平にご容赦。酩酊から解放されて含羞が戻ってきたならば、消してしまうかも知れません。
 BGMは平安隆&ボブ・ブロッズマン、「キーブルダッチャー・ミュージック」、豊かな歓喜に満ちた三線とギターの音楽で。



キーブルダッチャー・ミュージックキーブルダッチャー・ミュージック
(2000/09/20)
平安隆&ボブ・ブロッズマン平安隆

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長編の校正終了しました。
同時進行でやってた短篇の直しも終わり、ちょっと気が抜けたというかホッとしたというか。
優雅にネットサーフなどをしていると、久しぶりに遠くに行きたい熱が頭をもたげてきます。
最近旅行熱もとんと下火になってたんだけどなあ。
アー遠くに行きたいなあ。
まあその浮世のしがらみとやらでそうそう遠出もできないんですが、
とりあえず行きたいところを列挙して気持ちを慰めてみます。


・マレーシア:サバ州の州営鉄道
なんとマレーシアにはボルネオ島にも鉄道があった!
なんで教えてくれないのよバカバカ!
日本でも有名な観光地、コタキナバルから海沿いに南下して山の中に入っていく小さな列車。
ウワァいいなあ。のんびり乗ってみたいなあ。

・ロシア、ウクライナ:アゾフ海沿岸
直しが終わった小説がこのへんを舞台にしてるからなんだけど、一度行ってみたいなあ。
ロストフ・ナ・ドヌとかクラスノダールとかケルチとか、町の名前を見るだけでゾクゾクする。
特にケルチ海峡からクリミア半島東岸の当たり、地形がものすごいことになってて興味あり。
これ、どんな風景なんだろう。


大きな地図で見る

・ロシア:カルムイキア共和国
「ヨーロッパ唯一の仏教国」との触れ込みの小さな共和国。
カルムイク人はモンゴル系らしいんだけど、さすがは騎馬民族、
延々と西にやってきてドン川を超えて帰れなくなっちゃったから定住したというルーツがイカス。
たしかレーニンもカルムイク人の血を引いているそうですよ。
そう考えるとロシア革命はタタールのくびきがふたたび!だったのか?

・モルドヴァ共和国、沿ドニエストル共和国
分離独立で揉めている地域ではあるらしいんだけど、実際はあんがいのんびりしているらしい。
ルーマニア好きなのでこっちも行ってみたいな。

・ルーマニア:ドナウ・デルタ
ドナウ川が黒海に流れ込むあたりの地形も大概凄いことになってます。
やっぱり日本は海岸線を埋め立てすぎだな、汽水域が少なすぎる。
中心都市のトゥルチャ(と言っても人口十万人足らず)あたりに宿を取って、
のんびり船旅がしてみたい。船でなければ行けない町もあるらしくてそそられる。

・アルバニア:南部
南部はまた北部とずいぶん雰囲気が違うらしい。
ギロカストラとか行ってみたいなあ。できればそのままギリシャに越境。

……と、いまアルバニアの地方自治体を調べていたら「グラムシ県」というのを発見。
む、これ、アントニオ・グラムシにちなんでるのかしら。スペルも似てるし。

・イタリア:南部
あの長靴のつま先とかかかとか土踏まずのあたり、
ミラノやフィレンツェに夢中の観光客ならばまず行かないあたり。
カンタブリアとかマジで憧れる。
ギリシャ人やアルバニア人のコミュニティがあるっていうのは本当なのかしら。

・パラグアイ共和国
意外に多い日系人、世界第四位の大豆生産国、
どうもこの小さな国に対する興味が最近強くて困ります。
いえまあ実際行ってみたら本当になにもなさそうなんですが。
ついでにウルグアイにも行ってみたい。こっちはもうちょっと見るものがありそう。
とりあえずモンテビデオでタンゴが見たい。

・日本:離島
離島はなぜか西日本に圧倒的に多い。東国在の身としては少々生きづらいところが多いなあ。
出島(宮城)とか、西ノ島(島根)とか、周防灘の島々(山口)とか、姫島(大分)とか、トカラ列島(鹿児島)とか、鳩間島(沖縄)とか。


実際行くのはいろいろ難しいんだけど、
こういうのは執念深く願っているとあんがい叶ったり叶わなかったりするので
希望は捨てずにおこうと思います。
 テオ・アンゲロプロス監督の映画「旅芸人の記録」を観てきた。
 公開当時、「ユリシーズの瞳」を見て以来、観たい、観たいと思い続けてきた作品。13年目にしてようやく願いが叶う。僥倖だ。
 手元になんの資料もなく、一度観ただけの記憶を頼りに書く文章なので人名やシチュエーションに多少思い違いがあるかもしれませんが、その点はご容赦。


 つくづく自分は現代ギリシャのことを知らないと痛感する。古代ギリシャの文明、アテネやスパルタの都市国家、ギリシャ神話やホメロスの叙事詩といった歴史のかなたの出来事から大きく跳躍して、近現代に到ってみれば、近代オリンピック発祥の地、海運王オナシス、その男ゾルバ、クセナキスやテオドラキスの音楽、そういったことを断片的に知ってはいても、ギリシャがどのような歴史をたどって現代に到ったのかということは、ほとんど知識がない。
 しかしこのフィルムは、ギリシャの現代史を太い支柱にして進行する。いちいち教科書めいた説明はされないが、主役に据えられた旅芸人の一座の背景に、過酷なギリシャの近現代が見え隠れする。トルコとの戦争、イタリアの侵攻、ナチスの侵攻、レジスタンス、イギリスの占領、アメリカの占領、コミュニストと王党派の対立。観ながら、そのいちいちに驚く。その都度の流血。ヨーロッパと括られる国々の中でも、この現代史の苛烈さはなかなか類例がないかも知れない。そのことをこのフィルムは、無知な極東の人間にも教えてくれる。


