セガワブログ

小説家、瀬川深のブログ。

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 「芸術新潮」2003年9月号において、四方田犬彦さんが連載「あの人のボナペティ」で歌人・斎藤茂吉の熱狂的なウナギ好きについて紹介している。これじたい大変面白い記事なので一読をお勧めしたいけれど、ここで紹介したいのは、冒頭の一文。
「なにしろこの国(=日本)は、たった一種類の魚の料理だけのレストランが全国津々浦々に渡って存在するという、特異な国だからだ。」

 まことにその通り、よく考えてみれば、鰻屋というのは非常に不思議な業態である。扱う魚種は一種類のみ、料理方法もごく限られている。にもかかわらず、これがどこか特定の地域の名物料理などというのではなく、おおむねあるていどの規模の街ならば、まず一軒ぐらいは確実に鰻屋は存在するのだ。


 ここで、記憶を昭和の末期に戻してみる。子供のころから、僕はウナギが大好物だった。鰻重というのは、なんというかその、それはそれは美味しいものだったのである。
 そしてまた、ウナギとは滅多に食べられるものでもなかった。それはおおむねお盆とか法事とか、親類が集まったときなどに、たしか盛岡市鉈屋町にあった「かわ広」から厳かに仕出されてくるものであって、要するにウナギとはまったく特別な、ハレの日の食べ物だったのである。
 こういう状態は、おそらく、元号がかわってしばらくまで続いたように思う。90年代初頭に上京して一人暮らしをしたころにはまだ、ウナギとは、確かに特別な食べ物だったはずだ。
 

 しかし、あれはいつごろのことだっただろう? 大学時代から地味に自炊をしていたのでスーパーの鮮魚コーナーもときおりぶらつくことがあったのだが、そこでえらく安いウナギを目にしたのは。たしか蒲焼きの一パックが780円ていどで、それは、当時の感覚からすれば破壊的に安い値段だった。当時の自分にとっては、ウナギとは、どうやっても1000円を下回らない食べ物だったからだ。
 しかし、そういう売られかたをするウナギを目にすることがだんだん増えてきて、ついに安売りのウナギを一パッケ買ってきて、あぁ貧乏学生でも鰻丼を食えるようになるとはありがたい世の中になったモノだ、そんな風に慨嘆したころには、二十世紀も終わりに近づいていたのではなかったっけか。世紀をまたいで気がついてみれば、なんとウナギは、ずいぶんあちこちで目にするようになってしまった。しかも、ひどく安く。ロードサイドの牛丼屋で鰻丼が食えるなどと、一年にほぼ一度の鰻重を心待ちにしていた小学校の頃の自分は想像できただろうか? なにしろその鰻丼一杯がワンコイン、小学校五年生当時の自分のお小遣い(=500円/月)でも賄える価格なのだから。


 なぜ、こうなってしまったのだろう? 詳しいことは知らない。大雑把に理解するところは、ウナギの養殖を海外にアウトソーシングすることで、安いウナギの販路が確立されたということだ。それはおそらく、1パック780円のウナギに驚喜していた貧乏学生の時分におおむね一致する時期ではなかっただろうか。
 結果としてウナギは、専門店の専門的な料理の枠をはみ出してしまった。牛丼屋で牛丼と並べて供され、コンビニでまで販売され、スーパーで1パック398円でセールの目玉にされる魚になってしまった。
 それがいいことだったのかどうか?
 僕は否定的な気分にしかなれない。この消費のされ方は、なにか、度を超している。


 ここで養殖という言葉に惑わされそうになるが、ウナギを卵から孵化させる商業的な養殖技術は未だに確立していない。そもそも産卵の場所が分かったことすら、ここ10年ほどのことではなかっただろうか。ウナギの産卵した卵を孵化させて育てる、そのサイクルを人為的に完成させたのすら、ここ数年の話だったはずだ。現状でやっていることは、稚魚を捕ってきて育てる「肥育」であって、この稚魚が捕れなければそもそもウナギの「養殖」は成り立たない。
 その稚魚が、捕れなくなっている。三年連続の未曾有の不漁であるという。今年に入って、少しずつ報道されていることだ。僕はこの報せに少なからず衝撃を受けている。
 まさかとは思うが、このままでは、ウナギという資源が枯渇してしまうのではないだろうか?


