Nooooooooooooo!
野坂昭如逝去か……。掛け値なしの天才、混じりけなしの小説家。追随者なく日本語の荒野を突き進み、我と我らの卑俗を余すところなく活写したうえにそこに何か聖性まで添えてみせた。俺ごときが称揚するまでもない、最も偉大なる日本語の小説家ここに斃る。
かえりみれば野坂昭如、その名前を最初に耳にしたのは「火垂るの墓」、中学生のころにひときわ評判を取ったアニメ映画の原作者ということになりそうなものだがまるで記憶になく、むしろ親父の買ってくる週刊誌に異様に一文の長いコラムが載っていてまるで読み解けずにいれば、戦後民主主義世代の両親言下に「あぁあのウヨク作家」と切って捨てたその小気味よさこそが、この稀代の大作家をいたずらに反戦平和の教条と結びつけずに済んだのだとは後になってわかることだった。先人の紙に記した言葉を追いかけるようになったのは先帝のみまかってより後のこと、この大作家が歌手にテレビに政治活動にとあらかたの遊びに飽いた後だったことも幸いだったのかも知れぬ、その魁夷なる容貌は常に膨大なる作品の中からのみ立ち上がってきてこちらを睥睨した。
さりとてアメリカひじきに火垂るの墓、教科書が勧めてくる作品は押しなべて退屈、かえりみればやはりこの大家の作としては最上とは言いがたいものと感じられた一方で古書店の書棚に並ぶ野坂昭如作品はどれをとってもしたたかに、こちらの腰骨のあたりを強打してくるなにか、我らが生と性の浅ましさを極めて実直に無骨にわが網膜に縫い付けてくるようなものばかりで、マッチ売りの少女に童女入水にエロ事師たち、幾度まばたきを忘れたかわからぬ。
忘れがたいのは「骨餓身峠死人葛(ほねがみとうげほとけかずら)」、超弩級の傑作があると聞かされながら入手かなわず、読みたいと念じながら数年が過ぎてふと訪れた石垣島、西表に渡る船待ちのあいだに立ち寄った古書店、積まれた一番上にその本を見つけたときには脳天を貫くような衝撃を受けた。貪るように読んでその真価直ちに理解したとはとても言えないのだが、渡った西表で見たものは半世紀の昔に苛烈な労働とマラリアで幾百人もの死の果てに原生林の中にまさに朽ち潰えようとしている炭鉱跡、それはまさに骨餓身峠死人葛の世界顕現したかのような、偶然という名の必然、奇跡的な付合だった。
無粋を承知で要約すれば、骨餓身峠死人葛、ところは九州、流れ人夫の葛作造の拓いた炭鉱を舞台にした奇怪な一代記で、ここにはただ死体をのみ養分として死人葛が白い花を咲かせるという。作造の娘、たかを、幼少のころより死人葛をこよなく愛し、死人葛を咲かせるためには実の兄をそそのかし、やがて道ならぬ関係に陥り、兄が肺病を病めばその骸もまた死人葛を咲かせ、たかをと父は契って娘さつきを生み、大戦と敗戦に時を同じくして炭鉱が衰えれば残された人々ただ死人葛の実を糧秣として生きのびようとする。死人葛を咲かせるためには骸がいる、そのために女は子を孕まねばならず、孕むためには親も子もきょうだいもなく、「髪ざんばら素脚の男女が、夜に日にかき抱き合って、直接食欲に結びつく性欲は、果てしなく強じんであった」。目を覆いたくもなる凄惨なコミューンがやがて破滅的終焉を迎えるのも道理、しかし死者の堆積のうえに我らが危うく生をつなぎ、性へのかつえが生を満たすありさまは寓意だ風刺だといったものをかるがると超えて、さむざむと下腹に迫ってくる、見上げれば天を覆わんばかりの影であったとわかるようなおそろしさがあった。文体からも視点からも物語からもただ感じられるのは生のそして性のいかんともしがたさであったように思う、それは本作に限ったことではなく全てから。
われらの土地に、歴史に、人間たちに、このような光を当てたのはただ一人野坂昭如だけだった、自分は強くそう信じている。強い光を見つめる勇気なければ目をそらしてしまうほどの強い光芒。
空前絶後、前人未到、唯一無二。南無阿弥陀仏。
アキユキ・ノサカ・ノー・リターン。