 しばしば難解と言われがちなアンゲロプロスの作品だが、必ずしもそういう印象は受けなかった。シンボリックな事象は繰り返し出てくるし、劇中で三回、登場人物が前後の状況を語ってくれる。ただし、物語の語られ方が通常の映画とはずいぶん異なるので、ちょっと特殊な忍耐と集中を必要とするだろうけど。
 作中の人物は、ほとんど語らない。多くの場合、感情の表出も最小限に抑えられる。見え透いた笑みを漏らさず、押しつけがましい涙を浮かべない(例えば登場人物がはっきり意図的に笑ったと気付いたのは、捕らえられてゆくレジスタンスのオレステスが突然浮かべた満面の笑み、その一箇所だけだった。はっきり慟哭が聞かれたのは、エレクトラがオレステスの骸に対面した一瞬だけだった)。
 その代わり、人物は実によく歌う。歌がその人間の立ち位置や思想、内面を暗示する。歌詞を伴わない音楽もまた、その場の状況を雄弁に語る。エレクトラがレジスタンスの一行と再会したときにほんの一節口笛で吹かれるインターナショナルなど、その好例だった。また、しばしば音楽は唐突に中断され、強烈な逆説的な効果をもたらす。このフィルムでは、明るい音楽がしばしば悲劇と隣り合う。雪模様の山村で、客寄せのために歌い踊る旅芸人の一行を突然沈黙させたのは、ナチスに処刑されたレジスタンスの遺骸である。ダンスホールで王党派とコミュニストたちは歌合戦をするが、優勢なコミュニストたちの歌声は一発の銃弾で中断される。いかにもギリシャ風の、変拍子の陽気な音楽に導かれてきたのは、軍人たち?の掲げるレジスタンスの生首である。この複雑なアイロニーに満ちた音楽の使われかたが、この映画のなによりも雄弁な語り手になっている。たとえばイギリス人と内通し、アメリカ人と結婚した旅芸人の一人の女が海辺で結婚式を挙げるとき、老婆の歌うギリシャの民謡は軽薄なダンスミュージックにかき消され、そこに女の息子が無言でテーブルクロスを薙ぎ払って抗議する。ここにはほとんど一つの言葉も語られないのだが、ギリシャの1946年頃?の状況が鮮やかに暗示されている。
 また、他のアンゲロプロス作品でも経験したことだが、この作品でも群衆というものが一つの語り手になっている。多くの場合、群衆は一人一人の顔が見えてこない。ただし、衆愚という印象は受けない。彼らはおそらく、一人一人がはっきりした意思の下に群れなして動き、叫び、歌う。それゆえ、群衆同士は時に強烈な衝突や対立を生む。これは、一群れではあるけれど一人一人の人格がはっきり見えている旅芸人の一座としばしば対比される。文字通り彼らは群衆に翻弄される。レジスタンスと警察の銃撃戦の中、闇夜の街を逃げまどう彼らの姿に暗示されるように。


 これらがギリシャの現代史を骨組みとした大きなものがたりであるならば、旅芸人の一座の中にもまた小さなものがたりがある。中でも、母の姦通と間男の裏切り、逃げる息子と復讐する娘といったエピソードは、まるでギリシャ悲劇のようなものがたりである。平たく言えば欲望に駆られた人間たちの矮小な小競り合いなのだが、それがギリシャの現代史や芸人一座の演じる作中劇と重ね合わせられれば、その行動にはどこか神話的な象徴性が感じられる。秘密警察に強姦されるエレクトラや、一本のワインをダシに女に服を脱がせてマスターベーションに耽る男、目を背けたくなるぐらいに醜悪なエピソードも含めて。
 ただし率直に言って、こちらは少々流れを追うのに苦労した。これは、作中人物の名前がほとんど語られない、暗いシーンが多くて人物の判別がしづらい、ナレーションが存在しないなどといった極端に禁欲的な映画の作りのせいだと思うんだけれど。


 率直に言って、四時間に渡るこの極度に禁欲的なフィルムに集中するのは結構な忍耐が要った。とてもじゃないが、軽い気晴らしとして観るような映画ではない。しかしながら、これは、大いに報われる努力だった。途方もない作品に向き合うときに、当然払ってしかるべき努力だった。
 こういう映画を見ると、いかに自分が現代の映画作法に慣らされているかを痛感する。わかりやすく、説明が行き届き、人物の内面を描写するために過剰な感情の露出や派手な身体運動さえもいとわない映像。そういう映画は確かに「わかりやすい」のだが、では、自分が何を「わかった」のかと考え直すと、妙に心許なくなる。監督やシナリオライターの誘導するストーリーをそのまま自分の記憶に移し替えることは、本当に何かを「わかった」ことになるのだろうか?アンゲロプロスの極度にストイックな映像に浸りながら旅芸人の一座の歴史を辿るとき、そんなことが考えられて仕方なかった。
 そして、こういう力のこもった方法で近現代を描こうとした作者を、自分は強く尊敬する。例えばこのような方法で、日本の近現代史は、果たして回顧されただろうか?
 そしてこれは物書きのハシクレとして強く感じたことだけど、若いうちに、体力のあるうちに、こういう大きなものがたりを書く努力を払うべきだと思った。ある種の無謀さや不敵さを押し通すことの出来る、体力のあるうちに。


 テオ・アンゲロプロス監督作品、「旅芸人の記録」。1975年公開。
 このときアンゲロプロス、40歳。






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 早稲田松竹にて観劇。こういう試みには強く感謝したい。1/9まで。
2009年

segawashin

Author:segawashin
2007年、「mit Tuba」で
第23回太宰治賞受賞。
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