セガワブログ

小説家、瀬川深のブログ。

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 下北沢シネマアートン映画「眠り姫」を観てきました。
 ユーロスペースでやってた本放映時に見逃していたのですが、4/25までアンコール上映だそうです。4/18の記事でご紹介した、侘美さんが音楽を担当なさっています。
 なお、この映画の原作は山本直樹の漫画、更にそれは内田百間の小説に取材しているようなのですが、どちらも未見です。以下の記述、その点ご了承下さい。


 非常に野心的な試みの映画でした。
 なにしろ、画面にほとんど人間が出てきません。最初と最後、主人公らしき女性の姿が(ほとんどシルエットで)見える他は、画面のほとんどは風景で構成されます。例えば学校のシーン、職員室の映像に生徒たちのざわめきや先生どうしの会話が聞こえますが、その話し手はどこにも写っていません。この手法は徹底していて、街中やファミレス、電車の中といった、本来ならばまず人間がいるであろう場面でも、人間の姿は周到に排除されています。
 見始めて数分、この意図に気付いたときは、これで一時間半観るのは少々しんどいぞと身構えたのですが、幸いそういうことにはなりませんでした。不思議なのですが、非常に印象的な風景の連続と、時に曖昧なセリフを追っているだけなのに、ほとんど中だるみすることなく観ることができました。
 これは、映画の途中に挿入される、きわめて抽象的な数カ所のシーンがうまく作用していたからかも知れません。主人公の夢を象徴しているのでしょうか、朝ぼらけの街路、あるいはどこかの川端、そういった風景に、音楽が被さります。それが、どこか不安をかき立てるフラジョレットやグリッサンドを多用した音響から、画面の移ろうにつれて柔らかい木管のハーモニーに流れていったりもします。これは本当に秀逸な、きわめて印象深いカットでした。この夢と思しきシーンだけでも、この映画は充分に観る価値があると思ったほどです。
 しかし、そうであっても、観るのに少々の疲労を感じたことは事実なのです。
 それはこの映画の採った手法のせいではないということは、先に強調しておきます。


 こういうストーリーの映画です。
 主人公は、おそらく20代の女性です。友人が24歳ということなので、その前後の年齢でしょう。中学校の非常勤講師をしています。はっきりとした理由は示されないのですが、主人公は自分の生活に違和感を抱いています。「部屋の中に誰かがいるような」といった言葉や、同僚教師の顔立ちへの言及に、そのことが端的に暗示されます。
 そのせいなのかどうか、主人公は非常に長く眠ります。「眠っても疲れが取れない」という趣旨のことを言い、起きるとたくさん水を飲みます。この眠りは、先に述べたような、非常に効果的な映像で暗示されているようです。そのほかにも、落下するピンポン玉や流れる雲と言った抽象的な映像が、主人公の独白を修飾します。
 主人公には高校時代からのつきあいの彼がいるらしく、その男はちょくちょく主人公宅に立ち寄ります。当然セックスなどもこなします。男は結婚する気も満々なようなのですが、主人公は今ひとつ乗り気ではありません。男はだまし討ちで母親に主人公を引き合わせますが、主人公はそのことに苛立ち、のちにはその母親が自室を無断で来訪したという妄想を抱いたりもします。
 結局、主人公は男と喧嘩します。はっきり別れたかどうかは、示されませんが。
 そののち、主人公は同僚教師の野口とちょくちょく二人きりで会うようになります。恋愛関係ではなさそうですが。野口は睡眠薬に溺れているらしく、しだいに痩せてゆきます。ここで、主人公は、眠る側から眠る野口を見守る側に逆転しているようです。主人公は最後に、男と別れて結婚を辞めることを野口に相談しますが、野口は辛辣な言葉を返します。
 そして、数日後、野口は自殺します。
 おおむね、こういった話の流れだと思います。


 自分がこの映画を観ていて少々の疲労を感じたのは、おそらく三つの理由があると思います。
 それは、一つ、この内容に象徴されるような問題を、今の自分はあまり痛切に感じられないことです。「今現在の自分に対する違和感」というのは、現代の日本人ならば多少なりとも抱える精神病理なのでしょうが、それはおそらく、(作中最後の野口のセリフに示されるように)どのように言い立てたところで解決の見える問題ではないのでしょう。傷一つない生活など、存在するはずがないからです。自分も確かに、二十歳のころならば自分に対する不安と不満と不充足に灼けるような苛立ちを感じてはいましたが、それは、残念なことに今の自分にはそれほど切実に感じることのできない問題です。
 もう一つ、この内容に象徴されるような問題に、ちょっとした懐かしさを感じてしまうことです。「今のワタシに対する不安」とは、誰しも抱く心理でしょうが、そこには確実に過多の差があります。それをすくい上げ、誰しもが抱く「甘やかな自己否定」と共鳴させるような作話手法が、確かに一時期の流行りであったな、と、今の自分は懐かしく思い出します。自己否定に到るほど、自己と向かい合っている人間が現在どれほど居るのか、自分には判断が付けられません。おそらく、携帯やらネットやらSNSやらといった、お手軽に自我を垂れ流せるツールがこれほどの隆盛を迎えたことで、自己に延々と向き合ってゆくことを多くの人間は放棄したのではないかと、自分には思われます。
 最後の一つは、自分が書き手のハシクレであるということで、自分ならばこう表現するであろうということをいちいち考え込んでしまうことです。もちろんこれは、この映画に限ったことではないので、ここでは詳述しません。


 もちろん、このような映画の「ストーリー」を逐一追いかけて云々するのは、少々野暮な行為かも知れません。しかし、これほど周到に仕上げられた映像を前に、その印象や雰囲気ばかりを追いかけるのはもったいないことだと自分には思われます。
 眠りゆく女性に不満の心理を象徴させるのならば、ぜひ、その女性が目覚めるところまで踏み込んで欲しかった、というのが、率直な自分の感想です。それは、とてもではありませんが、同僚教師の自死やカレシとの別れで解決されるような問題ではないだろうからです。
 それでなくとも、今どき、眠りたがる手合いが多すぎるのですから。


 なお、上映後に、七里圭監督と宮沢章夫さんのトークセッションが行われました。宮沢さんの質問が大変面白く、特に、こういう抽象的な映画でどのように時間の配分を行っているのか、という趣旨の問いかけは、まさしく舞台の人ならではだと思わされました。また、1995年という年を一つの節目とするかどうか、という問題提起は少々すれ違った感もあるのですが、お二人の世代差や世界観も相まって、非常に興味深い対話となったように思います。


 4/25まで上映は続くようです。連日20:30からのレイトショーです。見逃した方は、お早めにどうぞ。
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2007年、「mit Tuba」で
第23回太宰治賞受賞。
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