セガワブログ

小説家、瀬川深のブログ。

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 井上ひさしさんの訃報を知りました。ああああァ、残念だなぁ、というのが率直な感想です。これは型どおりの言葉ではなくて、なによりも井上さんがなお旺盛な執筆を続けていた「現役の」作家だったkとを考えれば、つくづく、惜しまれる。まだなお書いてくれるだろう、なにか新しいものを作ってくれるのだろうという期待が井上さんの筆にはありました。
 不躾を承知で申し上げますと、お年を召して「枯れて」しまう作家が日本にはいささか多いように思うのですが、井上さんについて言えば、享年七十五歳というのはいかにも早い。「まだまだ書いて頂きたかった」をためらいなく申し上げられる、数少ない作家だったでしょう。今となっては、感謝とともに冥福をお祈りするばかりです。


 それにしても、井上ひさしさんの業績というのは凄い。小説と戯曲を両立したというだけでも珍しいと思うんですが、それに加えて脚本から評伝から作詞まで、そしてそれぞれの数が膨大ですからね。質と量を掛け算してみれば、その数値は戦後日本の作家の中でももっとも高い一人に属するんじゃないでしょうか。
 その中で自分が読んだのは、ごくごく一部に過ぎません。なにより、その仕事の要の一つであった戯曲を実際に舞台で見てないのですから、片手落ちもいいところです。
 ただ、井上さんの小説はずいぶん熱心に読んだ時期があって、振り返ってみればそれはまだ十代も半ば、自分が物書きになることを夢想だにしていなかったころのことだったなあと思い出します。大した読書経験もなければ自覚的に文章を読む心情にも乏しかったあのころに読んだものが、井上さんのめっぽう面白い、そしてさまざまな寓意を含んだ小説の一群れであったのは、ひょっとするととても幸運なことだったかも知れません。
 その見聞の範囲で言うならば、井上さんの小説には言葉に対する強いこだわりと、歴史を物語の中に織り込んでゆく視点が存在していたように思います。不見識を承知の上ですが、この両者を備えた作家というのはそれほど多くはないのかも知れない。以前の日記でも書きましたが、海外の小説家に似た例を求めれば、自分はメルヴィルやピンチョンを想起したくなるのですが。
 以下、読んだ記憶の残る小説を記して、ささやかに故人をしのんでみることにします。まったく私的な井上ひさしさんの追悼です。



○四十一番の少年
 表題作、非常な痛みの残る物語で、筆者自身の複雑な少年期を色濃く反映させたものになっています。どこか光クラブ事件の山崎晃嗣を思わせる、知的で偏執的な少年の犯罪と破滅。
 ただしセガワの好みは併録された「明くる朝の蝉」のほうで、これは井上さんの私事を書いた物語の中でのマイベストかもしれません。少年期の悲劇を描く趣向は今でも大いに流行っていますが、それをひどく明るく悲しみに満ちた物語に仕立てた点、なかなか類例がありません。主人公の少年が自らの複雑な境遇を語る言葉は本当に秀逸ですよ。声高に非難するでもなく、自らを慰めるでもなく、その言葉は明晰で、痛ましいと思うほかないです。
「だけど、ほかに行く宛があるとなったら、一秒たりとも我慢できるところじゃないんだ」

○青葉繁れる
 昭和二十年代の杜の都仙台を舞台にした、すばらしい青春小説です。昔から学生はボンクラで、そして無駄に必死だったものらしい。こういう青春像は、いつの時代に置いたって愛おしいですよ。
 ラストは苦いです、ご注意。

○花石物語
 これも筆者の実体験に基づいた物語なのでしょう。時期的には「青葉繁れる」の数年後、ビルトゥングス・ロマンの傑作。鬱屈と自己嫌悪を吃音という現象に託した筆致も見事なんですけれど、それにもまして細部の描写がすばらしい。傑作は細部に魂が宿ると言いますが、井上さんが本気で細部に魂を宿らせると、本当に、すごい。アイスキャンデーを昼食代わりにする女郎かをり、コンドームの再生を副業にする老人、ある時はマドロス・ある時は花石製鉄の熟練工(づくれんこ)と自分を偽り続けながら女郎買いに来る高校教師、主人公の童貞喪失(どうして俺は神様が男と女を作ったのかやっと分かったぞ)、どれをとってもすばらしい。中でもセガワのいちばんのお気に入りは冒頭のイカそうめんの描写です。これはモノ書くことを志す人ならば一見に値しますよ。
 それにしても、二十年ぐらい前に二回読んだきりの本作、記憶にこれだけ残っているのですから自分でも驚きました。いま改めて見ると、カバー絵もいいなぁ。これ、村上豊さんかな。

