セガワブログ

小説家、瀬川深のブログ。

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 奈良に行ってきました。学会があるとかまあそういう関係なんですが、最近どうも遠出といえば仕事がらみのことが多くて悲しいですね。しかし、春の大和路をぶらつけるという点では最高のタイミングでした。


 奈良といえば高校の修学旅行以来、実に二十年ぶりの再訪です。これだけ時間が空けば記憶なんて至るところが磨滅して穴だらけになっていることをつくづく実感しました。
 たとえば鹿のこと。学会会場は東大寺とか春日大社のすぐ近くなので、きわめてナチュラルにそこいらに鹿が群れているのに感動しました。これだけ鹿がうろうろしていれば間違いなく記憶に残ってしかるべきなのに、それがまるで憶えがないんですよ。なので、事実上初めて見たような感動を抱きつつ鹿を見ておりました。
 鹿はいいですね。実に和む。まったく人間の身勝手な視点と言うことは承知の上で、それでもどことなく思慮深そうに見える動物とそうでない動物というのがあるような気がするんですが、その点、鹿の面構えは絶妙です。深淵を覗き込んでいるような表情と、なにも考えてなさそうな表情が混在していて、こっちも思わず鹿の横顔に見とれてしまいます。まあその点、奈良の鹿なんぞは人擦れの極地にあるでしょうから、外人に抱きつかれようが中学生に追っかけられようがまるで動じず、どのニンゲンがおやつをくれるのかだけを冷徹に品定めしているのかも知れませんが。


 ついでに、空き時間で東大寺の大仏さまも見て参りました。さすがにこちらは記憶に残っています。なにしろあの大仏さまと来てはやたらにでかいので(実際の高さはどうあれ、足下に寄ったときに体感できる大きさがやけに大きい。これはいったいどういうからくりなんでしょうか)、ちっとも言うことを聞かない生意気盛りの中高生までがやけに感心して「でけえなあ」を繰り返していたことが印象深かったからなんですが。
 で、それからおよそ二十年の星霜を経て眺め上げた大仏さまは、やっぱりでっかかったです。いやあ、すごいなあ。ぐぐいとこちらを睥睨してくる大仏さまから伝わる、皮膚感覚としての質量がやたらに大きい。それに加えて、さすがに二十年も年を取ればほんのちょっぴり知恵も身に付いていて、これが天平文化の粋であるとか、千三百年前の日本国が国の威信を懸けて鋳造したものであるとかいったていどのことは理解しているわけです。その上で大仏さまを見上げると、やはり、迫ってくる感動の質が違ったように思いました。いや、よくもまあ、作ったもんです。すっかりすれっからしになってしまった現代人にしてこうなんですから、昔人の驚きというのは並大抵のものではなかったでしょうね。「大きいものはすごい」という非常に原始的な人間の感覚を存分に刺激したのではないかと思います。山岳信仰なんかも、元を辿ればそういう率直な畏敬の念に端を発するのではないでしょうか。
 それにしても、宗教というのはまるで明るくない分野ですが、仏教の「聖人を大きくしてしまう」という発想は面白いです。キリスト教徒かイスラム教なんかは偶像崇拝を禁じておりますからでっかくするのは伽藍にとどめていたようですが。といって東方正教にはイコンというものがありますけど、あれもイコンそのものをでかくするという発想はなかったようですしね。リオ・デ・ジャネイロやリスボンのキリスト像なんかはでかいキリストですけど、あれはどっちかと言えばモニュメンタルなものなんでしょう。信仰の中心にでかい聖人像があるという構造は、率直な明快さに貫かれていていいもんだなと思います。大きいものはありがたいのです。
 そして嬉しいことには、自分より確実に二十年は年若い中学生たちも、大仏さまを見上げて大そう感動しているようでした。千三百年前、天平の世の大和人や渡来人もそうだったでしょうね。人間千年ぽっちじゃたいしてかわりはしない、そんな奇妙な感慨を得た東大寺再訪でした。


 奈良についてはもう一つ、大変貴重なものを見ました。学会の懇親会なんですが、パーティーのアトラクションということで、舞楽を見る機会に恵まれたんですね。雅楽を伴奏にした舞踊です。南都楽奏所というところの演奏で、何でもその端緒は奈良時代にまで遡るとか。大変に由緒のある雅楽であります。見た演目は「蘭陵王」。中国の北斉の王様にちなんだ舞曲とかで、それが唐代に盛んになって日本に伝えられたというのですからこれまた筋金入りの由緒であります。これが、まあ、なんとも面白かった。
 当方、雅楽の素養などありようもないことを承知でお読みいただきたいのですが、とにかくその動きが徹底して禁欲的であることに驚きました。おそらく、いっさいの所作にほとんど音を伴わない、抑制され制御された動きです。言い忘れましたが、演じられたのは奈良公園の芝生の上、背後に山を背負った星舞台です。そこで、ほとんど動いてはいないのではないかと思われるほど緩慢な所作、まるで揺らぎだけで構成されているかのような音楽、これが次第に流れを早めてゆくにつれて気付いたことですが、一つ一つの動作が恐ろしく鮮やかに感じられてくるのです。一瞬の身の翻り、天を指し地を踏みしめる動作(ここで明らかに演者は音を立てて足を踏んでいます)、日常の雑然としたノイズの中では見逃されてしまうような動きが、これほどに明瞭に感じられるとは思わなかった。戦に優れた美貌の若き王に縁起を持つらしいこの舞が、確かにどこか荒々しいものを包含していると感じられた瞬間でした。
 奇妙なことですけど、ここでまず連想したのはアントン・ヴェーベルンの音楽なんですね。あの一つ一つの音が恐ろしく大きく強く響くと感じられる瞬間がある、極度に切りつめられた音楽。千年を超える日本の伝統音楽を理解するのに新ウィーン学派の作曲家を引っ張ってくるとはいかにもペダンチックな逆説のようですが、悲しいことにこれが自分の教養の限界のようです。日本におけるいびつな文化土壌の、反映かも知れません。もちろん、西洋が遠大な遠回りをして到達したところに上代の宮廷が先んじていたなどと言うレトリックを弄するつもりはないのですよ。人間がなにものかを表現しようとするとき、そこにはいくつものやり方があって、古代の中国人や日本人はその抽象化がきわめて優れていたのではないか、自分の狭い範囲の見聞で言えることはそれだけです。
 そして、こういう一種の凄みに時おり邂逅できることがあるのだから、文化というのは侮れない。それは場合によっては千年以上の時間を経て、むかしびとの逡巡や創意工夫を伝えてくれるものであるわけですから。ナショナリストを標榜するつもりはありませんが、この日本という国も、なかなか捨てたものではありませんよ。


絵馬_ミサキラヂオ


 ついでながら、東大寺に絵馬を奉納して参りました。滅多に絵馬なんか書かないんですけどね、普段は他人の絵馬を眺めてニヤニヤしてるだけなんですが。趣味悪いなあ。
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2007年、「mit Tuba」で
第23回太宰治賞受賞。
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