セガワブログ

小説家、瀬川深のブログ。

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 学会に行って来ました。
 なんか学会というとあまりイメージが湧かないかも知れませんが、まあ同種の研究をなさっている研究者の方々が一堂に会して研究発表をする会であります。まあ大まかなイメージとしては、スライドにレーザーポインターを駆使して発表している最中からざわざわとざわめきが起きて終わった瞬間にスタンディングオベーション、満面の笑みを浮かべた議長から固い握手を求められる……といったようなメリケン謹製の映画のようなことは普通はまずありえなくて、まあたいていは粛々と発表と質疑応答が続いてゆくきわめて穏やかな空間であります。マーたまに質疑応答で揉めて、ウキウキハラハラするような展開になることもあるんですが。
 というわけで、セガワも地味に発表して参りました。これで一仕事終了であります。


 で、こっからが本題なんですが、帰り道に久々に本屋に寄っていろいろ買ってきました。ちょっと現代美術の現場について資料が欲しかったんで新書を買ったんですが、……これがなんというかその。大まかに想像していた以上に、現代美術の世界というのは魑魅魍魎跋扈する場であるという思いを強くしましたよ。それに、セガワはもちろん美術について正当な教育を受けたこともない単なる一ディレッタントに過ぎないんですが、それでも、この本の内容についてはいろいろと思うところがありましたね。
 現代美術の現場というのは、予想通り、非常に生々しいものでした。才能のある作家を求めて関係者が動き回る、アートフェアやオークションハウスで次々に作品に値段が付いてゆく。実際にそういった現場に深く容喙している著者は、そういった構図を実に明快に解説してゆきます。それはあくまでも苛烈な市場原理の作用する場です。そのことの善し悪しを今さら云々することは、ほとんど無意味なんでしょうね。余剰な資産をどんなふうに活用しようが、それは余人のあずかり知るところではありませんし、国債を買おうが株券に変えようが土地建物やヨットに変えようが、それはもちろん自由です。その中には名の知れた作家の油彩やオブジェを購入するという選択肢もあるのでしょうし、あるいは名の囁かれはじめた作家のドローイングに投資してみるという賭に出てみることもありなのでしょう。しかし、まあ、それでもこういう「現実」を懇切丁寧に解説されるというのは、想像以上に精神的な余裕が必要なことのようで、正直なところ読んでいてセガワはすっかりくたびれ果てました。
 もちろん、中世以降芸術とパトロンもしくはパトロネスの関係は切っても切れないものですし、それが一種の貴族趣味からだぶついたお金を手にした一般市民のラインにまで引き下ろされたのだとすればそれはまことに結構なことなのでしょう。アメリカ人ならば満面の笑みを浮かべて「民主的」「市場原理」といった形容をしそうな気がします。
 しかし、本書の全編を通じて、とりわけ後段にいたって著書が繰り返し述べる「日本人とアートとの距離感」がこの問題とどう関わるのか、どうもセガワには気になるところです。こういう苛烈な、はっきり言ってしまえばマネーゲームの場に身を投じることで現代美術への貢献をしているという考え方が成り立つのならば、少なくともセガワはそこからは何歩も引いたところにいて、そっと古今の名画を眺めていれば充分だという気分になります。例えばセガワはフリーダ・カーロの絵が大好きですが、それを所有して自宅の居間にでも飾っておきたいという気分にはあまりなれませんし、ジョアン・ミロの鳥のオブジェは死ぬまでにもう一度バルセロナに行って、カタロニアの空の下で対峙すればそれで充分だと思っています。
 もちろんこういうしみったれた小市民的感覚の持ち主ばかりとなれば回らないのが現代美術の世界というもののようですので、この考え方はあんまり敷衍しない方がいいのでしょう。しかし、どうも著者の考え方と一つだけ埋めがたい齟齬を感じているのは現代美術の受容のされた方という点で、それだけはびた一文現代美術には投じるつもりのない吝嗇家であっても考えをまとめておきたいところです。
