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セガワブログ

小説家、瀬川深のブログ。

 初めての一人旅をしたのは13歳の夏だった。1987年のことである。住んでいた宇都宮から盛岡の祖父母宅へ行く際、遠大な遠回りをしたのだった。



 日にちも時刻も覚えてはいないが、八月のことだったと思う。宇都宮駅の売店でなぜか「ビッグコミック」を買ったことを覚えている。なんだかよくわからない背伸びだったのだろうか。「土佐の一本釣り」などが連載していたころだった。
 当時、八甲田という急行が走っていた。上野発青森行きの夜行列車である。出稼ぎや集団就職などと絡めてさまざまに語られた、象徴的な列車である。なにしろ急行券とはせいぜい千円ちょっとなので、「北」に安く行くとなれば、まずはこの列車だった。あのころの長距離列車というのはホコリくさいというか油くさいというか、とにかく独特のにおいがした。確かJNRのマークが入った扇風機が天井で回っていた。減灯した車内で、わりと熟睡できた記憶がある。びびりながらもふてぶてしかった年頃のことである。この後、東北や北海道に行くために「八甲田」には何度か乗ることになったが、そういう未来のことを想像するには少々若すぎる年頃のことである。自分の人生にもささやかな記憶を残した「八甲田」が廃止されてしまうのはこの10年後のことなのだが、それを当時の自分が予期できるはずもない。 
 当時の時刻表は手元にないけれど、仙台駅に着いたのは、夏といえどまだあたりは薄暗い時刻だった。困ったことに、次に乗り継ぐ仙石線の始発までずいぶん時間が空いていた。ホームのベンチにごろ寝してうたた寝していたが、誰かに見とがめられやしないかと気になって仕方なかった。13歳というのは、そういう年頃だ。この22年後、この街のどこかに暮らしている女の子と結婚することになるなど、想像することもなかったころのことだ。



 ようやく動き始めた仙石線に乗る。仙台の市街を抜け、松島湾をかがるように走って石巻に至る列車である。このときに軒先をかすめた家に住んでいる少年と、自分の妹が18年後に結婚することになるのだが、このときの自分がそんなことを考えるはずもない。覚えているのは、前谷地という駅で大船渡線に乗り換えるのにえらく待たされたこと。まだ朝の7時か8時ぐらいで、メシにも時間つぶしにも苦労した。駅の周りをうろついても食堂が一軒、店を開けたばかりといったところ。昭和の末期、コンビニやファーストフードが日本の津々浦々を埋め尽くすにはまだしばらくの間があるころだった。酒屋兼雑貨屋のようなところであんパンと牛乳かなにかを買うのが精いっぱいだったように思う。
 ようやく大船渡線に乗り、大船渡の盛駅を目指す。この大船渡にお住まいの山浦玄嗣先生が土地の言葉を詳細に研究し、ケセン語という一言語として確立し、この14年後に仙台市で開かれた日本小児科学会の山浦先生の講演でその素晴らしい成果を聴いて大いに感激することになるのだが、もちろんこのとき、自分の未来にそんな素敵なことが待ち構えているとは想像もしていなかった。率直に言ってこのときに通り過ぎたはずの志津川、気仙沼、陸前高田といった町のことは、余り強い記憶にない。たくさんの海を見たはずだが、情けないことに、それも記憶にない。盛の駅から陸鉄道南リアス線に乗ることがこの旅のいちばんの目的で、そのことで気もそぞろだったのかも知れない。
 つい3年前の1984年に開業したばかりの、新しい列車である。折しも前年に野岩鉄道や会津鉄道が開通し、第三セクターという言葉がまだ耳新しく、死に体となっていた国鉄に比してどことなく輝かしく感じられた時代である。19世紀末、この土地に甚大な被害をもたらした明治三陸大津波ののちに計画され、そののち開通まで長大な時間がかかり、100年の悲願とまで言われていた線路だが、当時の自分がそのへんの経緯を十分に理解していたわけではない。海沿いを走りはするが、期待するほど海が見えないのがちょっと残念だったことを覚えている。
 途中、釜石で国鉄山田線に乗り換えたのだか、直通列車があったのだか、よく覚えていない。確かなのは、どこかの駅でちょっと奮発してアワビとウニの入った駅弁を買ったことで、ときおり車窓に現れ出る海を心待ちにしながら弁当を食った。思い出の中はいつも晴天らしいやと言ったのは確か永井荷風だけれど、記憶に残る三陸の海は、崖と崖とに狭められてやけに狭くて、やたらに青くて、そしておそろしく天気がよかった。本当にこのときの記憶であったかどうか訝しみたくなるほど美しいのだが、この一帯を訪れたのは今に至るまで、この一度きりである。



