セガワブログ

小説家、瀬川深のブログ。

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 年末年始にかけて、トマス・ピンチョン「ヴァインランド」を読んでおりました。去る大晦日、仙台までの帰省に特急スーパーひたちを使ってみたのですが(東京近郊に残された数少ない在来線特急であります。高速バスなどではまず味わえない、酔狂かつ優雅な小旅行が楽しめますよ)、この車中で読み始めて、おととい読了。いや、ピンチョンとは思えない読みやすさでありました。びっくりしましたよ。「V.」「競売ナンバー49の叫び」とはずいぶん雰囲気が変わったなあ。
 もちろんピンチョン一流の饒舌さに変化が生じたわけではないんですが、物語を媒介するものがずいぶん変化した印象です。もともとポップカルチャーへの偏愛を隠さない作者ではありましたが、それがもっとあからさまで盛大になりましたね。なんと言ってもまずテレビ、映画、ポップス、コンピューター、ゲーム、そしてドラッグ。こういったものどもに物語はどっぷりと浸されて進行してゆくわけですが、考えてみればこれこそが大量消費の本格化した80年代という時代なんでしょう。「重力の虹」(残念ながら未読。古書価がえらく高騰してますね……)から17年の歳月が開いていたようですが、その間のピンチョンの人生が垣間見えたようにも思った、というのは勘ぐり過ぎでしょうか。
 以下、ネタばれを含む感想です。多分に誤読や読みの浅さもふくまれているでしょうが、ご容赦を。


 まず驚いたのは、実に今日的な物語であると感じられたということ。「1990年に刊行された1984年の物語」という前提がついつい頭から抜けてしまい、あァそういやこれはまだネットと携帯のない世界の物語なんだということに気付いて、そのたびに軽い驚きを感じました。べつだん予言の書として優れていることを褒めそやすつもりはないんだけれど、1980年代の初頭に萌芽していた社会の変容を巧みにすくい取って物語の骨組みに援用した点、つくづく感嘆したくなります。それがもっともドラスティックに現れていたであろう、アメリカという社会で書かれたことを差し引いても。
 その変容の正体とは、膨らむ一方の大量消費の隊列に情報がどんどん繰り込まれて社会を密に覆ってゆく過程だったんじゃないかな、とセガワは予想します。ここで留意すべきは、その情報が抽象的な概念ではなくて、電子データに変換可能な情報として具体的に描かれている点でしょう。増大する一方の情報が、アメリカを(ひょっとすると世界を)くまなく覆うケーブルでやりとりされ、それは密やかに各々の生活を絡め取ってゆく、寓意に満ちたビジョン。今日ならばまさしくネットと携帯がその役を果たしているんだろうけれど、さすがに物語の舞台は1984年、この役割を担う……、というよりは暗示しているのは、テレビでありました。時に、コンピューターやキャッシュ・ディスペンサーなんかも。そう書くといかにもディストピアな物語のように感じられるんだけれど(そういえばピンチョンが『1984年』の序文を書いていましたね、びっくりしました)、結局のところその延長上に2010年の世界はきれいに乗っかっているわけですからね。ピンチョンの描く世界に気色悪さを感じたとしても、ビッグ・ブラザーのように所詮は他人事なのだと笑い飛ばせないだけ、何とも居心地の悪い気分になるわけです。
 それが小説を織る一つの横糸だとすれば、縦糸にも感嘆しました。すなわち歴史というものです。卑近なものがたりに歴史をインポーズしてゆくのは、ピンチョンの真骨頂なんでしょうね。このインポーズというのは必ずしも比喩ではなくて、主人公(でいいのかな)の少女プレーリィが女忍者(苦笑)のDLとフィルムに映写された若き日の母の姿をたどるシーン、まさしくここでは過去と現在とがヴィデオ・クリップのエフェクトみたいに行きつ戻りつしておりました(終盤、このフィルムが焼き捨てられてしまうところ、何とも暗示的に感じられたのは少々穿ちすぎですかね。フィルムからテレビへ、60年代から80年代へ)。本作では、アメリカの歴史が、体制の埒外にいるものと体制との対立を通じて描かれます。20年代は西海岸の森林労働者と労組潰し、50年代は映画産業の組合と赤狩り、60年代はヒッピー・ムーヴメントや学生運動に対立するケネディ・ニクソン・フーヴァーといったアメリカの統治者たち。この対立は結局のところ、80年代のレーガン政権のアメリカにまで持ち越され、プレーリィやゾイドの物語に容喙してくるわけです(もっとも、80年代にいたっては作中に何度か言及されるレーガノミクスのアメリカに対立する軸が存在しない点は厄介ですね。かつてのヒッピー、ゾイドも尾羽打ち枯らして、女装しての窓破りに精を出す有様ですから)。ざっくりと理解すれば、この対立とは、アメリカの社会に存在する寛容と非寛容の歴史なのかも知れないです。教科書ていどの記述であっても、自由を標榜するアメリカという国家が時に苛烈なまでの非寛容さをむき出しにしてきたことは間違いないですから。最近では、イラク戦争の前後の、狂気めいた愛国的言説が記憶に新しいですね(あのフリーダムフライというばかげた呼称を、たぶんセガワは一生忘れないと思います)。
 これは、すごく面白い趣向でしたよ。ある一族の年代記にアメリカの近現代史を重ね、母探しというモチーフを物語のベクトルに設定した上で、そこに社会の変容をにおわせる。いやあ、面白かった。そして、この趣向が面白すぎて、少々残念な気分になったこともちょっと付け加えておきたいと思います。これが自分の読みの浅さのせいなのかどうかは、わからないのですが。