野坂昭如逝去か……。掛け値なしの天才、混じりけなしの小説家。追随者なく日本語の荒野を突き進み、我と我らの卑俗を余すところなく活写したうえにそこに何か聖性まで添えてみせた。俺ごときが称揚するまでもない、最も偉大なる日本語の小説家ここに斃る。
かえりみれば野坂昭如、その名前を最初に耳にしたのは「火垂るの墓」、中学生のころにひときわ評判を取ったアニメ映画の原作者ということになりそうなものだがまるで記憶になく、むしろ親父の買ってくる週刊誌に異様に一文の長いコラムが載っていてまるで読み解けずにいれば、戦後民主主義世代の両親言下に「あぁあのウヨク作家」と切って捨てたその小気味よさこそが、この稀代の大作家をいたずらに反戦平和の教条と結びつけずに済んだのだとは後になってわかることだった。先人の紙に記した言葉を追いかけるようになったのは先帝のみまかってより後のこと、この大作家が歌手にテレビに政治活動にとあらかたの遊びに飽いた後だったことも幸いだったのかも知れぬ、その魁夷なる容貌は常に膨大なる作品の中からのみ立ち上がってきてこちらを睥睨した。
さりとてアメリカひじきに火垂るの墓、教科書が勧めてくる作品は押しなべて退屈、かえりみればやはりこの大家の作としては最上とは言いがたいものと感じられた一方で古書店の書棚に並ぶ野坂昭如作品はどれをとってもしたたかに、こちらの腰骨のあたりを強打してくるなにか、我らが生と性の浅ましさを極めて実直に無骨にわが網膜に縫い付けてくるようなものばかりで、マッチ売りの少女に童女入水にエロ事師たち、幾度まばたきを忘れたかわからぬ。
忘れがたいのは「骨餓身峠死人葛(ほねがみとうげほとけかずら)」、超弩級の傑作があると聞かされながら入手かなわず、読みたいと念じながら数年が過ぎてふと訪れた石垣島、西表に渡る船待ちのあいだに立ち寄った古書店、積まれた一番上にその本を見つけたときには脳天を貫くような衝撃を受けた。貪るように読んでその真価直ちに理解したとはとても言えないのだが、渡った西表で見たものは半世紀の昔に苛烈な労働とマラリアで幾百人もの死の果てに原生林の中にまさに朽ち潰えようとしている炭鉱跡、それはまさに骨餓身峠死人葛の世界顕現したかのような、偶然という名の必然、奇跡的な付合だった。
無粋を承知で要約すれば、骨餓身峠死人葛、ところは九州、流れ人夫の葛作造の拓いた炭鉱を舞台にした奇怪な一代記で、ここにはただ死体をのみ養分として死人葛が白い花を咲かせるという。作造の娘、たかを、幼少のころより死人葛をこよなく愛し、死人葛を咲かせるためには実の兄をそそのかし、やがて道ならぬ関係に陥り、兄が肺病を病めばその骸もまた死人葛を咲かせ、たかをと父は契って娘さつきを生み、大戦と敗戦に時を同じくして炭鉱が衰えれば残された人々ただ死人葛の実を糧秣として生きのびようとする。死人葛を咲かせるためには骸がいる、そのために女は子を孕まねばならず、孕むためには親も子もきょうだいもなく、「髪ざんばら素脚の男女が、夜に日にかき抱き合って、直接食欲に結びつく性欲は、果てしなく強じんであった」。目を覆いたくもなる凄惨なコミューンがやがて破滅的終焉を迎えるのも道理、しかし死者の堆積のうえに我らが危うく生をつなぎ、性へのかつえが生を満たすありさまは寓意だ風刺だといったものをかるがると超えて、さむざむと下腹に迫ってくる、見上げれば天を覆わんばかりの影であったとわかるようなおそろしさがあった。文体からも視点からも物語からもただ感じられるのは生のそして性のいかんともしがたさであったように思う、それは本作に限ったことではなく全てから。
われらの土地に、歴史に、人間たちに、このような光を当てたのはただ一人野坂昭如だけだった、自分は強くそう信じている。強い光を見つめる勇気なければ目をそらしてしまうほどの強い光芒。
空前絶後、前人未到、唯一無二。南無阿弥陀仏。
アキユキ・ノサカ・ノー・リターン。
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