 宮古からは、北リアス線に乗り換えられる。せっかくだからこっちにも乗ってみたいなぁと思ったことを覚えているが、自分が目指すのは盛岡だった。宿願叶って久慈から宮古まで北リアス線に乗るには、さらに15年待たなければならなかった。宮古から盛岡までの車中、だんだん辺りは暗くなってきた。今思い出すに凄まじい路線だった。この鈍行列車が三時間をかけて走る盛岡までの百キロメートルには、事実上、一カ所も平地がない。日本がいかに山国といえども山がここまでひとつらなりの塊となって迫ってくる一帯は本当に稀であって、このことはこの15年後、岩泉線を乗車して岩泉まで行き、盛岡までの長距離バスに乗って改めて認識することになる。
 盛岡についたときは、もうすっかり日が暮れていた。祖父母がまだ元気なころだった、酔狂な旅をした孫を歓迎してくれた。



 今になって、24年前の夏の一日のことを思い出す。初めての一人旅をした土地であって、その記憶が美しかったがゆえに、僕はあの土地に限りない愛着を覚えます。
 僕は、三陸の復興を、心よりお祈りいたします。微力なれど、できる限りの助力をしますので。





ケセン語の世界ケセン語の世界
(2007/01/19)
山浦 玄嗣

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 3/11から一ヶ月と一週間が経過しました。遅ればせながら、東日本大震災の被災者の方々に心よりお見舞い申し上げます。そして、亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたしします。
 自分が岩手の出身であり妻の実家が仙台なものですから、本当に他人事ではない災害でした。幸いなことに、盛岡、仙台、山形、石巻、気仙沼、田老の親族はいずれも無事でありました。それを以て当事者ヅラすることなどできるはずもないのですが。
 にもかかわらず、東北は自分の出身地であり、それ以上に、精神的なよりどころとなっている土地です。要するに、漠然とした愛着があるのです。西国は訪れるにあたって身構えるところがどうしてもあるのですが、東北ならば、地図なし下調べなしでぶらりと訪れることができる。自分の中の日本地図は東京と青森県を結ぶラインを背骨みたいにしてできあがっている。そんな感じです。


 40日のあいだに、あまりにも多くのことが起こりました。起こりすぎて、率直に言って感覚が鈍磨しかけていたことは告白しておこうと思います。全体を俯瞰するには巨大すぎる出来事ですし、個別の事象に入って行くには一つ一つの出来事が深すぎる。ふだんは新聞をわりと熱心に読む方なのですが、それが本当にくたびれてしまった。すごく些細なことに涙ぐむこともあったし(なぜかツボにはまったのが『全国のガス事業者が都市ガス復旧のために仙台に集結』というニュース。なんでこのニュースで泣いたのか自分でもよく分かりません)、物書きのいやらしい目でいろいろな事象を窃視していることにも気付きました。総括しようとするには日が浅すぎるでしょうし、この先どれだけ時間が経ったところでそんなことはできないのかも知れない。
 というのも、これほど広い範囲に及んだ災害であればこそ、人の世界の複雑さに気付かされるのです。例えばがん患者にカツラの支援を行った、と言う記事を読んでようやく、われらが日々生きているかたわらにそういう人たちが居ることに思いが至る。鈍いと言われればまことにその通りなのですが、この災害によって、平凡な日々に生きていればなかなか気付きにくい出来事が可視化されたのだと思っています。
 とりあえず、できることを少しずつやるしかないという気分でした。避難所に毛布を送り、岩手県庁と宮城県庁とその他の機関にちょっとずつ募金をし、ようやく宮城まで車で行くことができたので身内に食料を持って行った。本当にささやかで、そのていどのことです。
 それでも、できることを、できるかたちで、少しずつご助力してゆくしかないのだと考えています。必要なのは年の単位の時間と、それに伴うお金でしょうから。


