テオ・アンゲロプロス監督が死んだ。
「あ、あぁあ」
ネットニュースを見ていて変な声が出そうになる。よりにもよって事故死とは……!!!
まちがいなく、世界でいちばん好きな映画監督だった。その人が、つい昨日まで元気に映画を撮っていて、今日はもういなくなってしまったという事実に、胸が締め付けられるような気持ちになる。今日一日、地味に辛かった。仕事していてふと我に返ると、ああ、アンゲロプロスがいない!ということに気付く。
初めてアンゲロプロスの映画を見たのは、1996年の春ということになるらしい。
手元に「ユリシーズの瞳」のパンフレットが残っていて、おそらく上映館は日比谷のシャンテシネ。なんで観に行ったのか……? ということはさっぱり覚えていないのだけれど、当時自分はかなり出来の悪い医学生で、足繁く映画を観に行ってはチラシを貰ってきて、面白そうなのを見つけてはまた次の映画に行く……ということを繰り返していた。そういう経緯で、今となっては幸運だったとしか言いようがないのだが、「アリゾナ・ドリーム」とか「金日成のパレード」とか「動くな、死ね、甦れ!」とか「ティコ・ムーン」とか、そんな映画を見てきたことになる。そういった網の中に、偶然引っかかってきただけのことだったのかも知れない。
決して分かりやすい作りになっていないアンゲロプロスの映画を観て、たちどころにその真価を見抜いた! ……などと言えたはずもないのだけれど、「なんだか凄まじいモノを観た」という印象だけは強く残った。折しも、冷戦が終わって数年という時期だった。東側諸国が開かれはしたものの、至るところに混乱と内戦が残る時代だった。自分が初めて東欧を旅行したのが1995年の春だから、かすかに個人的な体験と響き合ったのかも知れない。
失われたフィルムを求めての遍歴というのは映画的にも物語的にも映えるものであると思うが、ハーヴェイ・カイテル演じる男"A"が目撃するのは、あの時期の混乱しきったバルカンだった。
「どこへ行く」
「フィリプポリスです」
「プロヴディフと呼べ!」
短いやりとりに窺い知れる国と国との諍い、ドナウ川をゆっくりと流れ下る巨大なレーニン像(このシーンはあまりにも鮮烈で、思い出すたびに自分の目で直接肉視したような気分になる)、霧の中の銃声、"A"の涙……。
繰り返すけれど、とにかく自分があそこで感じたのは、「なんだか世の中にはモノスゲエことをやっている人がいる」という漠たる感動と畏怖だった。自分の短く浅い見聞の範囲で理解していた映画というフォーマットとはずいぶん違うやり方で、しかし、おそろしく堅固な世界を作り上げている人がいることを知った。生意気でモノ知らずで自尊心が強くて、要するにありふれた若造であった時期にこういうものに触れていたのは幸運なことだったと今になってみれば思う。こんなことでもなければ、なかなか、空の高さには気がつかないものだからだ。
この次は、アンゲロプロス作品と意識して観に行った。1999年、「永遠と一日」が公開されたときのことだ。失われたフィルムを追い求める"A"に対してこちらはアルバニア難民の少年を連れて遍歴するアレクサンドレ、厳しい風貌のハーヴェイ・カイテルに対して、ブルーノ・ガンツの温和な面持ち。前作とよく似た構造でありながら、こちらはずいぶん穏やかなものを感じさせるなと思ったことを覚えている。このときは知らなかったけれど、アンゲロプロスが晴天を撮った! という点でも滅多にないフィルムであったらしい。それでも、例えばアルバニア国境のシーンなど(多少の誇張はあるような気がするのだが)、バルカンの苛烈さはそこここに顔を出すのだけれど。
一つのストーリーラインを負いつつも、多層的に物語を進め、結果として時間を(個人史を、あるいはギリシャそのものの歴史を)立体的に描くというアンゲロプロスのくわだてを、このときははっきり自覚したように思う。
余談だけれど、確かこの年、週刊誌のAERAの表紙にアンゲロプロスが載っていてびっくりしたことがあったっけ。茨城県の片田舎の病院の購買で、小躍りしたことを思い出す。
現在のところ日本で公開された最新の長編は2005年の「エレニの旅」だろう。これも、公開時に見に行った。これはもっと明瞭にギリシャの近現代史を追ったフィルムだった。
オデッサからテサロニキへ、アメリカへ。それがどこまで流れゆくかと言えば、地球を半周して日本にまでたどり着く。終盤、"Ioh Jima"という言葉がほんの一瞬ギリシア映画に出てきたときに、僕は、二十世紀という時間に人類が移動した距離の長さ、移動することを強いられた距離の長さに思いを馳せて慄然とした。「私は難民です」と繰り返すエレニの言葉は、もちろんのこと、エレニだけのものではない。
なおこの映画、昨夏友人の家に遊びに行ったときになんとDVDを持っていて、あらためて観る機会に恵まれた。数時間痛飲してへべれけになったあとで出してくる映画がアンゲロプロスというのは一般的にはアタマのおかしい行動なのだろうが、高校時代からの親友なのだから仕方がない。さぞやいい子守歌になるだろうと思いきや、見れば見るほどに目が冴えてしまって困った。
「すごい」
「すごいよ」
「黒い船が来た」
「羊が、羊が」
「水が来た!」
二人して、阿呆のように断片的な言葉を呟きながら、白と黒の支配する画面に圧倒されていた。こういう映画の経験は本当に幸運なことで、たぶん、一生に何度もないことなんじゃないだろうか。
そしてなによりも「旅芸人の記録」、このことは前に書いた。唯一無二。繰り返すけど、こういったかたちで、日本の歴史が回顧されるようなことはあったのだろうか?