 どうも著者は、現代美術が難解であるがゆえに(とりわけ日本では)受容されないという考えを持っているようです。特に第3章以降、そのことを根拠に話を進めているようなのですが、そこがちょっとセガワの考えと違うところで、これは私見ですが、現代美術というのはむしろ過剰にわかりやすすぎるのではないかとセガワは思っています。殊にコンテンポラリー・アートやコンセプチュアル・アートといわれる作品群にはそれが著明で、「作者の言わんとすること」が余りにもあけすけなのだから時にとまどいを覚えるほどです。
 このジャンルについてのセガワの見聞は非常に狭いものですから、どのていど一般化できることなのかは自信がありませんし、個別の作品を挙げて云々する資格などはないのですが、一つだけ例を挙げますと、ついこのあいだ行って来た森美術館のアネット・メサジェという人の個展ですが、そこで見た作品群からは実に明快な意図を感じ取ることができました。ぬいぐるみをつぎはぎして作られた人体の一部(内臓を含む)、ゴミ袋で作られた人体の一部、滑車でつり下げられて回るオブジェ、どこを取ってみても明瞭なグロテスクさに貫かれていて、その源流はキッチンと子供部屋にあるのだろうなと容易に想像させることに成功していました。このことと、作者が女性であること、そして時に執拗に繰り返される身体モチーフ(写真を含む、外性器を含む)を考え合わせれば、作者の意図したいものはほとんど数個のキーワードに収束させられるのではないかと思われます。不安な気分をかきたてられはするのですが、それはむしろある種のあけすけさから目を反らしたいという感情に近いものではないかとセガワは想像しました。これは以前実物を目にして驚愕した、草間弥生の作品とは正反対の印象で、あちらはどれほど凝視しても全体像を把握したという気分にならない、まるで段階の違う不安をかきたてられる作品でした。
 思うに、現代美術の難解さというのは、作品じたいの指し示すものを解き明かそうとするときに生じるパズルの解法探しめいた作業とはまるで違っていて、その創作行為の全貌がどのていど複雑なものをはらむかに依るような気がします。すれっからしの現代人が今さらなにか新規な技術を喜ぶこと、倫理的義憤に駆られたり異化効果に驚いたりすることは、残念ながらないであろうからです。例えばアルベルト・ジャコメッティの描く「矢内原の肖像」、幸運にも一度現物を見たことがあるのですが、これは実に難解な作品だとセガワには思われました。しかもこれが繰り返し繰り返し何度となく描かれた肖像の一枚であると知ったとき、この日本人男性の肖像がどういう作品であるのかまるで想像が付かなくなったことを覚えています。これは例えば、ジャンミシェル・バスキアがニューヨークのあちこちにタイポグラフィを量産していたこととはまるで次元の違った難解さで、前者が結局は人間の肖像画であるから「わかりやすく」、後者が抽象的なドローイングであるから「難解」であるという構図は、ここでは明らかに破綻しているのではないかと思います。
 その意味で、著者の「現代美術は難解であるから受容されない」という問題提起は、杞憂ではないかとセガワは思います。おそらくはクロウト筋が心配するほど、モダンアートというのは難解ではないでしょう。むしろ、そのやけに明瞭なあけすけさを自分の手元に置いておきたい、時にそっと眺めては自分の人生の彩りにしたいと人間たちが考えるかどうかの問題だと思われます。残念なことにセガワは、そのような作者の決意表明を愛玩する感情には乏しいようです。むしろ、ある種の謎や理不尽な感情が塗り込められている作品の方が好きなようですので、若いころのパウル・クレーが反古紙の裏に描いていた神経症的な、とっても下手くそな、ある種の憤りに満ちたドローイングの一枚でも所有できればそれに勝る幸福はないと思っています。なにかの間違いで大金持ちにでもなったら、期待することにしましょう。近世の日本画にアニメキャラクターをコラボレートして率直な異化効果を期待するような作品などを物色して、現代美術に貢献するよりも。


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2007年、「mit Tuba」で
第23回太宰治賞受賞。
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