 それは、おそらくは、ブロック・ヴォンドに代表される敵役(というのも矮小な言い方ですが)に、「はっきりと見定められないなにごとか」を感じることが少なかったせいなのではないかと思います。少なくとも「競売ナンバー49の叫び」のザ・トライステロのような、最後の最後までそれがいかなるものなのかすら分からず、善意とも悪意とも見定められないものが我々のかたわらに存在している、そういう薄気味の悪さを感じることがなかった。先にちょっと言及したごとく、歴史的な対立の因果もすっかり薄れてきて、反共も反戦もアンチ・ドラッグもどこか抽象的な概念としか感じられなくなる1984年という時代の不幸なのでしょうか。もっとも、そもそも権力対反権力という対立じたいが、結構「わかりやすい」構図ではあるのですが。結局のところブロック・ヴォンドやヘクタ・スニーガは妄執から逃れられない小官吏、と言えばその通りなのでしょうが、彼らに例えばエイハブやクエンティン・コンプソンのような、米文学に伝統的な奇怪な人物を演じさせるには、1984年という時代は明るすぎるし我々に近すぎるのかもしれません。
 それともう一つ、これは以前もちょっと感じたことなんですが、ピンチョンという人の小説作法の独特のぎこちなさが、ことによっては、各人物の内面を掘り下げてゆくには不向きなのかもしれません。もちろんここで、心理小説を期待しているわけではないんです。歴史的状況や政治的構図、地誌的状況やパラダイム、文化的乱雑さ、そういうものを描くに当たってはピンチョンの筆を疑う必要はないでしょう。しかし、その構図にはめ込まれている各人物にカメラが寄っていったとき、(果たしてこの人はここでこういうことをしなくてはならないのだろうか?)という非常に基本的な疑念が浮かんでしまうことが折に触れてあったことを白状しておきたいと思います。そしてそれは、フレネシとヴォンドという作中の最重要人物において、特に顕著であったということも。


 しかし、まあ、それにしても、大変な小説であることは間違いがないです。こういう企ての小説が、いったい、日本で書かれたかと問われると少々心許なくなる。果たして五十歳になったベテラン小説家がどっぷりサブカルチャーに浸り、その上で日本の歴史を編もうとする、そんな状況はちょっと想像しにくいですね。セガワの狭い見聞の範囲で連想したのは、実は、獅子文六「てんやわんや」と井上ひさし「吉里吉里人」なんですが。井上ひさしさんの作話にピンチョンと似たものを感じる、というのは、少々大胆すぎる感想でしょうか。


 以下、感想の落ち穂拾いを箇条書きで。

・つくづく翻訳のご苦労が忍ばれる小説でした。だけど、どうしても違和感が感じられて仕方なかったのは、若者の崩れた言い回し。12年前の刊行であることを勘案しても、ちょっと、ええと、その、まあ、なんというか、ちょっとナウくてトレンディな感じが過ぎると言いましょうか……。チョットヨンデテツラカッタデス。

・同じくヘクタ・スニーガの関西弁もなんとなく違和感を感じたんだけど、トーホグ出身の東えびすのセガワが文句いえる部分じゃないと思います。

・物語の冒頭、ゾイドとプレーリィの別れの場面で、「行き先を未来にセットしたタイムマシン」のくだりはバック・トゥ・ザ・フューチャーのオチの部分のパロディかなと思った。

・DLが連れ込まれた銀座の「春のデパート」って、有楽町プランタンからの連想なんでしょうか。原文でどう書かれていたのか分からないけど。

・重箱の隅ですが訳注に一ヶ所ミスを発見(笑)。注103、マリオブラザーズは1983年のゲームです。

・271ページ、ティ・アン・トランと言うベトナム人女性が出てきますが、Tranはベトナム語読みではチャンになるんじゃないかな。アメリカではトランと読ませているのかもしれませんが。

・後半、ばっちり成り上がったウェンデル”ムーチョ”マースとザ・パラノイドが出てきたときには思わず微笑が浮かびました。パラノイドの面々は思惑通りロリータ少女と結婚できたんでしょうか。エディパさんはどこでなにをやっているのやら。

・最後まで、今一つ文茂田武さんの存在理由が分からなかったなあ。それにしても妙な苗字だけれど、実在するのかしら。画家の茂田井武さんを連想してしまう字面ですが、たぶん関係ないでしょうね。そういやゴジラの足跡テロも、最後まで謎は明かされなかったな。「ニンジャ・デス・タッチ」とか「ゴジラの怒り」とか、なんていうかその、「ゴーゴー夕張」と完全にセンスがつながりますね。


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2007年、「mit Tuba」で
第23回太宰治賞受賞。
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