まったく私的にアンゲロプロスの映画を思い返すならば、だいたいこういうことになる。乏しい経験を総じての感想は、自分にとってアンゲロプロスの映画は、表現することのいちばんの外ッかわにある。物事を表現するときに、いちばんみっしりと中身の詰まった、棒でひっぱたこうが体当たりしようが爆弾を炸裂させようが微動だにしない強固なものを築こうとするのであって、そのことがほかのすべてに優先するようなやり方である。
表現する者の末席を汚すようになって思うのだが、とても、そこまでできない。このへん多少ご意見もございましょうがマー昨今の事情を鑑みて何卒穏便に、なんぞという気分を、なによりも自分に向けていることを否定できない。言わずとも分かるんでしょうけれど利便性を勘案しましたらマァこのあたりはお力添えしておいた方が無難でしょうね、なんぞという気分を、なによりも自分に向けていることを否定できない。
アンゲロプロスは、そうしなかったらしい。だからこそ、ギリシャという今なお混乱渦巻く大地に爪を立てることができた。「旅芸人の記録」が撮れた。あの映画は異常だ。比類ない。
そのアンゲロプロスが、もう、いない。
アンゲロプロスはまるで、自分の映画の中で唐突に起こる悲劇とそっくりなやり方で、突然この世からいなくなってしまった。
悲しくて仕方がない。
残された仕事の高みを思うに目が眩む思いがするけれど、生きながらえているからには、自分もできるだけの仕事をしなければなるまいと思う。
さようなら。
ありがとうございました。
ほんとうにありがとうございました。
「あ、あぁあ」
ネットニュースを見ていて変な声が出そうになる。よりにもよって事故死とは……!!!
まちがいなく、世界でいちばん好きな映画監督だった。その人が、つい昨日まで元気に映画を撮っていて、今日はもういなくなってしまったという事実に、胸が締め付けられるような気持ちになる。今日一日、地味に辛かった。仕事していてふと我に返ると、ああ、アンゲロプロスがいない!ということに気付く。
初めてアンゲロプロスの映画を見たのは、1996年の春ということになるらしい。
手元に「ユリシーズの瞳」のパンフレットが残っていて、おそらく上映館は日比谷のシャンテシネ。なんで観に行ったのか……? ということはさっぱり覚えていないのだけれど、当時自分はかなり出来の悪い医学生で、足繁く映画を観に行ってはチラシを貰ってきて、面白そうなのを見つけてはまた次の映画に行く……ということを繰り返していた。そういう経緯で、今となっては幸運だったとしか言いようがないのだが、「アリゾナ・ドリーム」とか「金日成のパレード」とか「動くな、死ね、甦れ!」とか「ティコ・ムーン」とか、そんな映画を見てきたことになる。そういった網の中に、偶然引っかかってきただけのことだったのかも知れない。
決して分かりやすい作りになっていないアンゲロプロスの映画を観て、たちどころにその真価を見抜いた! ……などと言えたはずもないのだけれど、「なんだか凄まじいモノを観た」という印象だけは強く残った。折しも、冷戦が終わって数年という時期だった。東側諸国が開かれはしたものの、至るところに混乱と内戦が残る時代だった。自分が初めて東欧を旅行したのが1995年の春だから、かすかに個人的な体験と響き合ったのかも知れない。
失われたフィルムを求めての遍歴というのは映画的にも物語的にも映えるものであると思うが、ハーヴェイ・カイテル演じる男"A"が目撃するのは、あの時期の混乱しきったバルカンだった。
「どこへ行く」
「フィリプポリスです」
「プロヴディフと呼べ!」
短いやりとりに窺い知れる国と国との諍い、ドナウ川をゆっくりと流れ下る巨大なレーニン像(このシーンはあまりにも鮮烈で、思い出すたびに自分の目で直接肉視したような気分になる)、霧の中の銃声、"A"の涙……。
繰り返すけれど、とにかく自分があそこで感じたのは、「なんだか世の中にはモノスゲエことをやっている人がいる」という漠たる感動と畏怖だった。自分の短く浅い見聞の範囲で理解していた映画というフォーマットとはずいぶん違うやり方で、しかし、おそろしく堅固な世界を作り上げている人がいることを知った。生意気でモノ知らずで自尊心が強くて、要するにありふれた若造であった時期にこういうものに触れていたのは幸運なことだったと今になってみれば思う。こんなことでもなければ、なかなか、空の高さには気がつかないものだからだ。