○月なきみそらの天坊一座
 どうやら二流の腕前のマジシャンとその妻、そしてそこに弟子入りした天才少年の旅回りのものがたり。戦後まもない東北を舞台にした風俗描写は井上さんの真骨頂でしょう。これは確か昭和の末期、NHKがドラマにしていたような。
 ついでながら、文庫版の解説もすばらしかったです(手元にないのでどなたの文章か分からないのですが……)。

○偽原始人
 大変な失礼を承知で書きますが、どうにも根強い井上さんの学歴コンプレックスも突き詰めればこんな壮絶な小説を生んでしまうらしい。教育ママの狂気じみた驀進と、それに必死であらがおうとする少年三人。神経を病んでしまった学校の担任、学歴至上主義の家庭教師、ふがいない父親、カッコつけしのヒッピー親父、人物造形はどれも見事。そこに、井上さん一流のこだわりに満ちた情報の群れが覆い被さり、結末も含めて、痛ましいと言うほかない小説ではあります。
 しかし、これほどにやるせない、行き場のないような題材を用いていても、冷酷な、乾燥した感じを受けないのは本当に井上さんの才能だったんだと思います。これを、ただただ心胆の冷えるだけの作品にするのならば、並の書き手にも可能なことだったんでしょうが。このなにかを慈しむようなまなざしがどこに発していたのか、なにを向いていたのかは、今の自分には手に余る問いかけです。

○國語元年
 これは戯曲です。戯曲を読み慣れていないせいもあって、どうもすっきり筋立てを覚えてはいないのですが、「日本語」「標準語」といった現代の我々が無造作に、いささか粗雑に用いる概念に鋭い突っ込みを入れた作品です。たしか文部省の小役人(だったかな)の主人公が七転八倒したあげくに、狂気とともに奇怪な人工言語の創出に至る結末、秀逸であり、そして言葉というものの深淵を覗き見た気分になります。
 各方言の描写も見事。

○浅草鳥越あずま床
 下町を舞台にした連作短編集。ちょっとダメな中年たちの青春物語といった味わいで、あんがい時代を先取りしていた感があります。主人公たちが若い娘に心惑わされてしまった一編が好き。結末の苦さも含めてすばらしい。

○吉里吉里人
 おそらく井上さんの小説の中でもっとも有名なものでしょう。物心ついていないころのことなんですが、刊行当時はベストセラーになったようですね。率直に言ってこの作品、小説としての出来映えが最上だとは思えないんですが、しかし、その企てと内実はものすごいですよ。ベルリオーズのオラトリオが結構としては破綻していても、どこかを削ってどうなるものでもなく、傑作だとしか言い様がないのに似ていると思いました。
 「國語元年」が日本語というものに突っ込みを入れた作品ならば、本作は日本国というものに突っ込みを入れた作品ですね。国家というもの、東北という土地、近現代の日本史、軍事、医療、経済、あらゆるものに筆を縦横にのばしながら奇妙な国家の成立から崩壊までを描いていきます。これらの事象に井上さんが突きつけた問いかけは、今日なお有効でしょう。「民主主義」と口にしたときに、我らはその意義をどこまで考えているのだろうか。「我らのことを我らが決める」という、近代社会の前提となっている思想を、我らはどこまで実感することができるのだろうか。なぜか刊行当時はSFというくくりで読まれたこともあったようですが、そんな狭い枠組みはいっそ考えず、平成二十二年の今、再読する価値の大いにある小説だと思います。
 細部に魂が宿りすぎて味付けは濃いんですが、セガワは読みながら、ピンチョンやメルヴィル、ガルシア=マルケスなんかをしょっちゅう思い出していました。「世界の丸ごと」を投射し得る日本語の小説という点でも、希有な作品だと考えています。日本語で語り得るマジック・リアリズムとは、ことによってはこういうものなのかも知れません。



 なお、井上さんには、言葉を題材とした深い洞察に満ちたエッセイも多数ものしておられます。ほどよく脳を刺激される、極上のエッセイですよ。


 これを機会に、前から気になっていた「東京セブンローズ」を読んでみようかな。アウトラインを聞くだに面白そうです。

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あわわ、気が付いたら二ヶ月もブログ放置してた。
元々マメなブロガーじゃなかったですけど、これは酷いですね。


