セガワブログ

小説家、瀬川深のブログ。

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 テオ・アンゲロプロス監督の映画「旅芸人の記録」を観てきた。
 公開当時、「ユリシーズの瞳」を見て以来、観たい、観たいと思い続けてきた作品。13年目にしてようやく願いが叶う。僥倖だ。
 手元になんの資料もなく、一度観ただけの記憶を頼りに書く文章なので人名やシチュエーションに多少思い違いがあるかもしれませんが、その点はご容赦。


 つくづく自分は現代ギリシャのことを知らないと痛感する。古代ギリシャの文明、アテネやスパルタの都市国家、ギリシャ神話やホメロスの叙事詩といった歴史のかなたの出来事から大きく跳躍して、近現代に到ってみれば、近代オリンピック発祥の地、海運王オナシス、その男ゾルバ、クセナキスやテオドラキスの音楽、そういったことを断片的に知ってはいても、ギリシャがどのような歴史をたどって現代に到ったのかということは、ほとんど知識がない。
 しかしこのフィルムは、ギリシャの現代史を太い支柱にして進行する。いちいち教科書めいた説明はされないが、主役に据えられた旅芸人の一座の背景に、過酷なギリシャの近現代が見え隠れする。トルコとの戦争、イタリアの侵攻、ナチスの侵攻、レジスタンス、イギリスの占領、アメリカの占領、コミュニストと王党派の対立。観ながら、そのいちいちに驚く。その都度の流血。ヨーロッパと括られる国々の中でも、この現代史の苛烈さはなかなか類例がないかも知れない。そのことをこのフィルムは、無知な極東の人間にも教えてくれる。


 しばしば難解と言われがちなアンゲロプロスの作品だが、必ずしもそういう印象は受けなかった。シンボリックな事象は繰り返し出てくるし、劇中で三回、登場人物が前後の状況を語ってくれる。ただし、物語の語られ方が通常の映画とはずいぶん異なるので、ちょっと特殊な忍耐と集中を必要とするだろうけど。
 作中の人物は、ほとんど語らない。多くの場合、感情の表出も最小限に抑えられる。見え透いた笑みを漏らさず、押しつけがましい涙を浮かべない(例えば登場人物がはっきり意図的に笑ったと気付いたのは、捕らえられてゆくレジスタンスのオレステスが突然浮かべた満面の笑み、その一箇所だけだった。はっきり慟哭が聞かれたのは、エレクトラがオレステスの骸に対面した一瞬だけだった)。
 その代わり、人物は実によく歌う。歌がその人間の立ち位置や思想、内面を暗示する。歌詞を伴わない音楽もまた、その場の状況を雄弁に語る。エレクトラがレジスタンスの一行と再会したときにほんの一節口笛で吹かれるインターナショナルなど、その好例だった。また、しばしば音楽は唐突に中断され、強烈な逆説的な効果をもたらす。このフィルムでは、明るい音楽がしばしば悲劇と隣り合う。雪模様の山村で、客寄せのために歌い踊る旅芸人の一行を突然沈黙させたのは、ナチスに処刑されたレジスタンスの遺骸である。ダンスホールで王党派とコミュニストたちは歌合戦をするが、優勢なコミュニストたちの歌声は一発の銃弾で中断される。いかにもギリシャ風の、変拍子の陽気な音楽に導かれてきたのは、軍人たち?の掲げるレジスタンスの生首である。この複雑なアイロニーに満ちた音楽の使われかたが、この映画のなによりも雄弁な語り手になっている。たとえばイギリス人と内通し、アメリカ人と結婚した旅芸人の一人の女が海辺で結婚式を挙げるとき、老婆の歌うギリシャの民謡は軽薄なダンスミュージックにかき消され、そこに女の息子が無言でテーブルクロスを薙ぎ払って抗議する。ここにはほとんど一つの言葉も語られないのだが、ギリシャの1946年頃?の状況が鮮やかに暗示されている。
 また、他のアンゲロプロス作品でも経験したことだが、この作品でも群衆というものが一つの語り手になっている。多くの場合、群衆は一人一人の顔が見えてこない。ただし、衆愚という印象は受けない。彼らはおそらく、一人一人がはっきりした意思の下に群れなして動き、叫び、歌う。それゆえ、群衆同士は時に強烈な衝突や対立を生む。これは、一群れではあるけれど一人一人の人格がはっきり見えている旅芸人の一座としばしば対比される。文字通り彼らは群衆に翻弄される。レジスタンスと警察の銃撃戦の中、闇夜の街を逃げまどう彼らの姿に暗示されるように。


 これらがギリシャの現代史を骨組みとした大きなものがたりであるならば、旅芸人の一座の中にもまた小さなものがたりがある。中でも、母の姦通と間男の裏切り、逃げる息子と復讐する娘といったエピソードは、まるでギリシャ悲劇のようなものがたりである。平たく言えば欲望に駆られた人間たちの矮小な小競り合いなのだが、それがギリシャの現代史や芸人一座の演じる作中劇と重ね合わせられれば、その行動にはどこか神話的な象徴性が感じられる。秘密警察に強姦されるエレクトラや、一本のワインをダシに女に服を脱がせてマスターベーションに耽る男、目を背けたくなるぐらいに醜悪なエピソードも含めて。
 ただし率直に言って、こちらは少々流れを追うのに苦労した。これは、作中人物の名前がほとんど語られない、暗いシーンが多くて人物の判別がしづらい、ナレーションが存在しないなどといった極端に禁欲的な映画の作りのせいだと思うんだけれど。


 率直に言って、四時間に渡るこの極度に禁欲的なフィルムに集中するのは結構な忍耐が要った。とてもじゃないが、軽い気晴らしとして観るような映画ではない。しかしながら、これは、大いに報われる努力だった。途方もない作品に向き合うときに、当然払ってしかるべき努力だった。
 こういう映画を見ると、いかに自分が現代の映画作法に慣らされているかを痛感する。わかりやすく、説明が行き届き、人物の内面を描写するために過剰な感情の露出や派手な身体運動さえもいとわない映像。そういう映画は確かに「わかりやすい」のだが、では、自分が何を「わかった」のかと考え直すと、妙に心許なくなる。監督やシナリオライターの誘導するストーリーをそのまま自分の記憶に移し替えることは、本当に何かを「わかった」ことになるのだろうか?アンゲロプロスの極度にストイックな映像に浸りながら旅芸人の一座の歴史を辿るとき、そんなことが考えられて仕方なかった。
 そして、こういう力のこもった方法で近現代を描こうとした作者を、自分は強く尊敬する。例えばこのような方法で、日本の近現代史は、果たして回顧されただろうか?
 そしてこれは物書きのハシクレとして強く感じたことだけど、若いうちに、体力のあるうちに、こういう大きなものがたりを書く努力を払うべきだと思った。ある種の無謀さや不敵さを押し通すことの出来る、体力のあるうちに。


 テオ・アンゲロプロス監督作品、「旅芸人の記録」。1975年公開。
 このときアンゲロプロス、40歳。






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 早稲田松竹にて観劇。こういう試みには強く感謝したい。1/9まで。
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2007年、「mit Tuba」で
第23回太宰治賞受賞。
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