 繰り返すが、ウナギは野菜や家畜のようにヒトの手だけで栽培・飼育することができない。これは漁業全般に言えることかも知れないが、実のところ、やっていることの半分は狩猟・採取に近いのだ。日本人は自らを農耕民族と自己規定しているかも知れないが、日本の食の重要な部分を占めていた漁撈とは、実のところは狩猟の一形態である。
 では、その魚が捕れなくなったとき、どうすべきなのか?
 方策は二つある。消費を減らすか、なんとかして供給を増やすか、そのどちらかである。
 幸い日本には札ビラを切るという手段が取れるので、ウナギの稚魚を海外から買ってくることができる。じつはこれは今回の不漁に始まったことではなくて、昔からやっていたことなのだった。ヨーロッパと北米のウナギの稚魚は、とっくに日本に輸入されている。それほどに、日本の近海でウナギの稚魚は捕れなくなっていた。そしてこのたびの不漁に際し、ついに日本はアフリカからもウナギの稚魚を輸入しはじめたらしい。
 そう聞いて、無類のウナギ好きの自分は、酷く衝撃を受ける。なんだか手を出してはいけないところにどんどん手を広げているような気がする。そんなことをしていて、本当に、大丈夫なのだろうか? 正確に判断することはできないが、なにか、歯止めがきかなくなっていると僕は感じる。現状を維持するために、未来の資源に手をつけてはいないか? 今年を乗り切るために、来年以降の危機を作り出しているのではないだろうか?


 そうであるならば、僕は、ウナギを食べないという選択をしたい。幸いにしてウナギは米でも大豆でもない。端的には、数年食べなくてもなんら困ることのない食品である。


 ただし、ここで忘れてはならないのは、ウナギという食材の特異性である。冒頭で述べたごとく、ウナギはそれ自体が一つの産業の根幹をなす、きわめて特殊な食材である。そこに携わる人々も、もちろん生活してゆかなければならない。
 さればこそ、ここで必要なのは、政治的な判断であり、金銭的な保障だろう。それが本来、社会の果たすべき役割だと思う。
 率直に言って、僕は、日本の行政が適切に水産資源を管理してきたとは思っていない。サバもマグロもアジも、近海の資源を激減させてしまったからだ。漁獲量規制も一向に進む気配がない。その一方で捕鯨にはやけに熱心で、誰も食べない鯨肉の在庫を積み上げているありさまだ。
 でも、それでもしかし、それは次に打つ手を諦める理由とはならないはずだと僕は思う。実際、たとえば秋田のハタハタは、厳しい禁漁を徹底したことで漁獲量を回復させることができた。そういう先例だってあるのだ。


 食べず、捕らないことで、ウナギの回復を待つ。それは、世界のウナギの実に7割を消費する日本人に課せられた責務ではないかとすら僕は思う。
 ウナギを産み出すことができるのはヒトの手ではなく、母なるウナギと、わだつみだけなのだから。





追記:ウナギの稚魚=シラスウナギの漁獲量がどのていど減ったかを示す資料を水産庁当たりで出していないだろうかと思ったのだが、パッと探す限りでは見つからなかった。代わりにこちらのリンクを参考に。NHKのサイトである。記事中に示されるグラフは国内での漁獲高を示しているのだが、世界の漁獲高の推移もデータがあれば調べてみたい。そもそも漁獲高を国別に示すのは難しいことで、例えば日本の商社が海外船籍の船を海外に保有すればそれは日本の漁獲高にはカウントされないのだ。だからといって、ウナギの7割を消費する日本人の選択が、ウナギの未来を左右するキーであることは間違いがないだろうが。

http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/126786.html
時論公論「うなぎ 資源回復を急げ」
(引用)「かつて年間232トンとれたシラスウナギは2010年には6トンにまで落ち込みました。」

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2007年、「mit Tuba」で
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