 しばしば認識せざるを得ないことは、日常というものの分厚さでした。幸いにして東京は震災のあと、大きな被害がなかった。もちろん、放射能のことは除きますが。節電をし、業務も相応に規模を縮小し、電車が間引かれて一部の商品やら食品やらが品薄になり、それでも東京での生活はおおむね普段通りだったように思います。途方もない災害、加えての原発事故が現在進行形で起こっていることを意識しつつも、それは往々にして日常の中にかすみがちになりました。恥じ入りつつも、しかし日々の中を生きていかなければいけなかったというのが正直な実感です。
 この震災によって日常というものが崩壊してしまった、そんなことを言い立てた人もいるようですが、少なくともそれは東京に住んで日々を送っている人間の言えたことではないのではないか。一種の個人的な恐慌を、世間に敷衍することで自分自身を慰撫しているだけではないのか。自分はそう思います。
 もっとも、被災地にあってすら日々は巡り、途方もない厄災のあとにも生活は続くのでしょう。そうであると自分は信じています。


 もっとも、この震災が、津波が、そして原発の事故が、長いスパンでどのように日本社会に影響してゆくのか、それは自分にはまだ分かりません。復興には非常に長い時間が必要でしょうし、そのためには莫大なお金が必要でしょう。それはもちろん社会資本によって賄われるべきものでしょうが、そのために、停滞する分野や事業がいくつも出てくるかも知れない。分かち合うべき負債は、ことのほか大きいかも知れません。
 また、この災厄によって可視化された日本社会の疲弊は、いくつもあげられるのではないかと思います。考えるに、その最たるものは福島原発の事故だと思っています。半世紀にわたるエネルギー政策の構造的な歪みですね。負荷の地方への押しつけ、問題点の看過、問題点の先送り、内部評価制度の空洞化、などなど。原発についてはまた項を改めて必ず書こうと思うのですが、このために日本社会は大きく構造を変えてゆく必要に迫られるかも知れません。安くて危険なエネルギーを無批判に使い倒すと行った産業構造からの脱却ですね。
 もっともこの分野に関しては、自分は比較的楽観視しているのですが。おそらく日本人のこまめさとオタク気質は、この手の困難を乗り越えるには向いていると自分は思っています。


 奇しくも現在、一部、東北が舞台となる小説を書いております。東北という地域の100年を敷衍する内容です。この地震が影響を及ぼすかどうか、考えて、結果として物語のどこかに入り込まざるを得ないのではないかと考えています。なにしろ地震の前後、書いていたのは、2015年の秋分の日の仙台市でのできごとでしたから。
 それに、近代以降の東北は、決して国家から篤く報いられた土地などではなかった、そのことにも思いが至らざるを得ない。この小説の企てが成功するのならば、この物語は、東北という土地そのものに捧げられるように思います。


 一ヶ月と一週間が過ぎました。およそ40日、まだ40日、長い道のりとは思いますが、自分は東北の復興を心より祈り、そして信じています。

segawashin

Author:segawashin
2007年、「mit Tuba」で
第23回太宰治賞受賞。
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