この次は、アンゲロプロス作品と意識して観に行った。1999年、「永遠と一日」が公開されたときのことだ。失われたフィルムを追い求める"A"に対してこちらはアルバニア難民の少年を連れて遍歴するアレクサンドレ、厳しい風貌のハーヴェイ・カイテルに対して、ブルーノ・ガンツの温和な面持ち。前作とよく似た構造でありながら、こちらはずいぶん穏やかなものを感じさせるなと思ったことを覚えている。このときは知らなかったけれど、アンゲロプロスが晴天を撮った! という点でも滅多にないフィルムであったらしい。それでも、例えばアルバニア国境のシーンなど(多少の誇張はあるような気がするのだが)、バルカンの苛烈さはそこここに顔を出すのだけれど。
一つのストーリーラインを負いつつも、多層的に物語を進め、結果として時間を(個人史を、あるいはギリシャそのものの歴史を)立体的に描くというアンゲロプロスのくわだてを、このときははっきり自覚したように思う。
余談だけれど、確かこの年、週刊誌のAERAの表紙にアンゲロプロスが載っていてびっくりしたことがあったっけ。茨城県の片田舎の病院の購買で、小躍りしたことを思い出す。
現在のところ日本で公開された最新の長編は2005年の「エレニの旅」だろう。これも、公開時に見に行った。これはもっと明瞭にギリシャの近現代史を追ったフィルムだった。
オデッサからテサロニキへ、アメリカへ。それがどこまで流れゆくかと言えば、地球を半周して日本にまでたどり着く。終盤、"Ioh Jima"という言葉がほんの一瞬ギリシア映画に出てきたときに、僕は、二十世紀という時間に人類が移動した距離の長さ、移動することを強いられた距離の長さに思いを馳せて慄然とした。「私は難民です」と繰り返すエレニの言葉は、もちろんのこと、エレニだけのものではない。
なおこの映画、昨夏友人の家に遊びに行ったときになんとDVDを持っていて、あらためて観る機会に恵まれた。数時間痛飲してへべれけになったあとで出してくる映画がアンゲロプロスというのは一般的にはアタマのおかしい行動なのだろうが、高校時代からの親友なのだから仕方がない。さぞやいい子守歌になるだろうと思いきや、見れば見るほどに目が冴えてしまって困った。
「すごい」
「すごいよ」
「黒い船が来た」
「羊が、羊が」
「水が来た!」
二人して、阿呆のように断片的な言葉を呟きながら、白と黒の支配する画面に圧倒されていた。こういう映画の経験は本当に幸運なことで、たぶん、一生に何度もないことなんじゃないだろうか。
そしてなによりも「旅芸人の記録」、このことは前に書いた。唯一無二。繰り返すけど、こういったかたちで、日本の歴史が回顧されるようなことはあったのだろうか?
まったく私的にアンゲロプロスの映画を思い返すならば、だいたいこういうことになる。乏しい経験を総じての感想は、自分にとってアンゲロプロスの映画は、表現することのいちばんの外ッかわにある。物事を表現するときに、いちばんみっしりと中身の詰まった、棒でひっぱたこうが体当たりしようが爆弾を炸裂させようが微動だにしない強固なものを築こうとするのであって、そのことがほかのすべてに優先するようなやり方である。
表現する者の末席を汚すようになって思うのだが、とても、そこまでできない。このへん多少ご意見もございましょうがマー昨今の事情を鑑みて何卒穏便に、なんぞという気分を、なによりも自分に向けていることを否定できない。言わずとも分かるんでしょうけれど利便性を勘案しましたらマァこのあたりはお力添えしておいた方が無難でしょうね、なんぞという気分を、なによりも自分に向けていることを否定できない。
アンゲロプロスは、そうしなかったらしい。だからこそ、ギリシャという今なお混乱渦巻く大地に爪を立てることができた。「旅芸人の記録」が撮れた。あの映画は異常だ。比類ない。
そのアンゲロプロスが、もう、いない。
アンゲロプロスはまるで、自分の映画の中で唐突に起こる悲劇とそっくりなやり方で、突然この世からいなくなってしまった。
悲しくて仕方がない。
残された仕事の高みを思うに目が眩む思いがするけれど、生きながらえているからには、自分もできるだけの仕事をしなければなるまいと思う。
さようなら。
ありがとうございました。
ほんとうにありがとうございました。
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