先日、某大学の新入生オリエンテーションでお話をして参りました。
教養課程の大切さみたいなことを経験を交えて、みたいなタテマエだったのですが、
結局小説の事だの旅行の事だの映画の事だの、自分の大学時代のことをゴッタ煮にしてお話ししてきましたよ。
で、改めて驚いたんですが、今年の大学一年生ってちょうど自分の年齢の半分なんですよね。
自分が大学に入ったときに生まれた赤んぼが今年大学一年生。
ウワァ。
少々衝撃的であったことを告白しておきます。
まあぼちぼち自分が若いフリするにも無理がある年齢であることは承知しているんですが、
さりとて人生経験を上から語るにはケツが青いようにも思うわけで、
なんとも三十台とは中途半端な年齢です。


で、話した内容の趣旨は、「今のうちにいろいろ無駄なことをやっておくといいですよ」でした。
それが自分の場合は読書とか旅行とか映画とか音楽だったわけですが。
別にこれらの種目に限ったことではないですけど。
いえ、まあ、別に年を食ってからでもできるとは思うんですよ。
体力が落ちるとはいっても余暇に差し支えるほどガタ減りするわけでもないでしょうし、
気力が衰えるとはいっても好きなことには興味が向きますし。
感受性に至っては、年を重ねてもあんまり変質しないんじゃないかと思いますね。
自分の中での善し悪しの判断って、そうそう変化しないですから。
そういったことよりも、実のところ、無駄なことをやるに当たっていちばんの妨げになるのは、
生きることへの慣れなんじゃないかと思います。
経験していない事への類推は上手になりますし、
めんどくさいことや自分のリスクになることの回避も巧みになりますしね。
とりあえずがむしゃらにやっておいて後から反省するという無様さが、
だんだん自分の身の丈に合わなくなってくるわけです。
「まあこれはやらなくてもいいか……」という判断が上手になるんですね。
このこと自体は必要なんだと思うんですよ、三十路超えて四十ヅラ下げても
「フレッシュな私」を演出することの方がおぞましいですから。
ただ、そのことで何かを取りこぼす、何かが自分の中で濾過されなくなるという痛みは絶対にあって、
それが不可避だからこそ、まあ、セガワの半分の年齢のみなさんはこれから
せいぜい無駄なことをたっぷり経験して欲しいなあとそんなことを思いました。


この話をするに当たっていろいろ資料を作ったんですが、
以下に引用するフラグメントはセガワが二十五の時に書いた小説です。
せっかく見つけたのでここで晒しておきます。
まァ文章の出来映えは酷いもんなんですが、二十五の若造が老いることについて
くだくだしく言葉を弄している点だけは珍重すべきかも知れません。



 ぼくの骨はいつしか伸びることを止め、前腕や臀にみっしりと集まっている筋肉はわずかに硬くなったが、それはまだとても衰えを示すほどのものではない。しかし、そのこととはまるで関係なく、最近になってぼくは、なにか物事を行うときに、どのていどそのことをすればよいのかということがわかってきたのだ。できることの一切をやっておいて、それに必要な熱量を後からいくらでも稼ぐというやり方、そんな無様で滑稽でひたむきなやり方からは、ほんの少し遠ざかって、多少なりとも高く見通しのいい道を選ぶことができるようになった。
 そのことを肉体のせいにしたがる手合いは多いものだが、決してそうではない。今のぼくが、かつてのような過剰さから少しずつ離れていっているだけのことなのだ。肉体の老いがやってくるのは、おそらくは、その後のことだ。とてもあのころのような過剰さには耐えられないと考えた時には、実は、とうの昔にそのような無闇な質量からは遠ざかっているのだ。つまり年をとるとは、肉体の静かな劣化をなにかの尺度で置き換えることではなく、自分の内的な変化を、肉体の変質によってそれと感じ取ることなのだ。今のぼくにはまだ老いたという実感はないが、これを書いているこの一瞬にも、ぼくの頭の中ではいくつかの神経細胞が消失し、関節や筋肉を結びつける結合線維が硬さを増していくことは事実なのだ。そして、それと同様に、この十年でいくつもの道を見つけたのと同様に、また明日もなにかひとつ道を見つけるかもしれないということも、また、事実なのである。そして、自分がなにかをするのに必要な熱量と、肉体が提供できる熱量とが、せめぎ合っていると感じるとき、ぼくははじめて、自分は老いたと感じるのだろう。





1994年、雲南

1994年、中華人民共和国雲南省西双版納にて。セガワ20歳。

segawashin

Author:segawashin
2007年、「mit Tuba」で
第23回太宰治賞受賞。
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